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100以上の国と地域で約4万店を展開する国際的なハンバーガーチェーン「マクドナルド」。その記念すべき1号店はアメリカのカリフォルニア州にあったが、現存しない。
創業者であるマクドナルド兄弟と、経営権を引き継いだ2代目経営者で熾烈な争いがあったことが原因だ。ファーストフード界の巨人、その知られざる誕生秘話をお届けしよう。
■映画業界から転身。外食産業で革命を起こしたマクドナルド兄弟
世界恐慌が吹き荒れる1930年の前後。米国東部ニューハンプシャー州から、アメリカンドリームを求めて西部のカリフォルニア州にやってきた2人の男がいた。
兄の名はマック、弟の名はディック。マクドナルド兄弟だ。2人は映画スタジオの道具係などで働き、映画プロデューサーになることを志したが、うまく行かなかった。
経営不振の映画館を買い取るも結局、閉鎖した。お金がなく、映画館の近くの売店で買ったホットドッグで食事を済ませていたが、ホットドッグ店の店主の奮闘ぶりを見て、外食産業に転身することにした。
競馬場の近くで売店を経営した後、白羽の矢が立ったのが、ロサンゼルスから東に90km。住民の大半が労働者だった人口10万人の新興都市サンバーナディーノだった。
大陸横断道路ルート66が走るこの地に、マクドナルド兄弟は、1940年5月15日にドライブインを併設したレストラン「マクドナルド・バーベーキュー」を開店。売上げは良かったが、さらなる効率化に向けて1948年に大規模なリニューアルをした。
Fun Fact: SBVC was already 14 years old when the McDonald brothers founded the first McDonald’s restaurant in 1940, just down the road from the college at E and 14th Street in San Bernardino. pic.twitter.com/8rva7OB6gN
— San Bernardino Valley College (@sbvalleycollege) August 16, 2018
サービスとメニューを最小限にして時間の短縮を図ったのだ。接客担当の従業員を廃止し、セルフサービス方式になった。バーベキューとサンドイッチの販売をやめて、メニューを売上げの80%を占めるハンバーガーとフライドポテト、ミルクシェイクなどに簡素化した。厨房を工場の組立ラインのように分業化して、流れ作業で調理をできるようにした。
紙袋と紙コップで商品を提供するようにして食器洗い機も不要になった。いわば、ヘンリー・フォードが自動車産業でおこした革命を外食産業でも成し遂げたのだ。弟のディック・マクドナルドは、店舗リニューアルの理由を以下のように回想している。
「時間短縮の方法があるはずだと、ふたりでよく話し合ったっけ。駐車場は車であふれ返ってた。客から急かされたことはなかったけど、スピードアップが喜ばれるという直感はあった。あらゆるものが高速化に向かっていた。スーパーマーケットも安売り雑貨店も、セルフサービス方式に切り替わってたし、うちの業態がセルフサービスになるのも時間の問題だった」
(デイヴィッド・ハルバースタム著『ザ・フィフティーズ1』ちくま文庫)
「マクドナルド・ハンバーガー」としてリニューアルした店舗は、テイクアウト中心のセルフサービスの店に生まれ変わった。「有名なマクドナルドのハンバーガー、紙袋でお持ち帰りできます」の宣伝文句を看板に掲げた。15セントでハンバーガーを提供した。この店は行列ができる人気店となった。
#TBT
This is the McDonald brothers San Bernardino McDonald’s restaurant 1948-1955. It was in this restaurant that Dick and Mac McDonald perfected their Speedee Service System featuring a limited menu including fifteen cent hamburgers, shakes and fries 😀 pic.twitter.com/3jldS2bYvO— McDonald's Blackpool (@mcd_blackpool) August 5, 2021
■ミキサー業者がフランチャイズ権を得て全米展開。その一方で摩擦も
マクドナルド・ハンバーガーは、ビジネスマンの間で話題になった。何人もの人物がマクドナルド兄弟にフランチャイズ化の話を持ちかけたが、サンバーナーディーノ店だけで相当な収益を得ていた兄弟は消極的だった。
2人は子どもがいなかったので事業を継がせる考えもなく、テニスコートのある豪邸に住み、毎年(高級車の代名詞である)キャディラックを新車に乗り換える暮らしに満足していたと、ジャーナリストのデイヴィッド・ハルバースタムは綴っている。
しかし、兄弟を心変わりさせた人物がいた。同店にミルクシェイクをまぜるミキサーを納入していたシカゴ出身の実業家レイ・クロックだった。1954年ごろクロックは兄弟を説き伏せて、まだ9店舗しかなかったフランチャイズ店の統括責任者になった。
やがて、完璧主義者のクロックはフランチャイズ店を厳しく品質管理させる手法で、全米に店舗を急拡大させていく。1955年にクロックが設立したフランチャイズ本部の加盟店は同年はわずか2店だけだったが、1960年には228店にまで増えている
しかし成功の影で、クロックとマクドナルド兄弟の軋轢は増した。看板やメニューなどのいかなる細かい変更も、兄弟のサインが必要という契約があり、クロックの事業展開にとって障害になっていたからだった。
結局、クロックはマクドナルド兄弟から、ロゴから名前までマクドナルドの全ての権利を50万ドルで買い取りたいとオファーした。しかし、兄弟から提示された金額は270万ドルと巨額なものだった。
クロックは複数の大学財団から融資を受けることで、なんとか270万ドルをかき集め、1961年にマクドナルドの経営権取得に成功した。
■1号店をめぐる熾烈な争いが勃発
しかし、クロックには一つだけ心残りがあった。マクドナルドの全ての権利を売り渡したはずのマクドナルド兄弟が、1号店であるサンバーナディーノ店の経営権だけは手放さなかったからだ。2人はこの店舗を手放すのであれば、マクドナルドの事業譲渡に関わる全ての契約を破棄する意向まで示した。クロックは記念すべき第1号店を諦めざるを得なかった。
煮え湯を飲まされたクロックは、ただ引き下がるつもりはなかった。ハルバースタムの著書によると「元来わたしは復讐を考えるたちではないが、今回に限っては奴らに目にもの見せてやるつもりだ」と当時、友人に打ち明けていたという。
クロックの復讐。それは新しいマクドナルドの店舗を、マクドナルドの名前を使えなくなったサンバーナディーノ店の向かいにオープンすることだった。自伝『Grinding It Out: The Making of McDonald’s 』の中で、クロックは次のように振り返っている。
「私も嬉しかったが、ただひとつ、魚の骨のようにのどに引っかかる部分があった。それは、マクドナルド兄弟がサンバーナディーノにある1号店を残すことに最後までこだわっていたことだ。従業員に経営させるつもりだったのだ。なんという腐った手口だろう!私はあの店からの収入が必要だった。カリフォルニア州全体で、これ以上の立地はない。私は必死でそのことを訴えた。でも、無理だった。彼らはこの店を維持することにこだわり、もし手放す場合は、すべての取り決めを撤回する意向だった。私は結局、ビッグMと名前を変えたマクドナルド兄弟の店の向かいに、私はマクドナルドをオープンすることで、彼らを閉店に追い込んだ」
こうしてマクドナルド1号店は、かつての仲間によって名前を奪われた上に、閉店することになった。この骨肉の争いの模様は、2017年の映画『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』で詳しく描かれているので、興味がある方はご覧になってはいかがだろう。
ちなみにマクドナルド1号店の跡地は現在、博物館になっている。オンライン雑誌「アトラス・オブスキュラ」によると、店舗は1971年に取り壊されていたが、1998年に現地のレストラン経営者が買い取った。非公式の「マクドナルド第1号店博物館」をオープン。膨大なグッズを展示し、マクドナルドの創業時を振り返る内容になっているという。
【参考図書】
- 『ザ・フィフティーズ1』デイヴィッド・ハルバースタム著/峯村利哉訳(ちくま文庫 )
- 『成功はゴミ箱の中に』レイ・クロック、ロバート・アンダーソン共著 /野崎稚恵訳(プレジデント社)
- 『ビッグマック : マクドナルドに学ぶ100億ドルビジネスのノウハウ』マックス・ボアーズ、スティーブ・チェーン共著/山田修訳(啓学出版)
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知ってた?マクドナルド1号店は、向かいのマクドナルドによって閉店に追い込まれた。チェーン黎明期の熾烈な争い