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私は今ウクライナに住んでいる。
週末の今朝も空襲警報が続いていて、自宅近くの地下にある防空壕に入った。
いつも持っているリュックサックには身分証明書や救急キット、充電器、懐中電灯などがびっしり詰まっていて、かなり重たい。
どうやらミサイルは発射されていないから、たぶんあと少しで警報が解除されると思う。昨日は防空壕で4時間待った。最近、連日のように警報が鳴り響く。
戦後最大ともいわれる人道危機の現場
ロシアによるウクライナ侵攻が始まって2日後の2月26日から、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の緊急支援チームの一員として、戦後最大ともいわれる人道危機への初動対応に加わった。何千万もの人が避難を強いられる中、状況は刻刻と変化し、ニーズは膨れ上がり、何が起こるのかまったく予測不能だった。
ウクライナ人の同僚はみな、自身も避難を強いられ、大切なものが毎日失われる。起きていることが信じられないという動揺と悲しみの中で、みんな手探りで、でも必死に働いた。
3カ月のミッションが終わり、国境を越えて、ポーランドの小さな街のホテルにチェックインしたときに、ベッドに倒れこんだのを覚えている。
空襲警報を気にせず眠ることができたのが久しぶりで、そのまま朝まで眠り込んだ。
戦地に赴くのが初めての私のミッション。報告担当官としてどれだけの攻撃を、どれだけの数の死を、どれだけの悲惨な状況を現地から伝えただろうか。不慣れで、心も身体もヘトヘトだった。
それでも、またウクライナに戻り、しばらく赴任することを決めたのはなぜだろう。親はさぞかしショックだったと思う。当初、日本でもウクライナの戦況が日々報道され、毎日、無事でいることを願ってご先祖様にお線香をあげていた母。ウクライナから電話したときには、心配だと泣いていた。母の涙声に、私も涙が出た。
続く停電と凍てつく寒さ
夏にウクライナに戻ってから季節は進み、12月下旬の今日の気温は氷点下5度。道路はつるつるに凍っている。
エネルギーや電力施設への攻撃が続いていて、ウクライナ全土では大規模な停電に加え、多くの人が暖房、水へのアクセスを失っている。ここ数日は私のアパートも停電が多く、部屋の中はひんやりと冷たい。凍える冬が「武器」となってしまった。
風呂桶には黄色い水が溜まっている。いま、キーウの水道水は特に黄色い。
断水がしばらく続いたら、この溜めている水が必需品だ。今まで縁のなかったキャンプ用品店にも足繫く通っている。ろうそくにミニガスコンロ、ソーラーランプに非常用食品。ちょっとしたコレクションが並んだ。
家のクローゼットには寝袋をセット。夜中に警報が鳴ったら、クローゼットの中で寝ることにしている。万が一のとき、崩れた外壁や割れた窓ガラスから自分を守ることができるように。
もちろん、攻撃があって、迎撃ミサイルの爆発音で空が震えるとき。ドローンが近くのビルに落ちた時。電気が落ち、暗闇に包まれるとき。緊張する場面はたくさんあるけれど、大切なのは高いリスクに対して、しっかりと知恵をつけ、できる限りの準備をすること。同僚たちが教えてくれた。
非日常の中の「日常」を守る意味
同じように、生活を諦めないことも教わっている。
戦時下でもキーウの街にはエネルギーが溢れている。もちろん、警報や攻撃の間は細心の注意を払いながらも、そうではない時間は、みんなレストランに行ったり、買い物したり、子どもたちは公園で雪遊びをしている。
サッカーワールドカップだって盛り上がって、日本の快進撃に、たくさんの人たちにおめでとうと声をかけられた。
「どんなことがあっても自分たちの生活は絶対に譲らない。壊されない」
そんな気合とたくましさをウクライナの市民のみなさんからは感じる。非日常の中での「日常」を守ることは、精一杯の戦争に対する抵抗なのだ。そして生き続けていくための防御反応でもあると思う。
一方で、戦闘が激しい東部、南部では、どんなに力強くいようとも、生活が無残に破壊されてしまった人が多くいる。
人道支援が必要な人は1800万人近い。家に戻れず、避難生活を送る人。破壊された家に残る人。戦闘が行われている最前線で、耐え抜いている人。
私が働くUNHCRは政府と連携しながら、毛布や冬服、ヒーターなどの支援物資を届けたり、壊れた家を修復したり、病院や学校に発電機を届けるなどの防寒支援を急ピッチで進めていている。
精神的ケアの提供も重要だ。戦争によって心に傷を負ったり、トラウマを抱えたりしてしまった人は後を絶たない。笑顔を失ってしまった子どもたちも多くいる。
言葉にできないウクライナでの日々
私は元アナウンサーだけれど、ウクライナでの日々は、言葉にできない瞬間ばかりだ。本当にうまく表すことができない。
支援している避難所で会った高齢のご夫婦。危険が迫り、ぎりぎりまで粘ったけれど、ウクライナ東部から避難を余儀なくされた。
来年、結婚50周年を迎えるそうで、その時にはどんなに街が破壊されていたとしても、家がぼろぼろでも、故郷に戻りたいと話していた。
おじいちゃんは、私たちが届けた青のセーターを着ていた。帰り際、ありがとうと、ぎゅっと手を握られた。感謝されたことよりも、どんなに残酷な経験をして多くのものを失っても、人への思いやりを忘れないご夫婦の温かさと、強く握ってくれた手の感触に、胸がいっぱいだった。
ミサイル攻撃の後、緊急停電した夜。懐中電灯を照らしながら家へと帰っていたら、周りがみんな空を見上げていて。何事かと思って見上げると、星が本当にたくさん見えた。街があまりにも暗くて、空が変に明るかった。綺麗なのか、悲しいのか、よくわからなかった。
先日、駅でイチャイチャしているカップルを見かけた。
普段だったら、他のところでやってよ、なんて思うのだけれど、女性は大きなカバンを持っていて、目にいっぱい涙をためている。国を出ることのできない彼と、これからおそらく避難をする彼女。ずっと二人が一緒にいられる時間が続けばいいのに、と願ってしまう。
日本からの想いは形に
ウクライナの戦争について、日本ではまだどのくらい報道されているだろうか。
人々の関心は移り、動いていくものだというのは、メディアで働いていたから、よく知っている。それは自然なことだとも思う。
でも、現場からひとつ伝えたいことがある。それは、日本のみなさんの想いは、ちゃんとウクライナで形になっているということ。
支援の現場に行って、私が日本人だと知ると、「チュドーヴィ!」「素晴らしい!」とポジティブな言葉のシャワーばかり。
そして、「どうして、こんなに遠く離れているウクライナにいる私たちを支援してくれるのか」、感謝を伝えて欲しいと言われる。「平和を願う気持ちで繋がっているから」、と答える。そんなとき、私は国際公務員だけれど、日本人であることをとても嬉しく思う。
厳しい冬を乗り越えた先には、どんな春が待っているだろうか。悲しみや、切なさや、怒りや温かさ、絶望と希望がごちゃまぜになった、言葉にできないウクライナで、懸命に生きるウクライナの人たちの横で、できることがあるのなら、もう少し頑張りたいと思う。
(文:青山愛 編集:毛谷村真木)
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元アナウンサーの国連職員・青山愛さんが伝える人道危機の現場「言葉にできないウクライナ」