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レストランに1人でいた私に男性が放った4文字の言葉。その一言が長年頭から離れなかった

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「こんにちは」

アメリカ・カリフォルニア州のレストランで食事をしようとしていると、20代ぐらいの男性に声をかけられた。口角を上げ、顔には笑みをたたえていた。私とすぐに目を合わせることはせず、辺りに目をやり、あごを触りながら、「君がもっと早く来てたら『僕らとご一緒しませんか』と誘ったのに」と言われた。

誘ってくれた気持ちへの感謝を笑顔で返しはしたものの、私は自分の時間を楽しんでいるところだった。その男性はそれで去っていくのではなく、続けた。「なんか申し訳なく感じてしまって。孤独そうで」

孤独そう…

この4文字の言葉が、胸にずんとのしかかってきた。これまでに幾度となく言われてきた言葉だった。

「ありがとうございます。でも、孤独ではないので。まったく大丈夫なので」と少しばかり必死になって伝える自分がいた。

すぐに男性から目をそらした。嫌なやつ。わざわざ人のところにやってきて、惨めに見えますって言うなんて一体どんな人間なの?恋人と手をつないで去っていく男性を眺めながら、「孤独そう」という言葉が光を反射したほこりの粒のように漂いながら私のことをあざ笑わらっているような気分になった。

「サイレント・ジェネレーション」といわれた両親世代から続いていることかもしれないが、社会はいまだに「結婚していること」と「子どもがいること」を「価値」「成功」「幸福」を測る目安にしている。

私自身、この価値観を信じてきたこともあり、独身のままでいることは簡単ではなかった。他人の目が気になるだけでなく、自分の中の悪魔の声が「負け組、不良品、失敗作」と断罪してくるのだ。

【画像】高校時代の筆者(1982年撮影)

男性が去ったテーブルに1人、「さっきのやりとりはあの人に非がある。私に問題があるわけではない」と自分に言い聞かせた。滞在していた宿の年配の主が「料理がとってもおいしくて、和気あいあいとした雰囲気を気に入ると思うよ」と勧めてくれたレストランだった。

確かに古びた木製のドアを開けてレストランに一歩足を踏み入れた瞬間、雰囲気が気に入った。「1人です」と店の人に伝えると、温かい笑顔で迎えてくれた。例の若い男性がこちらをじっと見ていることには、席についた時点で気づいていた。

今話したのは、23年前に起きた出来事だ。南カリフォルニアに引っ越ししたばかりで、海岸沿いを車で走り、4日かけて新天地を探検していたところだった。とても楽しみにしていた休暇だったが、もう聞き飽きるほど聞いた心の中の断罪の声がどんどん大きくなるような気がした。運ばれてきたワインととパスタ料理をすぐにでもやっつけて、できるだけ早くその場から立ち去りたい気持ちになった。

手作りのデザートを断り、落胆した気分を引きずりながら宿に戻った。2階まで階段を一段飛ばしでのぼり、喉元につっかえを感じながらも鍵を開けて部屋に入った。ベッドに崩れるように倒れ込むと、涙があふれてきた。心の囁きに負けてしまったのだ。

いつもまわりの人と違うと感じていた。4人兄妹の末っ子で、女の子は私1だけ。物心がつく前からディズニーのおとぎ話の世界を信じ込み、キスやガラスの靴がお姫様を悪者たちから救い、「ずっと幸せに暮らしましたとさ」という結末に導いてくれると信じて疑わなかった。

ところが、中学生になり、相手がいないと成立しないのかもと気づき始めた。どうやら私は当てはまらないのかもしれない、と。

ある日の午後、親友3人と遊んでいると、ラジオから男性レポーターが低い声でこう話すのが聞こえてきた。

「女性の4人に1人が結婚しません」

数字を噛み砕くようにみんな深く沈黙し、はっと息をのんだ。「夫や子どものいない寂しい人生を送るって考えるだけで恐ろしい」と話す友人たちの横で、私は自分が4人のうちの1人になるだろうと予感したのだった。

どうしてそう思ったのか?

私は常に強くあろうとしてきたし、独立心が非常に強かった。「産科のお医者さんに『触らないで。自分で出るから』って言いながら生まれてきたんだから」と母にからかわれるほどだ。他人に指図されるのは嫌だし、できることなら妥協はしたくない。助けを求めるのも、助けてもらうのも苦手だ。

高校時代に付き合った相手は大学生だった。初めてのちゃんとしたボーイフレンドで、最初のうちは年上の男性と一緒にいることがうれしかったが、そのうち息苦しくなった。貴重な時間を求められるようになり、自分に関心を向けてほしいとも言われた。優しい人だったが、常に私に対して面倒をみてあげるという姿勢だった。

ある夜、ボーリングの仕方を「教えて」くれようとした。ボーリングはやったことがあったし、結構うまい方だったのに。

そんな私に母からお小言があった。「もう少しゲームを楽しむべき」(デートの話で、ボーリングのことを言ったのではない)、「一歩下がって、男の子に手を貸してもらいなさい。そんなに強さを見せないで」。つまり、母に言わせると、女の子は負けず嫌いや自立心が強くあるべきではないということだ。でも、自分らしくせずに本当に幸せになれるのだろうか。

21歳の誕生日を迎えてまもなく、両親とハワイ旅行に出かけた。お土産屋さんで、母が欲しいものを見つけた。買っていいかと父にお願いする母の姿を少し離れたところから見ていた。ゆらゆらと揺れるフラガール人形の売り場の後ろに隠れながら、耳を澄まし、そして思った。「絶対にあんなふうにはなりたくない」

何を手に入れられて、どんな発言ができて、自分が何者になりたいかということについて、制限を設けられることを受け入れてはならない。

大学卒業後も交際相手はいたが、相手の男性たちを欺いているかもしれないという不安が常につきまとった。 「一生添い遂げる」という多くの女性が掲げる理想が私にはなかった。結婚することを拒んだり、子どもが欲しくないと打ち明けたりするたびに、交際相手との間には不協和音が生じた。

恋したいし、相手との親密さを求めていないわけではない。ただ、常に誰かと一緒に過ごすことができない。それでもいいと言ってくれる相手を見つけるのは非常に難しい。

単刀直入に「どうして結婚していないのですか」と聞いてくる人もいる。その場にいた人全員が黙り込み、私がどう答えるか様子をうかがわれたこともあった。

みんなどんな答えを期待したのだろう。「昔レストランで声をかけてきた男に『孤独そう』と言われ、この20年間牢獄にいる気分で過ごしています」。あるいは「大学を卒業してから、オーストリアのアルプスで歌う修道女たちと引きこもっているんです」とか?

どうしてみんな説明をもらえるのが当たり前だと思うのだろう。ぶつぶつ言いながらも、縮こまってしまった自分がいた。結果として、自分自身について残念に思うはめになった。

「なぜ独身なの?」というような質問には、後々になって批判が込み上げてくる。恋人のいない私の人生はいる人のそれに比べて充実感に欠け、より不完全なものだという、長年にわたって組み込まれてきた懸念を解き放つものだったからだ。

「結婚していないことで、感情的な未熟さがあるね」と言われたこともある。折り合いをつけたり、一緒にお金を貯めたり、重大な決断をするにあたり共に考えたり、恋人がいるからこそ得られるメリットを逃してしまっているのだという。だけど、そのことが人間として成熟することとどう関係するのだろうか。社会的にもっと受け入れられるようになるかもしれないが、完全で、真に、円熟し、完璧な人間になるという説には疑問を感じる。

私にも誰しもと似たような機会もあれば、課題に直面するという経験もある。いずれの場合も、自分自身で決断し、行動に移してきた。

どこに引っ越すかを自分で決め、家賃や自動車関連の支払いを滞らせることもなく、トイレの詰まりも自分で直すし、旅行にも出かける。マイカーに飛び乗って、いろんな街を探索し、美術館やコンサートに行く。誰も私の旅行プランを邪魔できない。

ソロ活しかしないというわけではない。友だちや家族と一緒に過ごすことも好きだ。恋人がいないという理由で、人生を最大限に楽しめないという状況をつくりたくないのだ。やりたいと思うことには、何でも挑戦するつもりだ。

時に寂しさを感じることはもちろんある。直面する問題に押しつぶされそうになり、誰かに手を貸してほしい、もっと言えば誰かの手に自分を委ねたくなることもある。けれど、そんな気持ちも課題解決の糸口を自力で見つけると同時に過ぎ去っていく。

障害物の先にあるものを見る能力があり、物事がうまくいかなくても、そう長くかからずに軌道修正することができる。それに、私は1人ぼっちではない。愛を分かち合い、サポートしてくれる人たちがまわりにいる。寂しさを感じるたびにそのことを思い出すと、すぐにまた大丈夫になるのだ。

パートナーがいれば孤独を感じないということではないとも思っている。恋愛関係にあっても寂しさを感じている人は少なくない。

ようやく自分のやり方で世界を切り開いていくための平穏と静寂と自由を称えることができるようになった。人生の早い段階で下した劇的な決断だったと言いたいところだが、実際のところはもっと複雑なものだ。意図的に選択するということが常につきまとい、「調和」と「本来の自分を失う恐れ」の間で葛藤する日々だ。

こうやって生きてきた日々を通して重要な気づきがあった。それは、「私vsまわりの人たち」ではなく、「私vs私」だということ。外部の評価に自分を定義させないための闘いなのだ。

 40代に入ると、私たちはみんな本来いるべき場所にいると心から思うようになった。50代後半になると、真の自分の声を見つけるため、人生を変えるような文章の書き方を学ぶ教室に通い始めた。自分自身の人生や経験について書くようになり、著作を通して世界に貢献できていることや読んだ人が何者かに気づく手助けができることをうれしく感じた。こんな私をあるがままに受け入れ、応援してくれる人たちがまわりにいてくれた。

60代を迎えるのは最高の気分だった。あるがままの私を受け入れ、望むものは望んでいいし、そうでないものを求める必要はないのだと確信できた。

【画像】カナダでカヤックを楽しむ筆者(2023年撮影)

他人からの評価に左右されないために意識的に判断し、外部の声に影響を受けてしまった過去の自分のことは許してあげる。結局のところ、他の誰かがどうこうではなく、信頼の仕組みは個人的なものであり、外野の声に惑わされずに自分自身を受け入れることが大事なのだ。

こう確信してからは、人々が示すさまざまな反応に興味を持つようになった。もう誰かに私が孤独だと言わせはしない。こういうふうに考えるようになったことと、あとは年齢という手助けもあって、他人がどう思うか気にしないで済むようになった。

ここに来るまでに気づいたこととして、私たちはみんなそんなに変わらないということがある。旅行に行き、発見をし、学び、成長し、愛し、つながり、貢献するーーおのおのがそれぞれ独自の面白みを社会に提供しながら。

このあいだ、1人で車を運転し、2週間ばかりカナダに旅行してきた。現地の伝統料理に舌鼓を打ち、地元の人や旅行者との会話を楽しみ、人間観察もした。

一瞬たりとも場違いさを感じることはなかった。むしろ、レストランでは自信を持って「1人です」と告げ、社会の期待に逆らおうと頑張っていた昔の自分を受け入れたのだった。

◇     ◇     ◇

筆者のローラ・リー・エレン・ジョンソン氏はアメリカ・デトロイト州を拠点に「パーソナル・ブランディング・ストラテジスト」として活躍している。独身・子どもを持たない・社会の制限を突き破ることなどをテーマに執筆活動も行なっている。

ハフポストUS版の記事を翻訳しました。

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レストランに1人でいた私に男性が放った4文字の言葉。その一言が長年頭から離れなかった

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