※2024年にハフポスト日本版で反響の大きかった記事をご紹介しています。(初出:2024年5月24日)
私の腕に止血帯を巻き、注射針を準備する看護師から目を背けた。採血をしている患者は私一人で、他の人は皆、抗がん剤投与を受けていた。
私は脳卒中を発症した後、かかりつけの神経科医の紹介でこの血液腫瘍科を訪れていた。
脳卒中の原因がわからなかったため、神経科医がリンパ腫や白血病、サラセミア、血液凝固障害など血液の病気の可能性がないか調べた方がいいと勧めたのだ。
看護師は私の腕に注射針を刺しながら、「リラックスしてくださいね」と言った。
私は「じっと見ていてはダメだ」と自分に言い聞かせ、看護師が9本の採血管の1本目を交換する時に目を閉じた。
その1時間前、私は血液腫瘍科の医師の診察を受けていた。彼は私に背を向けた状態で問診票の回答をコンピューターに打ち込みながら「紹介医は?」と尋ねた。
「かかりつけの神経科医です」
「最後に検査を受けた日は?」
「入院前ですか?」と私は尋ねた。
「そう」
「2カ月前に婦人科を受診しました」
「手術は?」
「心臓医が不整脈をチェックするために胸の下にループレコーダーを付けました」
「なぜ?」
「2週間前に脳卒中を起こしたのですが、原因がわからないんです」と私は答えた。「検査結果をご覧になりますか?」
「いや、その必要はありません。性行為をしていますか?」
私は言葉に詰まった。
「答えなくても大丈夫です」と医師は答えた。「主な症状について簡単に説明してもらえますか?」
「脳卒中のですか?」と私は尋ねた。
「そうです」
私は、脳卒中が起きた時の症状が、彼の専門分野である血液と何の関係があるのだろうと思った。
しかし専門家はこの医師であり、私は彼を必要としていた。私は深呼吸をして、キーボードに手を置いてじっと待つ医師に向かって説明を始めた。
「午後5時45分に、私は友人と一緒に食事をするために着替えようと、ソファから立ち上がりました。ジーンズを膝から引き上げようとした時、体勢を崩して、床に崩れ落ちたんです。ベッドの端に手を伸ばそうとしましたが、180キロの砂袋の下敷きになっているように感じました。それから……」
医師はキーボードを打つのを止め、椅子を回転させて初めて私と目をあわせた。
「ということは、シャツを着ておらず、ズボンを下ろした状態で床に倒れていたってことですか?」と彼は尋ねた。
「そうです」
「それはとても面白いですね。ズボンを下ろした姿を見られたと言えば、面白い話があるんですが、お聞かせしましょうか?」
私は唖然として医師を見つめた。
「本当に面白い話なんですよ」と彼は続けた。
私は「一体何の話をしているんですか?今はパーティーでバカ騒ぎしている時じゃないですよね?」と言いたかった。
しかしその言葉を吐くと助けてもらえなくなる気がしたので、私は 「そうなんですね」と答えた。
「私の父は大物弁護士で、母と一緒にたくさんのパーティーに招待されるんですよ」
医師が話している間、私は彼が最初に私に向き合ったのが、シャツを着ずにズボンを下げた私の姿を想像した直後だったというショックを隠そうとした。
「母はドレスにシワができるのが嫌で、毛皮のコートだけを着てリムジンに乗ろうとしたのですが、半裸姿をドアを開けた駐車係に見られたんです。我々は『駐車係は、父が母と何かしようとしたと思ったに違いない』と言いましたよ。面白いでしょう?」
「とても面白いですね」と私は答えた。
彼は椅子を揺らしながら笑った。どうやら自慢のネタだったようだ。彼が再びこちらに背中を向けたので、私はほっとした。
医師は「それからどうなったんですか?」と尋ねた。
私はこれ以上、不愉快な話をしなくてすむよう「夫が帰ってきて、病院に連れて行ってくれました」と、わざと短く答えた。
医師は入力を終えると、ドアのところまで私を案内して、若い看護師に「検査の準備をして」と伝え、耳元で何かをささやいた。
私が診察台の端に座ると、看護師は私の体温と血圧を測り、紙製の検査着を差し出してこう告げた。
「医師がシャツを脱ぐように言っています。前は開けておいてください」と言った。
私は受け取らなかった。
「なぜシャツを着ないで診察する必要があるのですか?彼は血液専門医なのに」と私は言った。
看護師は無表情に私を見た。
「彼は誰にでもそうするんですか?」とさらに尋ねた。
看護師は肩をすくめ、私に検査着を渡して部屋を出て行った。
私は、医師は脳卒中が起きた時に私が半裸だったことに一番強く反応したのだ、と考えた。
私はシャツを脱ぎ、紙の検査着を着て前を開けた。医師が部屋に入ってきた。
看護師は診察台から少し離れたところに立ち、カウンターにもたれかかっていた。まるで医師と関わりたくないかのように。
医師は私に歩み寄り、私の首にそっと触れ始めた。私の足は、大人の椅子に座った子どものようにぶら下がっていた。
医師は私に「乳房の検査をします。横になってください」と言った。
私は看護師の方を見て、先ほどの質問に答えてくれるよう目で懇願したが、彼女は目をそらした。
その2週間前、私は脳卒中で倒れた。原因がわからなかったため、かかりつけの神経科医が、血液専門医に診てもらうよう勧めた。この医師を勧めてくれたのは神経科医なのだと思い、私は診察台に横たわった。
私は医師の顔から目をそらし、胸に当てられた冷たくしめった手を無視しようとした。
でこぼこした白い天井のタイルを見て、あれは何でできているのだろうと考えた。
「OK、着替えて看護師に採血してもらってください」と医師は私に告げ、看護師とともに出て行った。
私は診察台に横たわり、胸に手を当てて、自分のものであることを確かめた。
彼の手は、歴史の中で男性が女性の体を所有物のように扱ってきたという事実を私の体に刻み込んだ。
私は立ち上がり、ぬるま湯で湿らせたペーパータオルで胸を拭いてきれいにした。そうしなければいけないように感じた。
採血を受けている間、私は他の患者を見ていた。医師が私の裸を想像し、母親の裸の話をし、私の乳房を触ったことを考えるよりも、その方がずっと楽だった。診察が必要だとも、適切だとも思えなかった。自分のことを考えるより、他の人の治療で気を紛らわせていたかった。
それでも、私は血液検査を受けるために紹介されて来院したのだと思い出さざるを得なかった。乳がんの診察のため婦人科医を紹介されたわけではない。
胸を診察した血液腫瘍科の医師は、マンモグラフィの結果については何も聞かなかった。もし脳卒中に関連した医学的な理由で私の胸を診察するというのでれば、マンモグラフィの結果を知りたいはずではないだろうか?
看護師が9本目の採血をしている間、「血液腫瘍医は、乳房検査をするものなのだろうか?」という疑問が頭をよぎった。
帰宅した後、血液腫瘍医が乳房検査を行う医学的根拠をインターネットで検索した。
シティー・オブ・ホープがんセンターの医学・科学長であるモーリー・マークマン博士はこう説明していた。
「血液悪性腫瘍は他の種類のがんとは異なり、体内の血液細胞に発生して、腫瘍を形成しないことがあります。血液腫瘍専門医の中には、固形腫瘍の治療を専門とする医師もいますが、ほとんどの医師は、乳がんや肺がんのような手術可能ながんの治療は行いません」
さらに、医療倫理には、善行(Beneficence)、無危害(Non-maleficence)、自己決定の尊重(Autonomy)、公正(Justice)の4つの柱があることも知った。
医師が善行に基づいて行動しているかどうかを確認する方法のひとつが、「選択肢とそれがもたらす結果が、患者が求める治療に沿っているか」どうかを尋ねることだ。
私は脳卒中の理由を調べるために血液検査を受けるよう勧められ、診察を受けた。だから、乳房検査についてのこの質問への答えは、間違いなく「ノー」だ。
一線を越える人たちが、権力を濫用し、自分を必要とし信頼する人々を利用するのは珍しくない。
医療従事者は、とてつもなく大きな権力を持っている。患者は医師を信頼しなければいけないが、医師が必ずしも信頼できる相手だとは限らない。
しかし、信頼とは一体何なのだろうか?医療倫理の4本柱に、信頼は含まれていない。倫理的な観点からは、医師は信頼される必要はないのだろうか?
私は、紹介された血液専門医が、私の脳卒中を軽く扱ったり、親の性的な話をしたり、医学的な理由もなく乳房の検査をしたりしないだろうと信頼していた。だから、あの医師にもう会いたくなかった。
しかし残念なことに、私の保険では別の医療機関で血液検査をしてもらうことはできなかった。そのため、数千ドルかけて受けた血液検査の結果を知るためには、再診を受けるしかなかった。
私は母に再診に同席してほしいと頼んだ。母が離婚直後に、新しい男性上司に向かって「私はドアを開けてくれる男性を必要としていない」と言ったのは有名な話だ。母がいれば、体を触りたがる血液内科医を抑制できるだろうと期待した。
再診では、母が医師の正面に座って質問し、私は隣でメモを取ることにした。
医師は「何も問題は見つかりませんでした。娘さんは驚くほど健康です」と説明した。
母は「よかった」と答えた。
「しかし」と医師は言葉を続けた。「経過観察のため、6カ月後に変化がないか確認しましょう」
「なぜその必要があるのでしょうか?」と母は尋ねた。
「私は回復のお手伝いしたいのです。脳卒中を起こすには若すぎますし、健康です。もう一度脳卒中が起きないようにしたいのです」
母は「ありがとうございます、先生」と答えた。「でも、回復に先生の助けは必要ないでしょう。あなたの存在が回復に役立つとは思えません」
私たちは立ち上がり、医師に背を向けて診察室を出た。
私はその日のうちに、ニューヨーク州の患者権利章典を調べた。
第9条には、患者は「提案された処置や治療について、インフォームド・コンセント(医療従事者が患者に必要な診療情報を提供し、本人や家族の十分な理解を得た上で、患者が自らの意思で医療サービスを選択すること)に必要なすべての情報を得られるべき」と書かれていた。
私は、なぜ乳房検査が医学的に必要だと感じたのか、血液専門医の説明を聞きたかった。
第11条では「患者は治療を拒否することができ、それが健康にどのような影響を及ぼす可能性があるかについての説明を受けられる」とも書かれていた。
私はあの医師にこう言えたらよかったのにと思った。
「私は胸の検査に同意しません。あなたは血液専門医で、私は脳卒中で倒れたのでここにいます。胸は関係ありません」
治療の拒否が私の健康にどんな影響を与えたのかについて、彼はどう説明しただろう。
今後は、インフォームド・コンセントに必要な情報がすべて揃っていない時は、きちんと説明を求め、納得できない処置や治療は拒否できるということを忘れないようにしようと思う。
医師にも、医療倫理の4本柱と患者の権利章典を思い出してもらう必要がある。
とはいえ、治癒を受けている時は、身体だけでなく、心や精神も弱くなる。弱い立場の患者でありながら、同時に自分自身を擁護するのは難しい。原因不明の脳卒中を発症した後、私は疲労と恐怖で闘えるモードではなかった。
だから私は診察後、医師の問題ある行動を通報できなかったのだろう。医療関係の仕事をしている友人から、もし私が通報したら、医師はおそらく「胸の周りのリンパ節を触って検査することが医学的に必要だった」と虚偽の説明をするだろうと聞いた。治療中に医療過誤訴訟になることを考えて、その時は思いとどまった。
どんな患者も、戦場に行くかのように診察の準備をしなければならないなど、あってはならないことだ。
しかし医療制度というのは、大きな権力を伴うものでありながら、多くの場合監視の目がほとんどない。診察室では患者と医師のふたりきりで診察を受ける場面は少なくない。
今後重要な診察を受ける時には、私を大切に思ってくれている人に同席してもらおうと考えている。医師と安心して接するためにそこまでする必要はないはずだが、あまりにも多くの人が、弱い立場の患者であると同時に医療戦士でなければならない状況に置かれている。
もし最初から母に同席してもらっていたら、再診時について来てもらう必要があっただろうか、と考えてしまう。
その答えはわからないけれど、私が最近あの血液専門医を提訴した時に、母がそばにいてくれたことを誇りに思う。
編注:個人情報保護のため、登場人物の詳細を一部変更しています。
筆者:K.ペイジ・スチュアート・バルデス。映画監督、作家、教育者。
ハフポストUS版の寄稿を翻訳しました。
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