3月10日の東京大空襲を経験し、火の海の中を家族と逃げ惑った経験を「語り部」として伝えている女性がいる。
上原淳子さん(86)は20年以上、東京大空襲・戦災資料センター(東京都江東区)で、空襲や第二次世界大戦中の経験を語っている。
終戦記念日の8月15日、上原さんは同センターで、会場とオンラインに集まった約70人に向けて当時の記憶を語った。
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連行されて拷問を受けた父「言論の自由もない苦しい日々」
戦時中は7歳の子どもにとっても、つらい出来事で溢れていたと上原さんは振り返る。
戦時体制下でつくられた近所同士の「隣組」では相互監視がされ、憲兵隊は常に目を光らせていた。
上原さんの父親は、家の地下でラジオを聞いていただけで憲兵隊に連行されてしまった。
連行された父親は拷問され、背中いっぱいに傷をつけられ帰ってきた。
「7歳の子どもに何も言うことはできなかったけど、食べ物はなく、言論の自由もなく、毎日が苦しい日々でした」
炎の中で逃げ惑った、忘れられない空襲の夜
上原さん一家が住んでいたのは、深川区深川(現在の江東区深川)。空襲で甚大な被害を受けた地域だ。両親と祖母、姉2人、弟、妹と暮らしていた。
3月10日に大きな空襲が来るという情報は市民の耳にも入っており、上原さん一家も空襲が来る可能性については知っていたが、逃げる場所もなく、そのまま9日の夜を迎えた。
上原さんも、就寝時にはいつでも逃げられるようにリュックサックを枕にして、救急袋を抱えて眠りについた。
警戒警報のサイレンで目が覚め、防空壕代わりにしていた自宅の地下室に家族と逃げ込んだ。
しばらくして避難を呼びかける声が聞こえ、地下室の外を父親が確認すると、既に周りは火の海。家族で必死に逃げ惑った。
「あたりは一面、真っ赤でした。家の近くの学校へ逃げましたが、到着した頃には既に人でいっぱいで入れてくれませんでした。人々は『水、水!!』と叫びながら、川に飛び込んでいきました」
火の海に押され、隅田川にかかる永代橋まで逃げた際に目にしたのは、炎の熱さに耐えかねて川に飛び込み、命を落とす多くの人たちだった。
衝撃的なその光景は、今でも上原さんの脳裏に焼きついている。
「母親におんぶされたまま背中で亡くなっている赤ちゃんも多く見ました。倒れている母親にすがるように寄り添っている幼い子どもの姿もありました」
道には、真っ黒焦げになった遺体が横たわっていた。
またごうとすると死体に足が当たって、肌がずるんとむけた。
「庶民が多く住んでいる深川に、なぜあんなに焼夷弾を落としたのか。絶対におかしいと今でもずっと思っています」
終わらなかった空襲。全身大火傷した弟
上原さん一家は築地で焼け残った親戚の家に身を寄せたが、3月10日の東京大空襲が終わっても空襲は続いた。
「1日おきくらいに空襲がきていた頃は、朝起きたらまず『生きている』と確認していました。空襲で、パラパラパラパラとすごい勢いで降ってくる焼夷弾が自分の頭の上に落ちたら終わりだなと考えていました。
今日落ちてくる焼夷弾でもう終わりかなと、『怖い』という気持ちを通り越して『麻痺』していました」
続く空襲に、このままでは危ないと、親戚一同で長野県の諏訪への集団疎開を計画した。
東京大空襲から約2カ月の5月24日、新宿駅で諏訪に向かう汽車を待ってる時に、またもや上原さん一家を空襲が襲った。
空襲で5歳の弟が全身に大火傷を負った。
医師には「99%助からない」と言われたが、東京に残って治療を続け、一命を取り留めた。
6月になってから諏訪に疎開をしたが、「東京の奴らなんかに食わせるもんがあるか」と食べ物を売ってもらえず、苦しい日々が続いた。
8月15日に終戦を知った時には、「東京に帰れる」と、敗戦したのに嬉しい気持ちの方が大きかった。
一番初めに覚えた英語は米兵が放った“Dirty”という言葉
終戦後は、築地の親戚の家に再び身を寄せたが、周辺の環境は一変した。
アメリカ進駐軍が京橋区(現在の中央区)に駐留したため、家の周りはアメリカ兵で溢れた。
子どもが手を出すと石鹸やチョコレートをもらえ、通訳兵として来日した日系アメリカ人女性が、女性用宿舎が足らずに自宅に居候したことさえあった。
まだ日本語を勉強中だった女性は分厚い辞書片手に、上原さんや家族に日本語を習っていたという。
一方で、日々の暮らしは厳しく、食糧も十分ではなかった。
さらに、衛生状態も悪いためにシラミが湧き、頭から駆除剤の「DDT」を真っ白になるまで振り掛けられた。
家の周辺にもアメリカ人が多くいる環境で、上原さんが一番最初に覚えた英単語は“Dirty”。
アメリカ兵が上原さんに対して放った言葉だった。
後で調べて、「汚い」という意味だと知った。
語り部になって20年。「少しでも経験を伝えたい」
上原さんが、東京大空襲の証言を語る「語り部」の活動を始めたのは、2002年に東京大空襲・戦災資料センターができた時だ。
それまでは、人前で空襲の話をしようとすると涙が溢れて話すことができなかったが、「少しでも経験を伝えたい」という思いで、センターに申し込んだ。
活動を始めた頃、すでに60歳を過ぎていたが、意義を感じて活動を継続し、東京への修学旅行でセンターを訪れる学生などに、空襲の時の経験を伝えている。
現在、パレスチナやウクライナなどで、かつて上原さんが経験したような戦争の最中にいる子どもたちをニュースで目にする度、心苦しい思いでいる。
「戦争というのはどうしても起こしてはならないこと」。この日、集まった人たちに、反戦の意思を持って、行動してほしいと語りかけた。
(取材・文=冨田すみれ子)
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空襲の火の海を逃げ惑った少女は戦後、米兵に“Dirty”と言われた。7歳が生き抜いた残酷な戦争とその記憶