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よく晴れた日曜日の朝の出来事だった。ハワイ諸島のオアフ島にあるアメリカの海軍基地から白煙が立ち上った。日本軍の航空部隊が奇襲攻撃を仕掛けたのだ。日本時間1941年12月8日の出来事だ。
このとき、アメリカ軍の駆逐艦「ショー」や戦艦「カリフォルニア」が爆発炎上する様子を撮影したモノクロ写真。これらをAIを用いてカラー化した物を東京大学大学院の渡邉英徳教授がTwitterに投稿。話題を呼んでいる。
「美しい南国のビーチに似つかわしくない戦争の景色。色が付くと一層際立ちますね」「この光景の再来がないことを願うばかり」などの声が上がった。
渡邉教授らは「パールハーバー・アーカイブ」をネット上で公開しており、ここでは真珠湾攻撃のカラー化写真をマップに合わせて多数、閲覧できる。渡邉教授は戦時中のモノクロ写真をカラー化する意義について、著書で以下のように綴っていた。
「カラー化によって、白黒の世界で『凍りついて』いた過去の時が『流れ』はじめ、遠いむかしの戦争が、いまの日常と地続きになります」
■真珠湾攻撃で爆発炎上する駆逐艦「ショー」
■真珠湾攻撃で爆発炎上する戦艦「カリフォルニア」
■日本軍の狙いが裏目に出た真珠湾攻撃。アメリカの世論は開戦へと傾いた
1941年12月7日午前7時55分(日本時間8日午前3時35分)、ハワイ諸島のオアフ島の海軍基地を、日本軍の航空部隊が奇襲した。これが太平洋戦争の端緒の一つとなった「真珠湾攻撃」だ。
ヒッカム飛行場に爆弾を投下した後、太平洋艦隊が誇る「カリフォルニア」「ウェスト・バージニア」「オクラホマ」そして「アリゾナ」といった戦艦が、日本軍機が投下した爆弾や魚雷によって、またたく間に黒煙に包まれた。犠牲者はアメリカ側の約2400人に対し、日本側は約60人だったという。
主要基地である真珠湾を攻撃することで、アメリカ人の戦意喪失を誘い、短期決戦に持ちこむのが狙いだったが、現実には逆効果となった。
日本の開戦通告は、攻撃の30分前にアメリカ側に届くはずだった。しかし、駐米大使館が本国から受け取った暗号文の解読に時間がかかり、実際にアメリカ側に渡ったのは攻撃の40分後だった。
真珠湾攻撃は「卑怯なだまし討ち」となり、ルーズベルト大統領率いるアメリカ政府は、「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」のスローガンを掲げて、アメリカの世論は、一気に開戦へと傾いた。
また真珠湾攻撃による日本軍の戦果も限定的だった。アメリカ軍の戦艦8隻を撃沈または行動不能としたが、このうち6隻は後に引き揚げられて戦線に復帰。真珠湾を基地とする空母3隻は、ハワイを離れていたため無傷。アメリカ軍の戦力に決定的なダメージを与えることはできなかったのだ。
【参考文献】
・「図説 太平洋戦争 16の大決戦」(河出書房新社)
・「図説 太平洋戦争」(河出書房新社)
オリジナルサイトで読む : ハフィントンポスト
真珠湾攻撃から81年。太平洋戦争の火蓋を切った戦いがカラー化写真でよみがえる