第94回アカデミー賞で『コーダ あいのうた』が作品賞に輝き、耳慣れない“コーダ”という言葉が知れ渡るようになった。
このコーダとは、「聴こえない親に育てられた、聴こえる子ども」を指し、1980年代のアメリカで誕生した言葉だ。そして、本稿を執筆するぼく自身も、耳の聴こえない両親に育てられたコーダである。
コーダは特有の生きづらさを抱えている。「障害者の子ども」として差別や偏見を目の当たりにすることも多く、また耳が聴こえることで、聴こえない親との間にすれ違いが生じてしまうこともある。
しかしながら、コーダの生きづらさはなかなか理解されにくい。耳が聴こえるという事実にだけ着目すればコーダはマジョリティになり、親との“違い”に思い悩む過程が見逃されてしまう。
そんなコーダたちのリアルな姿に迫ったドキュメンタリー映画が公開された。それが『私だけ聴こえる』だ。
監督を務めた松井至さんは、コーダという言葉が生まれたアメリカに渡り、多感な時期を過ごすコーダたちをカメラに収めた。その映像を通し、一体なにが見えてきたのか。非当事者としてコーダたちに寄り添い続けてきた松井さんに、胸の内を聞いた。
居場所を見失い、不安を抱えるコーダたち
松井さんがコーダと出会ったのは、2015年のこと。東日本大震災とろう者の番組を撮影することになり、そこでリポーターとして東北を一緒にまわることになったのが『私だけ聴こえる』にも登場するアシュリーだった。
彼女は英語、アメリカ手話の他に、日本語と日本手話もできたため、その力を借りることになったという。
「地震のあと、津波の到来を知らせるためにろう者の親の元に駆けつけたのが、聴こえる子どもたち“コーダ”でした。
ロケを通して東北に住むろう者やコーダたちの話を聞いていると、次第にアシュリーの表情が曇っていったんです。そして彼女は『わたしもコーダで、聴こえる世界と聴こえない世界の狭間にいるんだ』と打ち明けてくれました。
コーダのなかには居場所がない人もいて、不安定になってしまったり、あるいは自分を抑圧しすぎてしまったりもする。そういったコーダたちの生きづらさを、アシュリーは真剣な眼差しで話してくれたんです」
アシュリーとの対話を通して、松井さんはコーダの世界の一端を知ることになった。そしてアシュリーは、最後にこう口にした。
「まだあまり知られていないコーダのことを、あなたに撮ってもらいたい」
この言葉が契機となり、松井さんはアメリカに住むコーダたちにカメラを向けることになったのだ。
「アシュリーに頼まれたとき、ぼくのなかに一気にイメージが広がっていきました。
ショッピングモールのなかで、小さな子が迷子になっている。泣きながら親の名前を呼んでいる。でも、その子の親はろう者だから、いくら名前を呼んでも聴こえない。その子はそれを理解しているのに、それでも泣き叫んでいる……。
こんなイメージです。つまりコーダは、常に迷子であるような不安と向き合っているのではないか、と思ったんです」
こうして松井さんはアメリカに渡った。まだ見ぬコーダたちの素顔を撮るために。
「わたしの物語はわたしだけのもの」
アシュリーの協力のもと、10代のコーダたちにアンケートを募った。回答してくれたのは50人ほど。そのなかから見つけ出したのが、本編でもメインとなる登場人物として描かれているナイラだった。
彼女は5代続くデフファミリーのなかで育ち、幼い頃からろう文化を身近に感じてきた。一方で、ろうの子たちからは「ナイラは聴こえるから」と仲間はずれになれることもあったそうだ。
「初めて会ったとき、ナイラは『ずっとデフ(ろう者)になりたかった』と言ったんです。聴こえる世界と聴こえない世界という二重の世界で生きるくらいなら、親と同じようなデフとして生まれたかった、と。
社会のインフラの大部分が聴者向けに作られているなかで、コーダはろう文化に生まれ育ち、聴者の社会に出ていく。親と子の違いがどんどん開いてしまう。だからこそ、コーダは『親と同じになりたい』と願うんでしょう。
それこそがコーダが抱えるストレスや不安なんだと感じました。
だけど同時にナイラは、『同情しないで。わたしがどれだけ幸せか知らないくせに、わたしの人生を決めつけないで』ともハッキリ言ったんです。この言葉はその場にいたぼくに向けたものでもあり、カメラの向こう側にいる大勢の聴者に向けたものでもあったのだと思います」
わたしの人生を決めつけないで━━。
毅然とそう口にしたナイラは、当時まだ15歳。一体どれだけの偏見をぶつけられれば、こんな言葉が出てくるのだろう。マイノリティとして生まれたことが不幸に直結するわけではない。誰にだって幸せな瞬間は訪れる。そんな当たり前のことを、松井さんはナイラによって突きつけられた。
「でも、ぼくは大きな失敗をおかしてしまったんです。世界中のプロデューサーや映画関係者が集まる場で本作のトレーラーを発表することになり、そのサンプルを製作していたときのことでした。ナイラにも観せたところ、怒られてしまって」
そのときナイラは、松井さんにこう言ったそうだ。
「わたしが泣いているところを使わないで。あなたはわたしのことを全く理解していないのに、勝手に悲劇的なイメージをつけないでほしい。
わたしの物語はわたしだけのもの。コーダのことはコーダにしかわからないし、あなたにはコーダのことは理解できない」
悲壮感のあるメロディーに乗せて、自身のインタビューが流れる。そのシーンを目にしたナイラは「自分がまた憐れまれている」と感じたのだろう。
「コーダの世界をどのように表現するのか必死だったので、まるで片想いが終わってしまったときのようにショックでした。だったら、ぼくではなくコーダの監督が撮るべきだ、とも考えて。
ただそれ以上に、決してそんなつもりはなかったのに、まだ15歳のナイラにコーダを代表させるという負荷をかけてしまった自分自身に嫌気が差しました」
結局その出来事を機に、撮影はストップしてしまった。
誰かを取材することは「暴力」でもある
コーダのドキュメンタリーを作りたいのに、その当事者から否定されてしまい、撮影ができない。その間、松井さんは「取材者としての自分自身と向き合った」という。
「それまでのぼくは、取材者として他者のことを広めることに正当性があると思い込んでいたんです。その上で、他者の物語を作り出す能力にも自信を持っていた。
でも、それは間違いでした。コーダのことをなにもわかっていない聴者としてのぼくが、ナイラを勝手に物語にして世界中に広めようとするなんて、彼女からしてみたら物凄く失礼なことです」
では、どうすればいいのか。
それまでの経験から培ってきた方法論はもう通用しない。粘り強くコンタクトを取り続け、ようやくナイラから撮影再開の許可が下りたものの、松井さんは焦っていた。そこで見つけたのが、「諦めること」だった。
「ナイラの自宅を訪ねて、『ぼくにはコーダのことはわかりません。だから、ナイラが自分自身のディレクターになって、撮りたいものを一緒に撮りましょう』と言いました。するとナイラがニコッと笑って、『わたしがディレクターでいいのね?』ってとても喜んでくれて。
そのときわかったんです。自分の世界を誰かに代弁されるのは耐え難いことだけれど、自分自身で表現できるのはうれしいことなんだ、と。それからぼくもカメラマンのヒースも、ナイラのアイデアを映像にする役割として動いていきました」
松井さんは言う。「取材とは暴力だ」と。だからこそ取材者は慎重にならなければいけない。「伝える」という行為を盾にして、そこに潜む暴力性から目を背けてはいけないのだ。
「ナイラに決定権を渡し、撮影の主体となってもらうと、あらゆることがうまくまわり始めました。そしてなるべく一緒に過ごすことで、やっとわかることが増えていった。
ナイラは家族のことがこんなに大好きなんだ、ナイラは聴者のこういう部分が苦手なんだ、と感覚的に気持ちが共有できるようになっていったんです」
ナイラとの関係が再構築でき、撮影手法にも手応えが感じられた。以降、松井さんは本作に登場するすべてのコーダに対し、同じアプローチをしていった。
自分と他人、間にある断絶を埋めるために
本作ではナイラのほかに、きっかけを作ってくれたアシュリーや、親元を離れて大学に行くことで葛藤するジェシカ、自分の人生を手話で物語ることで友達を作ろうとするMJなどが映し出される。
彼女たちは生きづらさを抱えながらも、自分の人生と全力で向き合おうとする。映像を通してその変化が感じられるのは、3年という長い時間をかけて、松井さんが一人ひとりの“隣”に立っていたからだろう。
そして、本作に登場したコーダたちの家族とそれぞれに上映会を行い、完成した映画を観せると、とても喜んでくれたという。
ナイラは「コーダのことはコーダにしかわからない」と言った。ぼく自身、その言葉には強く共感する。10代の頃は特に、コーダとして生まれたぼくの苦しみなんて、誰にもわかってもらえないと思っていたからだ。
しかし、大人になったいま、決してそうではないことを知った。この社会には、松井さんのように、「わからない」と認めた上で「わかりたい」と歩み寄ってくれる人たちがいる。
そして、本作を観るために劇場に足を運ぶ人たちも、「コーダを知りたい、理解したい」と思ってくれているに違いない。そんな人たちの存在は、マイノリティとマジョリティの間に横たわる分断を埋める“希望”になり得るだろう。
「ナイラの言う通り、自分の物語は自分だけのものです。
でも、他人は他人、自分は自分と、完結していてもいいのか。“他人のことはわからない”それだけで済むのか。そうではないと思うんです。
ぼくがこの制作を通して学んだのは“誰かになってみる”ということ。ナイラたちが吐き出したことを受け止めると、自分の内面に“揺れ”が生じました。そうやって自分自身を揺さぶっていくと、やがて、相手と自分との間を行き来した先に自分以外の視線が持てるようになった。それが“誰かになってみる”ということです。
もちろん、ときには相手から『わかるわけないよ』と言われてしまうかもしれない。だけど、自分を揺さぶってみてほしい。コーダの世界を覗き込むと鏡のように聴者の世界が映っていて、ぼくはそこに自分の醜さも見つけました。聴者として生まれて疑問すら抱いたことがないこの社会がどんな場所なのか、マイノリティ側に『どんな困難があるの?』と説明を強いるのではなく、マジョリティ側が変形することで共に考える、作れる場を用意できたらと思います」
五十嵐 大(いがらし・だい)
ライター、エッセイスト。両親がろう者である、CODA(Children of Deaf Adults)として生まれた。2020年10月、『しくじり家族』(CCCメディアハウス)でエッセイストデビュー。最新刊は『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』(幻冬舎)。
(編集:毛谷村真木/ハフポスト日本版)
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「ずっとデフ(ろう者)になりたかった」コーダの彼女が口にした言葉の意味とは? 3年カメラを向けた先に監督が見つけたもの