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これは僕たちの孤独だ。映画『ディア・エヴァン・ハンセン』が描く、Z世代の“真っ白”な嘘。

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「コツコツと窓を叩いて、ガラスの向こうに手を振っている。なのに誰も気付いてくれない。誰にも僕の声なんか聞こえない」

11月26日に劇場公開された映画『ディア・エヴァン・ハンセン』は、片腕にギブスを嵌めた主人公、エヴァンが高校の新学期を迎えた朝の場面で幕を上げる。

友達もなく、唯一の家族である母親にも心を開けずにいるエヴァン。カウンセラーの勧めで “Dear Evan Hansen(親愛なるエヴァン・ハンセンへ)”と自身への手紙を綴ろうとするも、上手く言葉が紡げない。

「親愛なるエヴァン・ハンセンへ。きっと今日は素晴らしい日になる。だって…えっと…」

書いては消してを繰り返して、やっと「心の声」を少し綴ることのできたエヴァンだが、その誰にも見られたくない手紙が、同級生で荒くれ者のコナーに持ち去られてしまう。パニック状態になりトイレへと駆け込んだエヴァンは、処方された安定薬を震えた手で口へ放り込む。

しかし数日後、エヴァンに届いた知らせは、まさかのコナーの自死だった。悲しみに暮れるコナーの両親は、彼のポケットから「親愛なるエヴァン・ハンセンへ」と綴られた手紙を見つけ、エヴァンが親友だったと思い込む。暴力的で薬物にも手を出していたコナーの、普段の様子をあまり知らなかった両親は「あの子との思い出を聞かせて」と声を震わせ、その姿を見たエヴァンは、思わず話を合わせて優しい嘘をついてしまう。

「えっと…ぼ…僕とコナーは親友で…その…僕が木から落ちてこの腕を骨折した時も、彼が僕の元に駆け寄ってきてくれて…」

※これ以降、作品に関するネタバレを含みますので、ご注意ください。

本当に孤独なのは誰?

主人公のエヴァン・ハンセン

この物語には多くのテーマが巧みに散りばめられているが、敢えて特定の角度からそれを照らすなら、最近ではZ世代とも呼ばれる、デジタルネイティブ世代を中心とした「SNS時代の孤独」と、そこで「消費されていく物語」だ。

『ディア・エヴァン・ハンセン』は元々、2014年に公開されたブロードウェイのミュージカル作品。公開当時、筆者もエヴァンと同じく高校生だったこともあり、初めてこの作品を観た時は、そこに生々しいまでに描かれた孤独に共感せずにはいられなかった。

“陽キャ”に見えるあの子も孤独を抱えている

物語は、コナーの死を悼む学校集会で大きく動き出す。エヴァンはコナーの両親のためにでっち上げた“コナーとの思い出”と共に、生徒たちに語りかける。

「暗闇が襲い掛かった時、自分の力では動くことさえできない時、地面で打ち拉がれている時、あなたを見つけてくれる人がきっといる

それは孤独な自分自身に言い聞かせようとした言葉でもあったが、学校中の生徒の共感を集め、スピーチの様子はSNSを通じて世界中に広がっていく。

ここでエヴァンに共感した生徒は、彼やコナーのような“わかりやすく孤独”な人ばかりではなかった。エヴァンの瞳には「皆んなと馴染んで楽しそう」と華やかな景色の一部として映っていた人たちが、自身の心に孤独を隠し持っていたからこそ、この動画は拡散されたのだ。いわゆる“陽キャ”の優等生・アラナも社会不安障害や鬱を紛らわすために、学業やボランティアに打ち込んでいることを告白する。

孤独から逃げた先で出会う「孤独」

こうした教室の情景は、SNS世代特有のパラドキシカル(逆説的)な孤独を巧みに描き出している。

彼らはみんな、同じ空間にいながらにして、画面越しの違う世界にいることを「日常」としている。

たとえ周囲に馴染めなくても、画面の中にある居心地の良いコミュニティに繋がりを求めればいい。そうしたら現実世界が辛くても、ニコニコと平気なふりも出来てしまう。だって画面の奥では、ちゃんと誰かと、何かと、繋がっているのだから。

こんな風にして出来上がる景色は、はたから見ればとても穏やかだけれど、日常の中で経験する孤独から目を背けるために、画面の奥の世界へと逃げ続けてしまうことで、結果的に周囲との繋がりがいっそう希薄になり、孤独を深めていく。この皮肉な逆説に喘ぐデジタルネイティブ世代が、彼らだ。

アラナ・ベック(左)とエヴァン・ハンセン

日常で生じる孤独という感情は、世代や時代を問わず、誰しもが何らかの形で直面していくものだ。

しかし、そこから目を背けずに向き合っていくからこそ、誰かの体温、他者との交わりでそれが「溶けていく」時の尊さも学ぶことができる。孤独を知っている者同士だからこそ、共感し合い、目の前にいる誰かの存在に感謝することができるようになるのだ。

けれどもエヴァンたちの教室はどうだろう?

学校は本来、社会との繋がり方を模索し始めた者たちが、同じ空間の中にいる他人と人間関係の難しさや尊さを学ぶ場所でもある。しかしそこにSNSという手軽な「ここじゃないどこか」が介入しすぎてしまえば、多くの人が早々に目の前の孤独に蓋をして、その“安全地帯”へと走って避難してしまう。

それは「孤独からの一時逃避」であって、もがき苦しみながらも「孤独を溶かす」こととは非なるものだ。むしろ、簡単に手に入る“安全地帯”だけを選び続ける自分への虚しさや、同じ空間にいるはずの互いが「本当はどこにいるのか」を掴めない寂しさは蓄積され、そこにはまた違う種類の「孤独」が影を落とすだけだ。そして、心の奥底では、みんなそれに気づいている。

だからこそ、エヴァンの「誰かが見つけてくれるよ(You will be found)」という言葉が、「誰とも本当には繋がれていないかもしれない」と心の片隅で不安を抱く人々の孤独をときほぐしたのではないだろうか。

 「事実はSNSより凡なり」のはずが…?

こうしたSNS世代特有の孤独に加えて、この映画は、SNSによって人の心が次々と“消費”されていく危うさも浮かび上がらせる。

分かりやすく誇張されたもの、輪郭のはっきりとしたものがバズりやすいSNSの世界。極端な意見や揚げ足を取るような報道がバズりやすいだけでなく、万人の心を打つ温かい物語もまた“バズり”やすい。

拡散は悪いことではないし、そういった“何者でもない”個人の声が、社会の価値観を大きく問い直したり、時に海を越えた土地で誰かに寄り添ったりもする。

しかし、数分の動画やTwitterの140文字に切り抜かれたコンテンツの裏側には、そこからこぼれ落ちたものや入り組んだ文脈があることも忘れてはいけない。「事実は小説より奇なり」とは言うが、往々にして「事実はSNSより凡なり」なのだ。

生前のコナーとエヴァンが言葉を交わした、最後の日の場面

エヴァンのスピーチの“バズり”をきっかけに立ち上げられた「コナー・プロジェクト」や、拡散された動画は美しいものだったが、そこに生前の彼が抱えていた陰の部分への言及は微塵もなかった。“エモい物語”を作り上げるために、万人が良しとしない情報は切り落とされたのだ。

そして、生前の兄を「モンスターのようだった」と語る彼の妹は、彼女にとってのコナーと、世間が描く“エモい物語”の主人公であるコナーとの間で板挟みになり、感情がぐちゃぐちゃになってしまう。

消費される「バズ」と、痩せていく想像力

こうした「切り取り」が当たり前になると、人々の想像力はどんどん乏しくなる。人々は他者への想像を怠け、それは炎上やヘイトにも繋がっていく。

エヴァンのスピーチがバズった場面では、スクリーンいっぱいに広がる“暖かいSNS”が印象的だったが、ある事件をきっかけにコナーの遺族に対する誤解が生じ、コナープロジェクトはたちまち炎上状態になる。SNS上には匿名性を担保にした鋭利な言葉が、何の罪もない家族のもとに降り注いだ。このストーリー展開に既視感のある人は少なくないはずだ。

日本でも2019年度の「ネットいじめ」が過去最多の1万7924件(文部科学省)に上り、SNS上の匿名率が極めて高い(総務省によると日本のTwitterの匿名率は7割以上)ことを考えると、「コナープロジェクト」の炎上は今の社会を生きる僕たちへの警鐘といっても過言ではないだろう。

画面越しに並んだ言葉の奥にある含みや、画面越しに見えているもののの奥にある物語に想像力を働かせることも、今後問われるリテラシーなのかもしれない。

さらに、SNSの異常なスピードが「死」さえも“エモいもの”として消費されていく残酷な状況を作り上げていることにも、物語はそっとアラートを鳴らす。

急速に拡散されたコンテンツは、内容がどんなものであれ嘘みたいな速さで消費されていく。それはあっという間に発信者の指の間からすり落ち、個人のフィルターを介してどんどんと無責任に加工されて、すぐに「そんなのあったね」と過去の話になる。

バズりにバズった「コナープロジェクト」への支援もすぐに勢いが止み、生徒によって彩られた彼の高校のロッカーもあれよあれよと寂れていった。

孤独だからこそ、孤独じゃない

これはもちろん、SNSと共存し、それを交通手形とする現代社会において「SNSを離れよう」などと声を荒げる作品ではないし、SNSには光の顔もちゃんとある。

むしろ、この作品に込められている最大のメッセージは「見つけてくれる人がいる」というまっすぐな希望へとさかのぼる。

物語の終盤で、エヴァンはコナーとの友情がでっち上げだったことを明かし、終始「木から落ちて骨折した」と語っていた腕についての真実を語る。2つの真実と、その根底にあったエヴァンの孤独に初めて触れた母は、ぎゅっと彼を抱きしめるのだった。

そしてその後、エヴァンは初めて、生前のコナーという人物が生きた物語を解き明かす。それはバズりそうもない地味で孤独な、けれど、人間らしく暖かい、静謐な「本当の物語」だ。

その物語は消費されることなく、エヴァンやコナーの遺族の心にずっとずっと残り続けるのだろう。

「僕たちは、画面の向こうの“安全地帯”や”エモい物語”に手綱を握られた哀れな世代などではない。コツコツと窓を叩き窓越しに手を振れば、きっと振り返してくれる人がいる。手を伸ばせば、きっと誰かが手を差し伸べてくれるのだから」

エヴァンが最後に母親の腕の中で流した安堵の涙には、まさにそんなメッセージが込められていたように思う。

母親と向き合うエヴァン

映画『ディア・エヴァン・ハンセン』は、孤独に蓋をするのではなく「みんなのもの」として受け入れることで、人と人を繋ぎ、僕たちを目の前に広がる世界へと連れ還ってくれる優しい作品だ。

劇場に足を運んだ際には、表情豊かで時にくすっと笑ってしまうようなミュージカルならではの楽曲の数々はもちろん、エンドロールの後に浮かび上がるメッセージまで見届けてほしい。

(文:林 慶 @kei_so_far/ 編集:南 麻理江 @scmariesc

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これは僕たちの孤独だ。映画『ディア・エヴァン・ハンセン』が描く、Z世代の“真っ白”な嘘。

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