【あわせて読みたい】「逃げるのも才能だってよ」クドカン脚本ドラマ『俺の家の話』は発達障害を「当たり前」に描く
現在放送中のドラマ『ライオンの隠れ家』(TBS系)は、発達障害(神経発達症)のある人が隠される/隠すの視点で観ると興味深い。
主人公の小森洸人(こもり・ひろと/柳楽優弥さん)は、発達障害の一種・自閉スペクトラム症のある弟の“みっくん”こと美路人(みちと/坂東龍汰さん)と2人で暮らしている。かつて障害者は世間から隠されてきた歴史もあるが、みっくんは社会にどんどん出て行く。
ある日兄弟が帰宅すると、突然「ライオン」(佐藤大空さん)と名乗る男の子・愁人(しゅうと)が現れ、みっくんはパニックに陥ってしまう。しかしそんなみっくんの様子をよそ目に、「ライオン」は小森家に住み始めることになる。洸人は、「ライオン」の体にアザがあることを発見する。
本作は、「障害」と家族や社会との関わりについて、私たちに問いかける作品となっていると私は感じた。
※以下、ドラマのネタバレが含まれます。
障害者は隠されてきた
障害者は、日本において世間から隠されてきた歴史がある。座敷牢(私宅監置)はその代表的な例だ。1900年に制定された「精神病者監護法」に基づいて、障害者は家に監禁されていた。小屋などの外から鍵をかけられ、劣悪な環境で暮らすことを強いられていた。
世間から隠され、遠ざけられる最たる例が、“殺される”ことである。相模原障害者施設殺傷事件は、絶対に忘れることはない悲惨な事件だ。
また、日本には「優生保護法」も存在した。「優れた人」を残し、国が考える「優れていない人」である障害者は強制不妊手術を受けさせられたのだ。生む権利および未来にあり得た子どもの命を絶たれた。1996年に改正されたが、今でも問題は終わっていない。
座敷牢もまた、法律は廃止されているが、家庭に隠されてしまうことは今でもある。障害が家庭の中に隠されてしまうと、第一に個人の尊厳や存在そのものを傷つける。そして、周辺の人々や社会にいずれ歪みが生じる。
『ライオンの隠れ家』は家庭の中に隠されてきたものを開いて、外に引っ張り出していこうとする物語として観ることができる。
みっくんは街へ出て行く
みっくんはどんどん街に出て行く。みっくんが日中に通っているのは「PLANET ELEVEN」で、アート活動を行っている事業所のようだ。
第3話では、地域の動物園で行われる「動物アート展」に、「PLANET ELEVEN」の作家として参加することになる。当初は作品の展示のみだったが、体調を崩した仲間に代わって、みっくんがライブペインティングを行うことになった。そうした“ハレの場”にもどんどん出て行く。予定が崩され、パニックになっても、巻き込まれていく。
「さくらんぼ教室」にも通っている。「さくらんぼ教室」は実在し、自閉スペクトラム症監修として本作に携わっている。発達障害のある2歳から社会人までが学ぶ教室である。
兄弟の両親は、すでに亡くなっている。兄の洸人が1人でみっくんをケアしているが、街へ出て行くことで、たくさんの関わり合いが生まれている。発達障害は、社会モデルの障害と言われる。障害は個人のなかではなく、社会の側にあるとする考え方だ。本人を隠したり、自己責任で個人の努力を強いたりしても、そこにある問題は解決しない。
私は以前、取材でstudio COOCAを訪れた。みっくんが通う「PLANET ELEVEN」のような場所で、障害のある人々が自由にアート活動をしている場所だ。創業者の関根幹司さんは、彼・彼女らを街にどんどん出して行った。幹司さんによれば「買い方がわからないから、万引きまがいのことをしてきてしまう」こともあったという。最初は、店からクレームが入った。しかし、話してみると、店側も彼・彼女らのことを知る機会がなかっただけだった。
幹司さんたちは職員会議をして、クレームを受けないために彼・彼女らを「隠す」のではなく、「今後、絶対に行けるようになる支援をしていこう」と決めた。人類の長い歴史を振り返ってみると、「1人で生きられない人は放っておけばいいと考えることもできたかもしれない。けれども、ケアすることで人類全体は生き延びてきた」と幹司さんは考えている(※)。
隠される側ではなく隠す側に
本作の興味深い点は、虐待を受けていると思われる「ライオン」を、みっくんたちが隠すことだ。障害のあるみっくんは、隠される側ではなく、隠す側に転換している。
正体不明だった「ライオン」は、実は洸人とみっくんがある時期にステップファミリーとして一緒に過ごした姉・橘愛生(たちばな・あおい/尾野真千子さん)の子どもであった。愛生が家出をしてから姉弟は会っていなかったが、愛生のなかでは「自分を受け入れてくれた唯一の家族だった」記憶として残っていた。
夫から虐待・DVを受けた愛生は、みっくんたちを頼り、夫から隠すために「ライオン」を託すことにしたのだった。
障害者が隠されてきたことと、虐待を受ける子どもを隠すことでは、背景も意味もまったく異なる(それでも子どもを無許可で家に住まわせることは犯罪だろうが、フィクションなのでいったん脇に置いておこう)。
虐待・DVは、家庭の中に隠されてしまう。洸人の同僚の牧村美央(まきむら・みお/齋藤飛鳥さん)は、保育士だったとき、家庭に介入できなかった後悔を抱いている。虐待が心配される子どもが園にいたものの、保護者に気圧され、隠しきられてしまったのだ。結果として、子どもは亡くなってしまった。
明治民法は「法は家庭に入らず」の精神を持っていたといわれる。家庭で問題が起きても、法が入るよりも家庭内での解決が求められる傾向がある。今でもそれは地続きになっている。
例えば、公的な福祉サービスを受けるにも、親と同居している場合には「家庭内で対応できる」と考えられ、受けられないことがある。そのため、福祉サービスを受けるために一人暮らしを始めた人を私は知っている。日本において、良くも悪くも家庭は強い。その両面を「隠す」という切り口で描いているのが、本作と言えるだろう。
みんなで責任を持つ
みっくんの暮らしは、自閉症の特性に合わせて環境設定が十分になされている。
家にはカーテンで仕切られた個室空間があり、好きな動物図鑑が置かれている。色へのこだわりが強いため、いつも配色カードを持ち歩き、街にある色のカラーコードを確認する。パニックになったときには、ゴーグルをつけて対処する。決まった時間に朝食を食べるなどのルーティーンも整っている。
しかし、子どもである「ライオン」は、環境を悪意なく壊していく。障害のある人の環境設定を壊すことは、一般的には良くないこととされる。それは正しい。ただ、社会で生きていくこととは、壊され、折り合いをつけ、また新しい環境を作っていくことでもある。
愛生と「ライオン」は、生活や尊厳を壊された。おそらく夫が悪意を持って。愛生は、愛する「ライオン」を家族と家族の間で移動させることで、生き延びさせようとした。結果として、みっくんたちの環境は壊された。しかしみっくんは新しい環境を受け入れ、「ライオン」を家族の一員として認める。
家庭に隠されていたものを引っ張り出していくのがこのドラマだ。環境が壊されたら、作り直す。巻き込まれていくことに、みんなで責任を持つ。一人ひとりが持ち場を守っていく。
第7話以降、虐待・DVをしていた父親が血眼になって「ライオン」を捜す様子が予告されている。
さて、本作のタイトルは『ライオンの隠れ家』である。みっくんたちの作る「隠れ家」は、どのようにかたちを変えていくのだろうか。みっくんは、何を隠し、何を表に引っ張り出していくのだろうか。障害や家庭の観点からも注目していきたい。
オリジナルサイトで読む : ハフィントンポスト
ドラマ『ライオンの隠れ家』は家の中に隠されてきた「障害」や「虐待」を外へ引っ張り出そうとする物語