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戦争の光景は一様に色がない。《ゲルニカ》に響く、ウクライナの嘆きの声

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《ゲルニカ》パブロ・ピカソ(2012年2月21日撮影)《ゲルニカ》パブロ・ピカソ(2012年2月21日撮影)

「これは君がやったのか?」

第二次世界大戦、パリがナチス・ドイツの占領下にあった時のこと。あるゲシュタポの軍人がピカソにこう聞いた。軍人の指は《ゲルニカ》の写真を指していた。  

「いや、これは君たちがやったんだろ」と、巨匠は返した。

画面いっぱいに強烈な顔、顔、顔。死んだ子どもを膝に抱え、慟哭する母親。燃え盛る火の天井の下で、両手をあげて逃げ惑う人々。断末魔の叫びをあげる馬。ズタズタに切断された兵士の身体。その手は折れた刀を握り、横には希望の象徴のアネモネが一輪…。

8×4メートルの巨大なキャンバスを前に、あなたは目を覆いたくなるだろうか。いや、反対に、両目を見開いて全霊で受け止めずにはいられない。

人間というものに対する根源的な問いを私たちに直球で投げかけてくるからだ。

ゲルニカの悲劇が再び…

ゲルニカは北スペイン、バスク地方の中心都市。 

スペイン市民戦争のただ中にあった1937年の4月26日午後、突如、反政府反乱軍を援助したナチス・ドイツの凄まじい爆撃が都市を襲った。

実に住民の三分の一が殺害され、そのニュースはスペインはおろか、世界を恐怖に落とし入れた。空爆による一般市民の大虐殺という意味で、世界が経験した初めての悲劇であり、第二次世界大戦の引き金のひとつになったともいわれる。

そして、2022年2月24日、同じような悲劇が起こってしまった。ロシア軍によるウクライナ侵攻だ。5カ月をすぎた今もなお、メディアは地獄のような状況を伝える。焼け焦げになった建物や瓦礫の広場、空には黒煙が上り、色彩は失われてしまった。その光景は、二十一世紀の出来事とは到底思えず、あの《ゲルニカ》のモノクロ作品を思い起こさせる。 

再び、1937年。スペインで反乱軍のクーデターがおきた後、スペイン共和制政府はパリで活動していたピカソに、同年に開催されるパリ万博のスペイン館に展示する作品を注文した。政治には全く関心のなかった画家は、何を描いたらよいかしばらく迷っていたという。ゲルニカ空爆が起こったのはそんな時だった。

襲撃の1週間後、画家は筆を手にとり、たった3週間で大作を完成させてしまった。故国で起こった戦争が、政治に無関心のピカソの心を動かしたのは疑いようもない。

パブロ・ピカソパブロ・ピカソ

アートの祭典で注目されたウクライナの作品

ロシアによるウクライナ侵攻から2カ月後、歴史あるインターナショナルな美術展、ヴェネツィア・ビエンナーレが始まった。

名前の通り、2年毎にイタリアの水の都で開催される美術界最大の祭典(コロナのため2020年は中止)で、各国を代表する現役アーティストの最新作が一堂に集まる。今年は、ウクライナ侵攻の影響を強く受けて、ロシア館の扉は閉ざされ、ウクライナのアートに世界の注目が集まった。 

だが、こうした動きには慎重になるべきだ。世界が糾弾すべきは、隣国を武力弾圧したロシアの権力者であり、ロシアの文化ではない。しかし、主催者はロシア館を予定どおり開いた場合に想定される社会批判の大きさを危惧したのだろう。深刻な問題だが、本記事の主旨からずれてしまうため、これ以上は触れないでおくことにする。

ウクライナ館に展示されたのは、パブロ・マコフが手がけた《疲労困憊の噴水》という作品である。三角状に設置された72個のブロンズ製の漏斗、それを通して水が下段にある漏斗に流れ落ちるのだが、下に行くほどひとつの漏斗から落ちる水は少なくなるしくみになっている。

《疲労困憊の噴水》パブロ・マコフ(2022年5月10日撮影)《疲労困憊の噴水》パブロ・マコフ(2022年5月10日撮影)

アーティストは、人間性における疲労、民主主義の疲労の象徴だと解説する。ウクライナの現状を思い浮かべれば、日々、死の崖ぶちを生きる人々の精神的な疲労を示唆しているようにもみてとれる。

このウクライナのアーティストは、「もし、ゲルニカ爆撃が起こった時にピカソがそこにいたなら、彼はあの絵を描けなかっただろう」と推測する。片や、毎夜、爆音を耳にし、破壊された街を歩き、悲惨な死を身近にみてきた彼にとって、生(なま)の体験をアートにするのは想像以上に困難なことだったに相違ない。

「アーティストとか、個人とかいう意識より、今は、ウクライナ市民という意識の方が強いんです」

ロシアの権力者たちがウクライナの文化や存在そのものを消去しようとしているからこそ、われわれの文化をここにきちんと表象しなければならないのだと、マコフは続ける。そんな強い思いが、彼を制作に向かわせ、困難極まる戦火の下を潜って、ヴェニスまで来させたのではないか。

戦争の光景は一様に色がない

確かに、ピカソは自分の目で戦争をみていない。ピカソが参考にしたのは、当時の新聞紙面の白黒の写真だ。制作にとりかかった当初は色がついていた《ゲルニカ》が、だんだんモノクロに塗り替えられていったのは、自分が情報源にした当時の報道写真の影響ともいわれる。

しかし、ピカソは報道写真を元にしながらも、ルーベンスやゴヤなど戦争を描いた過去の巨匠たちに学び、構図を緻密に計算しつつ、何度も塗り直し、自らの魂を作品制作に注ぎ込んだ。表現しようとしたのは、報道写真のような特定の出来事の真実を伝えることでも、その記録でもない。ピカソは、絵画という表現に、もっと普遍的なパワーを与えようとしたのである。

パリ万博で《ゲルニカ》が初めて公開された時、彼の新作は前衛すぎて、快く受け止められなかったという。だが、ロンドン、アムステルダム、ミラノと世界を巡回するうちに、評価はどんどんと高まっていった。やがて、ゲルニカという一都市の悲劇を超えて、戦争という非業を繰り返す人間社会に対する深い洞察となり、平和を願う世界の象徴となった。

色という具体性を削ぎ落とした《ゲルニカ》の芸術性はタイムレスだからこそ、まさに、ウクライナの今を伝える写真や映像にも深く通底する。戦争の光景は、それがいつどこで起こった戦争であっても、一様に生命の色がない。《ゲルニカ》は、戦争という非業を繰り返してしまう人間性の暗闇を、時代を超えて問いかけてくるのである。

《ゲルニカ》が発表された2年後の1949年、ピカソは小さな版画を作った。黒い背景に一羽の白い鳩が描かれただけのシンプルな作品だ。そのイメージは同年に開かれた世界平和評議会のポスターに使用され、今や、平和の世界的な象徴になっている。

(文:吉荒夕記 編集:毛谷村真木/ハフポスト日本版) 

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戦争の光景は一様に色がない。《ゲルニカ》に響く、ウクライナの嘆きの声

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