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青木功は、賞金高騰の日本を出て、あえて世界を目指した。「自分で見て、確かめたかったんだよな」

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全英オープンゴルフの中継現場で、伝説として語り継がれている場面がある。

1990年代のある年のことだ。

解説を務めるプロゴルファー・青木功が突然、中継のカメラに大きな土の塊を掲げてみせた。
それはなんと、大会会場の「地層」だった。

小さな刃物を借りて、地面の一角をボウリング調査のように切り出したというのだ。

全英のコースは、どこも海沿いにある。

砂が多く、決して保水性にも栄養にもめぐまれているようには見えない土壌。その中で、芝の根は縦方向に、深く伸びていた。

厳しい環境を生き抜く強さを持った芝。

だからこそ、あんなに短く刈られていても、ボールの転がりに強く影響を与えるんだーー。

スポーツ中継の常識を壊す、地層サンプルを使っての解説。

あっけにとられるスタッフを横目に、青木は「怒られるかもしれないから急いで戻してくるよ」と言って去った。

コースの歴史に惹かれて

全英オープンを前にしたインタビューに答える青木功全英オープンを前にしたインタビューに答える青木功

「きっとそういうことなんだろうなと思ってはいたけど、解説として話すからには、憶測で言っちゃうわけにはいかないだろ」

笑いながら、30年前の解説の意図を明かす。

2024年7月、東京都内。青木は選手としても、解説者としても長年携わった全英オープンゴルフについてのインタビュー取材に応じていた。

「大会側の人たちも、アオキだから仕方ないか、って目をつぶってくれたのかもしれないな」

いかにもなつかしそうに当時を振り返っていたが、一方で真顔でこんなことも言った。

「オレはそういう、それぞれのコースの歴史、成り立ちみたいなものに、すごく興味があるんだよ」

「選手としても、ただ試合があるからコースに行っていたわけじゃない。世界中のコースをみるため、知るために、オレは海外に出て行っていたんだよ」

1980年、スプリングフィールドでの全米オープン、12番ホールで芝を睨みつけるように確かめる青木功1980年、スプリングフィールドでの全米オープン、12番ホールで芝を睨みつけるように確かめる青木功

なぜ海外に…?セベに語った”理由”

青木が初めて日本のプロツアーで賞金王になったのは、1976年のことだ。当時の日本はGDPでドイツを抜いて世界2位に躍り出た直後。

特に人気のあったゴルフにおいては、市場が世界最大級になっていた。

海外メジャーで優勝するような選手も、積極的に日本の試合に出場していた。

1977年には世界のスーパースター、20歳のセベ・バレステロスも日本オープンゴルフに出場し、優勝している。同世代の尾崎将司も、一貫して日本ツアーに軸足をおいていた。

だが、青木は賞金王をとるやいなや、活躍の場を海外に移しだした。

ほかでもないセベ・バレステロスが、不思議そうに問いかけてきた。

なぜこんなに日本のツアーの賞金額が大きいのに、わざわざ海外にいくのか。

「オレはお金だけじゃない、そう答えたよ」

「プロだから、確かにお金もほしいけど、でも海外にはどういうコースがあって、どんな人たちがゴルフをしているのかを知りたいという方が強かった」

ひとから伝え聞くこともあったが、それでは足りなかった。

「自分で見て、確かめたかったんだよな」

聖地で覚えた「既視感」

1977年、青木は初めて全英に出場した。

会場はスコットランド南西部にあるターンベリー・アイルサコース。

健闘むなしく、予選落ちに終わった。週末の予定があいてしまったので、翌年の全英が開催されるゴルフ場に「下見」にいってみることにした。

グラスゴー、そしてエディンバラを抜けて、北東に車を走らせることおよそ3時間。

「ゴルフ発祥の地」セントアンドリュース・オールドコースについた。

街は宗教改革や内戦の影響で長く荒廃していたが、地元大学の台頭とゴルフ人気で活気が蘇っていた。

コースの横にはR&Aのクラブハウス。ゴルフのルールを成文化してきたことでも知られる、いわば「総本山」だ。

ゴルフの聖地を訪れた感慨もあったが、一方で青木は既視感も覚えていた。

ここは確かに聖地だ。

でもコース自体は、日本人にとってまったく縁遠いものではない。そう思えて仕方なかった。

江戸川の河川敷で”聖地対策”

人に聞いた話だけであれば、単純に「聖地=特別なコース」と思い込んでしまったかもしれない。

「でも実際にみてみたら、日本の河川敷コースにも似ていると感じた。そういう表現が良いか悪いかはさておいて、とにかくオレはそういう着想を得てしまったんだよ」

翌1978年6月。全英出場を前に、青木は”短期合宿”をスタートさせた。

「日本の河川敷コース」であるTBS越谷ゴルフ倶楽部(現:KOSHIGAYA GOLF CLUB)をセントアンドリュースに見立てて、全英対策を集中的に行った。

さえぎるものもなく吹き付ける風が、砂がちな土壌をカラカラに乾かし、締め固める。

思った通りだ。全英の開催コース同様に、河川敷の地面は硬く、風は終始強かった。

フェアウェーがクラブヘッドを跳ね返し、思うようにボールを上げさせてくれない。
上がったら上がったで、強い風に押し流され、あらぬ方向に飛んでいく。

気分よくラウンドできない状況で、青木はかえってほくそえんでいた。

そうそう、これだ。これこそが全英対策だ。

ゴルフはゴロフ

1978年の全英オープン、青木功は18番パー4で有名な「スウィルカン・ブリッジ」に向かってティーショットを放つ1978年の全英オープン、青木功は18番パー4で有名な「スウィルカン・ブリッジ」に向かってティーショットを放つ

全英オープンゴルフ、第1ラウンド。

青木は世界を驚かせた。4アンダー68で回り、単独首位に立ったのだ。

17番パー4、残り70ヤードからの第3打。

目の前にはタコつぼバンカー。2日後に中島常幸が脱出に4打を要し「トミーズバンカー」の異名がつくことになる。

絶対に落としてはいけない難所を前に、ボールを上げにくい5番アイアンを握る。

ピン方向ではなく、競輪場のバンクのような形状になった右のフェアウェイを狙った。

ひざの高さにも達しない低い弾道。一瞬の滞空時間ののち、ボールは地面を走り出す。傾斜を使って、右から左へ大きなカーブの軌道を描いた。

バンカーをうまく迂回したボールは、そのままグリーンに転がり上がった。

続く5メートルのパットも決めてパーセーブ。聖地のギャラリーから惜しみない拍手を浴びた。

こういった攻略法は、まさに日本の河川敷で練ってきたものだった。

「転がすにしても、パターを使って最初から転がしてしまうと、地面の硬さがつかめないんだよ」

青木はそう説明する。

越谷では日の出前から日没間際まで、あえていろいろな時間帯にラウンドした。

夜露が地面にしみ残っている朝はやわらかく、風にさらされた後の夕方は硬い。

1日の中でも硬さが大きく変化することを、あらためて感じることができた。

だから、転がすにしても、5番アイアンでほんの少しだけボールを浮かせることにした。

ボールが着地する瞬間の「はね方」を必ず凝視する。

そうすれば、上空の強い風を避けるだけでなく、時間帯によって変わっていく地面の硬さをはかり続けることもできる。

「ゴルフはゴロフ」

のちに解説でも多用することになったフレーズを地で行くプレーぶりで、第2ラウンドも首位で終える。

大会後半も健闘し、最終的に7位に入った。

事前の合宿から優勝を狙っていたんだけどな、と青木は苦笑いする。

「知らないコースに優勝しにいくのか、と笑われたりもしたけど、当たり前だろと。プロなんだからさ」

セントアンドリュースを見た日本人は、彼が初めてではない。

なのになぜ、青木だけが「河川敷で事前合宿を」という着想を得られたのか。

「好きこそものの上手なれ、ってのはあるんじゃないかな」

海外転戦に踏み切るほど、青木は世界のコースをみて回ることが大好きだった。

あらゆるコースの特徴や成り立ちが、頭の中に詰め込まれている。

だからこそ、セントアンドリュースを相対化したり、抽象化したりすることが可能だったのだ。

「もちろん、聖地は聖地なんだよ。あとからアーノルド・パーマーとか、ジャック・ニクラウスが18番で全英引退のセレモニーをしているのをみて、やっぱりここは聖地、特別なコースなんだとあらためて思ったりもした」

「だけどコースそのものを見たときに、どういう特徴かというのをざっくりいうとすれば、日本の河川敷だと。あまりそう思う人はいないかもしれないけど、オレはそういう着想になったんだよ」

足で稼いだ情報と、抽象化スキルと

青木はその後も旅をしながら、世界と戦い続けた。

83年にはハワイアンオープンでアジア勢として初めて米国ツアー優勝。

同年に欧州ツアーのパナソニック欧州オープン、89年にはオーストラリアツアーのコカ・コーラクラシックでも優勝した。

「どんなコースをみても、ああ、どこのコースに似てるな、って発想できた。どのホールでスコアを伸ばして、どれくらいのスコアになれば、5位以内には入れるかな、みたいに考えるんだよ」

世界のどこの会場に行っても、的確に特徴を捉え、攻略の着想を得ることができる。

豊富な知識に裏打ちされた相対化、抽象化のプロセス。常識にとらわれないプレーぶりから「感覚派」と評されることもあるが、元をたどれば「好きこそものの上手なれ」に行きつく。

「全英で勝てていればそれに越したことはなかったんだけど、でも勝てなかったけど全英がきっかけで、俺はそういう風になっていけたと思う」

2013年。英国のゴルフコース、ミュアフィールド。

東北福祉大に在学中だった松山英樹が、青木が解説をする全英に初めてやってきた。

個人的な縁がある選手だった。

2016年6月14日、オークモントでの全米オープン、解説のために訪れた青木(左)と言葉を交わす松山英樹2016年6月14日、オークモントでの全米オープン、解説のために訪れた青木(左)と言葉を交わす松山英樹

青木は愛媛のゴルフ場で合宿をする機会が多かった。ある日、コースに忍び込んできている子供に気づいた。当時小学1年生の松山だった。

「お前さん、どうせなら近くで見ろ」

追い返すどころか、近くに招き寄せた。

自分の目で見て確かめたい。そんな気持ちがよくわかったからだ。

初の全英出場を前に、松山は青森にある海辺のコース、夏泊ゴルフリンクスでの事前合宿を予定していたという。

日程の関係で中止になったが、強い海風、硬い地面が”仮想全英”にピッタリだと考えたらしい。

時代をこえて、自分のような着想を得た選手があらわれたことは感慨深かった。

着想が輝く舞台。今年も全英の季節に

松山はのちにマスターズで、青木がなしえなかった日本勢初の男子メジャー制覇を達成した。

その偉業は、報道やSNSなどの力でつぶさに伝えられた。

なぜ、メジャーで勝てたのか。正解と思しき情報は、ネットの中に無数にある。手軽に入手できる。

だが、果たしてそれを求めるだけでいいのか。青木は言う。

「それは情報とは言わないんじゃないかな。情報はここにあるものだと思う」

そういって、自分の頭を指さす。

情報とは、たくさんのインプットが頭の中に整理されてあるもの。

全英のコースを「ボウリング調査」したような事実確認も、整理のプロセスに含まれるのだろう。

整理された情報は、相対化や抽象化の材料になって、人生を変えるような着想を生む。

河川敷で練習して、世界を驚かせたあの全英は、まさに「情報」のたまものだった。

今年も全英の季節が始まった。

どんな着想が、世界を驚かせるだろうか。青木は楽しみにその行方を待っている。

(取材・執筆:塩畑大輔、編集:泉谷由梨子)

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