太平洋戦争末期の苛烈な地上戦、硫黄島の戦いが始まったのは1945年2月19日。79年前の今日だった。
映画「硫黄島からの手紙」でも描かれた、日本軍による全島要塞化を前に、硫黄島(東京都小笠原村)では、本土への強制疎開が行われた。
島民は、今も自由に帰ることができない。
17日、島民とその子(2世)、孫(3世)の3世代が一堂に会して硫黄島への思いを語る、初めてのシンポジウムがあった。
開拓から現在まで、硫黄島の130年間の歴史。詳細記事はこちら>>硫黄島に「あったこと」知って。 島民と芥川賞作家が語る会【強制疎開から80年】
硫黄島で生まれ育った奥山登喜子さん(90)は「いまだに帰れないのが悲しい。硫黄島のことを覚えておいてほしい。忘れないで」と訴えた。戦前の写真を交え、硫黄島の生活や文化を語った。
島民が開拓し、自給自足的な生活を営んでいた硫黄島は、戦後「基地の島」となった。
終戦後、日本が主権を回復してからも、島は米国の施政権下に置かれた。
68年の日本復帰後は、自衛隊の基地が置かれ、防衛のため、排他的に使われ続いている。
近年は、地殻変動による土地の隆起が顕著だ。
シンポジウムに参加した島民から「あの土地で、これから普通の生活ができるのか」との質問があがると、島民2世で硫黄島帰島促進協議会副会長の伊藤謙一さんは「自衛隊が基地として使っていない場所を、我々が住めるよう整備してもらうとか、現状の訪島・墓参の滞在期間を少しずつ伸ばすとか、段階的に、いずれ住み続けられるように活動していきたい」と答えた。
島民3世で芥川賞作家の滝口悠生さんは「強制疎開という暴力的なことが人生に起きたことによる島民の経験、衝突やすれ違いも含めて、3世だから聞ける話があると思う。疎開後の生活も継承していかなければいけない」と語った。
島民たちに向けて、東京都は80年から自衛隊機などを使った墓参事業を、年2回、日帰りと1泊2日で行っている。小笠原村は97年から、東京・竹芝ー父島間を結ぶ定期船を使った訪島事業を行ってきたが、大型化した船の停泊が土地の隆起などで困難になり、船での上陸墓参は2016年が最後に。村では2023年に初めて、政府の遺骨収集団が乗る自衛隊機の空席を利用した日帰り墓参を行った。
シンポジウムに登壇した、小笠原村の渋谷正昭村長は「(2023年の試みを)年2回にしてもらえないか、と防衛省に交渉している。また、東京都による墓参が2回とも1泊になれば、ゆとりのある墓参が実現できる。硫黄島の島民は、小笠原村の村民。寄り添っていきたい」と話した。
(取材・文=川村 直子)
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2月19日、硫黄島に米軍上陸。島民たちは「硫黄島からの手紙」以前を語り継ぐ