1945年8月6日月曜日、広島市は快晴だった。人々がそれぞれの1日を始めようとしていた午前8時15分、地上600メートルの地点で、アメリカ軍B29爆撃機「エノラ・ゲイ」が投下した原子爆弾が炸裂した。
爆心地から1.2キロの地点で被曝し、父、姉、弟を一気に失った漫画家・中沢啓治さん(1939年~2012年)は、その体験から『はだしのゲン』を描いたほか、戦争と平和をテーマに数々の作品を残した。
ただ、中沢さんは1988年に制作された広島平和記念資料館の被爆者証言ビデオでこう語っている。
「誰があんな陰惨なものを描きたいと思いますか。本当に僕なんかもう嫌で嫌でしょうがないですよ。いまだに原爆の資料も読みたくないし、被曝のシーンを描いていると臭いまで浮かんでくる」
そんな中沢さんを突き動かしたものは何だったのか。没後10年の今、同資料館の許可を得て、証言ビデオの内容を当時の写真と一緒に紹介する。
※記事内では、原爆の恐ろしさを伝えるため、凄惨な被害の様子が描写されています。ご注意ください。
B29を目撃、「幽霊のよう」な被爆者たち
1945年8月6日当時、中沢さんは神崎国民学校の生徒で、登校途中に被曝した。
「あれほど綺麗な空は全く見たことがないというくらい雲ひとつない真っ青な空の中に、ピーッと中国山脈側から飛行機雲が伸びて」おり、「あれはB29だ」と顔見知りの中年の女性と会話をしていたという。
市内の上空に向かってきたその飛行機が後方に消えてしばらくした時、「パーっと光った」。原子爆弾が炸裂したのだ。その「すさまじい火の玉」は、被曝から40年以上経った証言当時も忘れられないと語る。
気を失ったのち、ふと顔を上げると周囲は真っ暗。起きあがろうとすると、さっき話していた女性が道の反対方向に吹き飛んで真っ黒になっているのを見つけた。真っ黒の顔をして、白い眼球だけが見開いて中沢さんを見ていたという。
「心臓が止まる思いとはあのことではないかというほど気が動転して、咄嗟に電車道に飛び出した。もう足が空を浮くというか、要するに進んでないのではないか、気が動転して足が空回りしているのではないかという思いで、どんどん走っていく」
広島への原爆投下による死者の数は現在でも正確には分かっていない。広島市によると、当時市内には居住者や軍人ら約35万人がいたとされ、1945年末までに約14万人が死亡したと推計される。中沢さんが被爆したのと同じ爆心地から1.2キロ地点より内側では、投下当日のうちに約半数の人が亡くなったみられている。
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自宅に戻ろうとする中沢さんは、被曝によって重症を負った大勢の人たちを目にする。
眼が飛び出した人や、腹が裂けている人、腕の皮が剥けて皮膚が垂れている人、大きな水膨れが顔中にできている人…中沢さんは「幽霊のようだった」とも形容している。
『はだしのゲン』には残酷な描写も多いが、朝日新聞によると、中沢さんは「現実はこんなものでなかった」「これでも子どもが読めるようにセーブして描いているんだ」と語っていたという。
「お母ちゃん、熱いよ」という声が耳の奥にこびりつく
どうにか自宅近くに戻り、母親に再会した中沢さん。
「周りに鍋釜置いて、割烹着姿ですすけた顔をして、ぼうっと座って」いた母親が一生懸命に触っていた「ボロきれ」を覗くと、女の子の赤ん坊がいた。母親が原爆のショックで産気づいて路上で産んだとみられ、「大事に持って、そこでジーッとしていた」という。
母親はショックからか、長男と合流し、知人を頼って違う街に移り物置のような6畳一間のアパートを借りるまで、ずっと無言で険しく怖い顔をしていた。少し落ち着いたところで中沢さんが自宅にいたはずの父や姉、弟について聞くと「お袋は微に入り細に入り、とうとうとしゃべった」という。
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自宅にいた母親は、軒先に入った瞬間に爆発が起きたため助かった。しかし、弟は爆風で倒れた家に頭が挟まれ、体が外に出ている状態。父親は中で瓦礫に潰されて動けなくなっており、姉の声は一切しなかったという。
父親は「なんとかせえ」と言い、弟は「お母ちゃん、痛い」と泣いている。倒れた軒先を持ち上げようとしたが、びくともしない。通行人に土下座をし、「お願いします、あれを持ち上げてください」と頼んで手伝ってもらっても、「ああ、もう諦めなさい。こんなの、ひとつも動きもせん」と言われる。半狂乱になって弟の足を引っ張っても抜けない。
火がどんどん回ってくる中で、弟は泣き叫ぶ。中沢さんは「(母親は)『もう自分は完全に気が狂った』と言っていた」と振り返る。
母親が「お母ちゃんもみんなと一緒に死ぬけえねえ」と泣き叫びながら玄関の柱を叩いていると、裏に住んでいた男性が通りかかり「中沢さん、もう諦めなさい。あんたまで一緒になって死ぬことはないじゃないか」と、母親を無理やり引きずって逃げてくれたという。
振り返ると、玄関口で炎が燃え上がっている。その中から「なんとかせえ」という父親の声と「お母ちゃん、熱いよ」という弟の声が聞こえてきていた。その声が耳の奥にこびりついて、毎晩寝ると夢の中に現れる。夢の中から呼び戻してくる。母親はそう語っていたという。
「口で『平和、平和』というのは僕は絶対に信用しない」
冒頭で触れたように、思い出すのが辛く「原爆という言葉から逃げに逃げて回った」という中沢さんを変えたのは、1966年に亡くなった母親の遺体を焼いた時、骨が残らなかったことで感じた「真の怒り」だった。
「(原爆は)お袋の骨まで取りやがったなというものすごい怒りがあった。許さんぞこの野郎、あの1発のために、俺たち一族をはじめ、広島市内ではどれだけ地べたをはって生きてきたかという」
「逃げたってしょうがないんだ。だったらもう開き直っていってやろうじゃないかと。アメリカの政府だろうが日本の政府だろうが言ってやるぞと。言って言って言いまくってやろうという、ものすごい怒りです。真の怒りというか」
そして当日のことを振り返ったのち、こう言葉を強める。
「口でこそ『平和、平和』というのは僕は絶対に信用しない。あんなのは口先のものであって、何にもなりゃしない。誰だって言えるんだ、『平和』って。だけど平和の本当の本質を知っていることはどういうことかというと、人間の汚さ。僕は(原爆を)落とされた惨状の地獄もすごい人間の地獄だと思ったけど、もっと戦後を生きた時の方が地獄だと思った」
戦後、被爆者への差別は強く、『はだしのゲン』でもそうした部分が描かれている。中沢さんは『はだしのゲン』について「あれはもう、我が一族の恨みつらみをどうして晴らしてやろうかという一つの戦いですよね」と振り返った上で、日本人を敵に回しても戦争責任を追及したいという強い思いがあると打ち明けた。
「なんで怒りをぶちまけて、戦争を起こした奴を追及しねえんだと。戦争がなかったら原爆まで落とすことはなかったじゃないかと。それをしなかった。この日本人の曖昧さというのが大嫌いなんです」
「日本人を敵に回すかもしれないけど、これは怨念なんで、これを晴らさずにおくものかと」
「それらに共鳴してくれる奴が何人か増えてくるだろう。その中で真実を知ってくれりゃあ、これは作家冥利に尽きる。それしかないと僕は思ってますから。そういう信念で作品に取り組んでます。それだけです」
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原爆はおふくろの骨まで奪いやがったー『はだしのゲン』作者を突き動かした“真の怒り“【広島原爆の日】