「私には苦手な言葉があるんです。
それは、学校や職場、取引先で新しい人と少し距離が縮まった時に必ずされる『どこ出身なの?』という質問。
最終的に『福島県です』と答えると、だいたいは『地震、大丈夫だった?』と聞かれます。
津波に父親を飲まれた私は、なんと答えれば良いのでしょうか。
この11年、何度もそれに苦しんできました。
被災者が抱える苦しさや葛藤は、多くの報道で見られる『家族を失って悲しい』といった、わかりやすいものだけではないと思うんです」
◇ ◇
東日本大震災から、11日で11年が経つ。
あの日から、父親が行方不明だという東京都の会社員・亜沙美さん(29)=仮名=に話を聞いた。
◆ 父親が津波に…。今なお行方不明
亜沙美さんは1992年、福島県内に生まれた。小学生の時に母を病気で亡くしたこと、医療従事者として働く両親に憧れたことから、中学生の頃には医療関係の仕事につくと決めていた。
仕事で忙しい中、1人で育ててくれた父親には強い感謝があり、迷惑をかけたくなくて、勉強に加え得意のバスケットボールやピアノも頑張ってきた。
2011年3月、高校を卒業し志望大学にも合格した。亜沙美さんは、春からの大学生活に思いを膨らませ、ワクワクした気分で春休みを過ごしていた。
3月11日。その日は卒業旅行として東京を訪れ、いとこと遊んでいた。
午後3時前、観光していると大きな揺れがあった。街の中の大きな液晶を見ると、地元で大きな津波があったというショッキングな映像が目に入ってきた。すぐさま父親に電話をかけたが、つながらなかった。
「お父さん…お父さん…」頭の中には、それしかなかった。
電車は止まっており、放心状態のまま5時間かけて、歩いていとこの家に帰った。後日、父が津波に飲まれたという目撃情報と、さらに行方不明であることを告げられた。
正直、当時のことはあまり覚えておらず、記憶がすっぽりと抜けている期間もある。ただ、泣いている自分を親戚やいとこが抱きしめてくれたことだけは、鮮明に覚えている。叔母の家から大学に通うことになり、亜沙美さんは「支えてくれる人がいたという点では、恵まれていたと思います」と話す。
◆「どこ出身なの?」が、トラウマを呼び起こす
しばらくは、1人でいる時は泣き腫らす日々が続いたが、大学や親戚の前ではできる限り「普通」でいるよう心掛けた。
大学では早い段階で、新しい友人にも父のことを話した。変に触ふれられて、傷つきたくなかったからだ。交友関係を広げたいとも思えなかった。
亜沙美さんは当時のことを「狭い人間関係の中で、周囲に『壁』を作ることで、自分を保っていたんだと思います」と振り返る。
だが大学2年になり、踏み込まれる機会が来てしまった。「親戚の負担を減らさなきゃ」との思いで始めた、カフェでのバイトの飲み会だ。
新人として挨拶をすると「どこ出身なの?」と問われ、「福島です」と答えた。
「地震、大丈夫だった?」
そう聞かれた瞬間、いろんな記憶がフラッシュバックし、よくわからないまま気持ち悪くなり、そのまま帰宅した。
これまで脳の片隅に追いやっていた記憶が、ダムが決壊したかの如く、押し寄せてきた。
後に、医者からトラウマやストレスによって引き起こされる記憶喪失「解離性健忘」があると診断された。自分を防衛するために、大きなトラウマとなった記憶の多くを失くしているという。
その日から、初めての人と話すのが怖いと思うようになった。自分のトラウマに、いつどんな形で触れられてしまうか、わからないからだ。
「出身はどこ?」という質問はごく普通の雑談で、相手に悪気がないとわかるからこそ、誰も責められないしただただ辛かった。
◆人それぞれ「普通」は違う。踏み込まないことも大切
その苦しみは、今も続く。
念願だった医療関係の仕事に就き、今年で5年目となる。
「どこ出身なの?」
その質問は社会人になっても、入社式の日から始まり、部署が変わるたび、取引先と挨拶するたび、当たり前のように聞かれ続けてきた。
良くも悪くも段々と慣れてきて、「東北です」と濁す”余裕”は出てきた。
それでも、「東北のどこ?」と続けて聞かれることも多い。そして最後には、「地震、大丈夫だった?」のトリプルコンボだ。
その度に「なんて答えれば良いんだろう…」と自問自答するが、答えは出ない。
「大丈夫じゃなかったです。父が津波に飲み込まれて、今も行方不明です、って言って大丈夫なんですか?」と心の中で叫びながら噛み締め、疲弊し続けている。
亜沙美さんは「こんな重い話、初対面でできるわけないですよ。それに、私も大切な人にだけ話したい。
出身地を聞くのがおかしいと思っているわけではありません。
ただ想像力を働かせて、濁されたら、せめて深入りしないでほしいなと思います。人それぞれ『普通』は違っていて、どこで傷つくかも人によって違うからです」と話す。
◆「わかりにくい苦しみ」も伝えてほしい
亜沙美さんは、東日本大震災の被災者として取材を受けるのは初めてという。
「あの日から、もうすぐ11年。これまで報道を見てきて、言葉が正しいかは分からないのですが、今ではなく過去のこと、『家族を失ってつらい』といった、『わかりやすい苦しみ』ばかりが報じられているように感じてきました。
ですが、私のように『少しわかりにくい苦しみ』を、今、抱えている人もたくさんいると感じ、取材を受けようと思いました。
昔に何があったかだけでなく、被災者が今、どんな思いをしているのか知ってほしい。そうすることで、例えば踏み込みすぎないとか、お互いが生きやすくなるような気遣いが生まれると思っています。
この11年で、多様性の時代が進んできました。災害報道も、もっと多様化することを願っています」
〈取材・執筆=佐藤雄( @takeruc10 )〉
オリジナルサイトで読む : ハフィントンポスト
「どこ出身?」「地震大丈夫だった?」3・11で親を失った私は、なんて答えればいいの?