太平洋戦争中の激戦を生き残った数少ない日本海軍の駆逐艦「雪風(ゆきかぜ)」。その錨(いかり)と舵輪が1971年12月に日本に返還されてから50年を迎えた。
戦後賠償の一環で台湾に引き渡され、軍艦「丹陽(たんやん)」と改名。国共内戦で活躍したが老朽化した。1960年代には解体されてスクラップになるのは時間の問題とみられていた。こうした中で、日本では元乗組員や政治家らによる「雪風返還運動」が盛り上がった。
日本の会社員に台湾高官が返還を約束したという一部報道もあったが、実際の交渉は難航。台湾側から1970年になって「すでに解体済み」と連絡が入り、翌年に錨と舵輪のみ返還された。
幻に終わった「駆逐艦雪風」返還運動とは何だったのか。経緯を追ってみた。
「雪風」は、全18隻ある陽炎(かげろう)型駆逐艦の第8番艦として佐世保海軍工廠で建造。1940年に完成した。全長118メートル、基準排水量2000トンで開戦当時は最新鋭の軍艦の一つだった。スラバヤ沖海戦に始まり、ミッドウェーやソロモンなど各地の戦いに投入されたが、いずれもほぼ無傷で生き残った。1945年の坊ノ岬沖海戦では、戦艦大和が沈没するまで、護衛としてすぐ近くで奮戦。終戦時に稼働状態だった数少ない駆逐艦の一つだった。
終戦後は1947年1月まで復員輸送船として、満州・ラバウル・ニューギニアから旧日本軍の兵士ら1万3000人を日本に送還した。その中には、後に漫画家として知られる水木しげるさんもいたという。
1947年2月に「雪風」は他の賠償艦艇133隻とともに、横須賀でアメリカ・イギリス・ソ連・中国(国民党政権)の4カ国のくじ引きの結果、中国に戦利品として上海で引き渡された。その後、「丹陽(たんやん)」と命名され、国共内戦下の台湾海峡で活躍した。
1964年の高雄沖の台湾海軍の観艦式では蒋介石総統の乗艦となったが、機関の老朽化で1965年11月からは海軍学校の訓練艦になった。いずれは解体されてスクラップにされるとみられていた。
「雪風」が国内で評価されるようになったきっかけは、1962年6月に文藝春秋新社から出版された『連合艦隊の栄光』だった。軍事評論家の伊藤正徳さんが書いたこの本の第7章で、雪風は「世界一の好運艦」「世界海軍界の奇跡」と褒め称えられた。伊藤さんは雪風の日本返還を夢みていた。
<私は、もしも蒋介石氏が、「雪風」を日本に返して呉れるなら、それを、最近漸(ようや)く横須賀に復活した「記念艦三笠」の隣に繋ぎ、第二記念艦として永久の保存したいと夢みることさえある。奮戦と、好運と、そうして世界に優越した造艦技術の記念として。>
この本が出版された効果は絶大だった。雪風の元乗組員らによる「駆逐艦雪風会」が中心となって1964年から署名活動が始まり、台湾に返還を陳情することになった。
そんな折、1965年11月16日に驚くべきニュースが飛び込んできた。朝日新聞朝刊が「返還近い『雪風』」「一青年の訴えに国府が確約」と報じたのだ。
それによると伊藤正徳さんの著作を読んで「雪風」の魅力にとりつかれた当時30歳の会社員男性が台湾の国防部長に1964年春に「貴国海軍で将来、雪風を“廃艦”にする際には、ぜひ日本返還を検討してほしい。雪風の過去を知る一民間人の願いである」と手紙を出した。
すると、まもなく国防部長(国防大臣に相当)から「旧日本駆逐艦は健在である。廃艦の日には、必ず貴殿の意思に沿うよう努力しよう」という内容の返信があった。
さらに男性は1965年9月、高雄に停泊中の「丹陽」に戦後初の日本人として乗り込み、艦長や乗組員から歓待を受けたという。この記事では、男性からの情報として台湾の高官が以下のように約束したと報じている。
「耐用年限はきているが、丹陽はまだまだ優秀艦なので廃艦にするつもりはなかった。しかし日本との友好のため、また日本の世論が望むなら喜んで返還する。ただ、近々大改造する予定なので返還するとしたら、改造計画が本決まりになる前がいい」
男性は、この高官の名前は「まだ明かす時期ではない」とした上で「このチャンスを逃したら『雪風返還』は永久に日の目を見なくなる」と述べていた。
朝日新聞の報道によって、雪風返還に向けた日本国内の動きはさらに加速した。元海軍大将の野村直邦さんをトップする駆逐艦「雪風」保存期成会が結成された。翌1967年11月には同会の野村代表が中華民国駐日大使に面談し、台湾の蒋経国・国防部長あてに「雪風」の返還譲渡請願書を提出した
「願わくば閣下の特別のご配慮によって、本艦が廃艦または除籍される時節には、何卒本艦の母国日本にご譲渡下され、永久記念保存し得るよう、ご裁可賜りたく熱望して止みません」
しかし、蒋介石総統の長男で後継者とみなされていた蒋経国の反応は渋かった。1968年4月付けで駐日大使の元から野村代表に届いた返書は次のような内容だった。
「貴意を詳細に報告、好意的配慮を進言しましたところ、このほど蒋経国国防部長名にて、同艦は現在なお海軍総司令部により教練用艦として使用中のため、遺憾ながらご希望には応じかねる旨開示がありました」
3年前の朝日新聞の報道とは打って変わって、頑な態度だった。日本は1972年に台湾の中華民国政府との国交を断絶するが、この時期の日台関係は悪くなかった。それでも、戦争の賠償金代わりに受け取った軍艦を敗戦国に返還することは台湾の人々の反発を招くと国民党上層部は判断したのかもしれない。
それでも、保存期成会は諦めなかった。自民党の政治家へのロビー活動を功を奏し、1969年7月には自民党国会議員らによる「駆逐艦雪風保存会設立世話人会」の第一回会合が赤坂プリンスホテルで開かれた。
同年9月には、世話人会代表の2人の自民党参院議員(小川半次・林田悠紀夫両氏)が、中華民国駐日大使に雪風の返還を要請した。
駐日大使からは「現在、中華民国軍艦として活動中であるが、その将来については、ご要望に副えるよう本国政府に伝達したい」という話だったが、このあと台湾側の対応が一転することになる。
年が明けた1970年6月、返還運動に関わっていた元海軍中佐の土肥一夫氏の元に驚くべき情報が届いた。台湾側から「雪風は昨年夏、台風により艦底破損し沈没。高雄市唐栄鉄工所で解体された」と伝達があったのだ。
昨年秋の時点で「中華民国軍艦として活動中」としていた駐日大使のコメントは何だったのだろうか。ともあれこの後、雪風が解体されたという情報が、続々と台湾側からもたらされた。返還運動の関係者には落胆が広がった。
「文藝春秋」1970年11月10日臨時増刊号に掲載された、雪風の歴代艦長たちの座談会では以下のようなやり取りがある。
寺内「とにかく、まずいちばん情けない知らせがあるんだ。雪風がスクラップになっちゃったらしいぞ」
古要「私もその情報は聞きましたよ。確実な情報ではないけど、雪風がとうとう台湾から返還される希望はまったくなくなったという話が、それとなく入ってきました」
飛田「スクラップになったっていったって錨ぐらい残っておるんじゃろ」
寺内「とんでもない。なんでも、今年の五月ごろの台風で座礁したかして、さっそく台湾政府では鉄鋼会社に払い下げちゃった。それでキールンあたりの会社で解体されてネジ一つ残ってない、というわけなんだ。どうも確かじゃないが、大体確からしいぞ。(笑)」
元艦長たちは「ネジ一つ残ってない」と諦めムードだったが、このあと事態は動く。1971年1月には、自民党の中川俊思衆院議員に対して「雪風は艦体が老朽化して、台湾から日本に曳航することが不可能なので、錨と舵輪を贈送することに決定したことをお知らせする」と連絡が入った。
同年12月8日、錨と舵輪の返還式が横須賀市の海上自衛隊で開かれた。雪風の元艦長・寺内正道さんは目に涙を浮かべ、長さ2メートルの錨と直径1メートルの舵輪を懐かしそうに見守っていたという。寺内さんは返還式で次のように述べたという。
「感慨無量です。私としては全姿のまま戻ってもらいたかった。せめてこの錨と舵輪で、当時の元気であった“雪風”の雄姿を偲びたいと思っています」
雪風の錨と舵輪は今も、広島県江田島市にある海上自衛隊第1術科学校に展示されている。
【参考文献】
・「雪風 : 激動の昭和・世界奇跡の駆逐艦」(駆逐艦雪風手記刊行会)
・「週刊読売」1966年8月25日号
・「文藝春秋」1970年11月10日臨時増刊号「太平洋戦争 日本軍艦戦記」
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幻に終わった「駆逐艦雪風」の返還運動とは?錨と舵輪の返還から50年