生まれた娘は耳が聞こえず、目も見えなかった。病院に連れて行っても、原因はわからない。
「この子を残してはいけない、一緒に死のうと思って子どもの首に手をかけたんです」
「子どもがわかるんですよ…こう、ぐうっと首を横に向けて。その時気がついたんです、なんてことしたんだろうって。その罪の恐ろしさが今でも忘れられません」(水俣フォーラムNEWS No.23・24より)
四大公害病の一つ、「水俣病」の患者だった仲村妙子さん(2003年に64歳で死去)の証言だ。生前、重い症状や差別に苦しんだ日々や、わが子の患者認定を求めて闘った体験を講演会で伝えていた。
娘の夏田美智子さんは、亡き母と兄の代わりに、水俣病に翻弄された家族のことを語り継いでいる。
<水俣病とは>
メチル水銀により中枢神経を中心とする神経系が障害を受ける中毒性疾患。「新日本窒素肥料(後のチッソ)」水俣工場が海に流した排水にメチル水銀が含まれ、食物連鎖で魚介類に蓄積された。汚染を知らずにこうした魚介類を食べた人たちに病が広がった。
主な症状に、手足のしびれ、感覚障害、言語障害、視野狭窄などがある。
1956年5月1日、水俣湾の近くに住む5歳と2歳の姉妹が原因不明の病にかかり、水俣保健所に報告された。この日が水俣病公式確認の日とされている。
妙子さんの語りは、『証言 水俣病』(栗原彬・編、岩波新書)や、認定NPO法人「水俣フォーラム」の資料などに記録されている。
妙子さんは1939年、熊本・水俣の丸島で生まれた。物心ついた頃から、網元の叔父の船に乗って魚を獲りに行った。
体に異変が現れたのは小学5年生のとき。よだれが出たり、足の指がしびれて感覚がなくなったりした。ご飯の味がわからず、温度も感じられないため熱いお茶を飲んでやけどすることもあった。
「そげんしたこつはいうな。奇病っていわれたらもらい手がなくなるで」
母は、妙子さんの訴えを隠そうとした。
「私も魚が売れんごとなったらだめだとわかっていたから、体の具合が悪いのも隠していたんです」
「そげんした子ば連れて来れば身内の恥」
妙子さんが結婚した夫は「劇症型水俣病」の症状があり、手のしびれやけいれんに苦しんでいた。二人の間に生まれた長女は、「目が見えず、耳も聞こえなかった」。
「この子を残してはいけない」
追い詰められ、幼い娘の首に手をかけた瞬間、娘は首を横に向けた。
「その罪の恐ろしさは一生、捨てることができません。なんていうことを私はしたんだろう」
「私が首を締めるのをやめたときには、とても嬉しかったんでしょう、ピターっと私の体にくっついてきました。それは母親じゃなからんばわからんような表現でした」(『証言 水俣病』より)
生活が困窮し、一家3人で水俣に帰ろうとした時、妙子さんは母から「帰って来るな。そげんした子ば連れて来れば兄弟、身内の恥になる」と拒まれた。
長女は1歳の誕生日を迎える前に、「オギャーン」と声を張り上げた後、息を引き取った。入院していた夫も、病状が重篤化し、1962年に亡くなった。
「私一人でどう生きていけばいいのか」
妙子さんは生後4カ月の長男昭一さんを連れて、病院の5階から飛び降りた。テントに引っかかり、幸い一命を取り留めた。
「やっぱりこの子を育てていけいうことだなぁと、生き抜く決心をしたんです」
妙子さんはその後大阪に移って再婚し、夫との間に生まれたのが美智子さんだった。
「舌かんだらあかん」発作は日常だった
2021年7月23日夜。東京オリンピックの開会式が行われていた頃、美智子さんは都内であった水俣フォーラム主催の講演会に登壇した。時折声をつまらせながら、母や兄と過ごした日々を振り返った。
水俣病の発作に襲われる妙子さんの姿は、2人の子どもにとって「日常」だった。
「急にね、パーンとひっくり返るんですよ、発作をガーっと起こして。一週間に2、3回そういうのが起きると、兄も私も慣れてくるんですよ、発作の止め方をね。『舌かんだらあかん』言うて、割り箸を口の中に入れたりとかね。特別でもなんでもなかったんですよ、それが当たり前の生活でした」
水俣病の症状が重く、体の弱かった兄昭一さんは学校でいじめられていた。
「『水俣病やろお前』と言われて、毛虫を背中に入れられたりして。兄は毎日泣いて帰ってきました」
妙子さんは水俣病の患者認定の申請をしたが、妙子さんは「保留」、昭一さんは「棄却」との処分が出た。
昭一さんの棄却処分を不服として、妙子さんは環境庁(当時)や原因企業チッソに対する抗議活動に参加した。
「なんでこんなんすんの?」
発作を抱えながらも座り込みで抗議を続ける母。美智子さんの問いかけに、こう答えた。
「お母ちゃんな、ずっとしんどい思いしてるやんか。自分でしんどくなりたくてなったんちゃう。こんなんな、水俣病って認めてもらえないのはあかんから言ってんねん」
妙子さんは1979年に患者と認定された。それでも、体のけいれんにたびたび襲われ、働くこともままならず「地獄だった」と生前語っている。
妙子さんを苦しめたのは、健康被害だけではなかった。
「認定されたんですけど、母はあんまり喜んでいませんでした。『そんなん金欲しいから水俣病って言ってもらいたいんか』と周りに言われて、認定されてからの方が悩むことが多かったと思います。母は自分が認定されたからといって、水俣病の闘いが終わったんやないんやと言っていました」(美智子さん)
認定される人と、されない人の理不尽な「線引き」への怒りも、妙子さんは語っていた。「水俣で同じく魚を食べたんだから、みんな水俣病なんですよ。私は認定されましたが、なんで他のもんは認定されんのかと思います」(『証言 水俣病』より)
妙子さんは2003年に、乳がんで亡くなった。昭一さんも、晩年まで体の痛みを訴え、2020年に59歳でこの世を去った。
「水俣病がなかったらって、本当に思います。私も兄も母も、この水俣病で人生変わりましたね。私にとって水俣病って腹が立つ、悔しい、憎い(存在)。でも私はそこから逃げられない。母は水俣病でも苦しんで産んでくれた、だからそれ(水俣病)を嫌だと思ったらあかんな、まっすぐ生きな親孝行できんな、と思っています」(美智子さん)
美智子さんは13年前、息子が通う小学校の授業で、水俣病の母と兄のことを初めて公の場で語った。
「きっと兄と母が生きていたら、『お前がそんな話することない』って止められていたと思うんです。私には水俣病に関わってほしくなかったと思います。でも、もう母も兄も話をすることができなくなった。だから二人のことを話そうと決めたんです」
美智子さんは2017年、職業・人材紹介の会社「ゲットワークス」(大阪府)を設立し、生活困窮者らの支援に当たっている。きっかけは妙子さんだった。
「私が小学生の頃、母はパートに出るんです。いつ発作が起きるかわからんのに、働けるわけないんですよ。欠勤も多かったので、もちろんのことクビになりました。全国にも、母みたいな人たくさんいるじゃないですか。仕事したくてもできない。そういう人たちの手伝いができたらなと思っています」
病気や障害など、様々な事情で働き先や住まいを見つけられない人たちを支え、伴走している。
(國崎万智@machiruda0702/ハフポスト日本版)
Source: ハフィントンポスト
幼い娘の首に手をかけた母の「罪」 水俣病の差別と病苦、私が語る理由