この連載では毎月、筆者が「推せる」と思うドラマや映画、書籍などのコンテンツについて紹介させてもらっている。本稿で取り上げようと考えているのは、漫画『明日、私は誰かのカノジョ』(をのひなお著、書籍は小学館刊)だ。
だが、周囲に強く薦めたくてたまらないほど推しているのか? この作品の描く世界が好きなのか? と言われると答えをためらう。読後はほとんど、苦虫をかみつぶしたような顔になることが多い。でも、何となく気になってしまう。新しい話が更新されるごとに読み続けてしまう。なぜなのだろう。
通称『明日カノ』と呼ばれる本作は、漫画配信サービス「サイコミ」で2019年5月に週刊連載が始まった。初めに展開されたのは、「彼女代行サービス」で日々お金を稼ぐ女子大生と、彼女に魅せられた男性たちの「恋愛」を描くストーリー。以降は、1章ごとに主人公が変わるオムニバス形式で、パパ活や整形、ホスト狂いなどをテーマに取り上げている。
作者の経験や、当事者への取材に基づいた心理描写が「リアルだ」と話題を集め、書籍版(紙・電子)の累計発行部数は120万部を突破した。
人には、それぞれのリアリティーがある。筆者の私に関していえば、パパ活をしたこともなければ、整形をしたこともない。だから、「カノジョ」たちにまるごと共感しているわけではない。ただ、距離を置いて理解している、というのも少し違う。どのエピソードにも共通して流れる、背筋の冷やっとするような感覚を「知っている」から、直感的にリアルだと感じられるのだろう。
「サイコミ」には、更新1話ごとに読者が書き込めるコメント欄があり、『明日カノ』の場合、感想が1万件を超えることもある。主人公と同様の経験を綴るもの、業界用語やあるあるエピソードに反応しているものも見られるが、多くの人は、前述した私と同様の感覚を抱いているような気がする。
背筋の冷やっとするような感覚――それは例えば、こんな描写から引き起こされる。
コメント数から、これまで最も大きな反響を集めたといえるだろう第4章、ホストに狂う女子大生を描いた「Knockin’on Heaven’s Door」。冒頭、主人公・萌のモノローグから始まる。
「女だから可愛くなければいけない 女だから男に媚びなきゃいけない 女だから恋愛にときめいていないといけない」
「だなんて」
「今時馬鹿馬鹿しい」「自分は自分らしくいればいいのに」
「私は彼女達とは違う」「ちゃんと自分を持ってる」
その後、読者は、「ちゃんと自分を持ってる」と言いながらもモテないことに傷つき続けている萌が、ひょんなきっかけからホストとの「恋愛」にハマり、関係をつなぎとめるための金を風俗で稼ぐようになるところまで見せつけられることになる。
「女だから可愛くなければいけないなんてことはない、自分は自分らしくいればいい」――。それは近年、私たちをエンパワメントする言葉として登場したはずだった。「馬鹿馬鹿しい」などと他人を見下す萌の個人的な言い回しを脇に置けば、「恋愛市場で承認されなければならない」という圧力が強過ぎるこの社会に対するカウンターとして、私たちが体得したはずの言葉だった。
それが、「ほらね、やっぱり本当は承認されたいんでしょう」とばかりに再び反転させられていくさまは、眺めていてあまり気持ちのいいものではない。読者によるコメントで、ホストを好きになって、メイクも洋服のテイストもがらりと変えた萌を「人を見下していたころより全然かわいいよ!」と評するものがあることにも、共感半分、渋い顔半分といったところだ。
※以下の部分では第4章の結末に触れています。
だけど一方で、「自分は自分らしく」というエンパワメントの言葉は、呪文のように一人つぶやくだけではおそらく効力を発揮しない。信頼できる身近な他者が「その通り、あなたはあなたのままでいい」と支えてくれるからこそ、そうであるに違いないと信じられる。でも、本作に登場する「カノジョ」たちはほぼ例外なく、家族も友人も「信頼できる他者」として認めていないのだ。その、絶望的なまでの孤独。そんな感覚を共有させられる現実を私たちは生きているから、露悪的な描写が刺さるのではないか。
女性同士の関係も、ロマンチックに描かれることはない。例えば、萌は紆余曲折あって、最終的には「ホスト沼」から抜け出すことになる。そのとき、彼女を初めてホストクラブに誘ったゆあという女性に、これからも友達でいたい、と言う。
自分の存在も人との関係も、すべてお金に換わって溶けていくような時間の中で、「それでも残ったものはある」と信じたい――萌と私たち読者の淡い希望は、次の瞬間のゆあの言葉で粉々に砕け散る。
「え、ぬる…」「(萌は)そっちの世界の人だったんだね」
萌を拒絶するゆあの台詞が象徴するように、『明日カノ』の主要な登場人物たちに共通するのは、自分の心を他人とシェアしようとはしないことだ。皆、不安や傷を抱えている。同時に「この自分の苦しみは、周囲の誰も分かってくれないだろう」と考えている。大学の友達も、家族も、感情がお金に換わる世界ですれ違う人々も。誰一人として、自分の柔らかく傷つきやすい部分を受け入れてくれる「安全な存在」ではない。だから、萌とゆあは友達になれない。
人生って苦しいことがなぜかいっぱい起こるけれど、時に自分以外の誰かが自分のことを気にかけてくれるからこそ、破れかぶれでも何とか生きていけるのかもしれない、というのが筆者自身の実感だ。本当につらいのは、「自分のことなんて誰にも分かってもらえない」という孤独感が、何重にも折り重なっていくことだと思う。
『明日カノ』に登場する女の子たちは、何者にも頼らない。自分の持てるもの、使えるものをすべて駆使して、自分の心をどうにか生きていける状態に保とうと、一人ぼっちで苦闘している。その姿は時に、ハードボイルドでかっこよく映ってしまう瞬間さえあるのだけれど、やはり幸福そうではない。
扱われている題材から、「人の不幸を覗き見したくて読むものではないか」とみられがちな作品だ。もちろん、足を踏み入れたことのない危険そうな世界の写実性に、好奇心を刺激されるのも否定できない事実だろう。
けれど、同じ経験をしたことはないのに「リアル」だと感じるのは、「カノジョ」たちが自分自身にちょっとだけ似ているからではないかと思う。「つらい」とうめきながらページをめくり続け、「早く次が読みたい」と待ちわびる私たちは、カノジョたちが幸せそうに笑う瞬間に、いつかたどり着きたいのではないか。
(取材・文:加藤藍子@aikowork521 編集:泉谷由梨子@IzutaniYuriko)
Source: ハフィントンポスト
パパ活、整形、ホス狂い。「自分らしく」と言いながらハマっていく彼女に「リアル」を感じるのはどうしてか、考えた。