「本当に地球環境のことを気にかけるならば、あなたは白人至上主義を解体する必要がある」
大学でこの記事のタイトルを見たときに、正直、私は疑問に思った。
人種問題と環境問題は別々の問題じゃないのか?温室効果ガスを削減するのに、産業や社会の構造改革がすでに求められているのに、人種差別まで対処していったらキリがないのではないか。
今読まれている方の中にも、そう思った方がいるかもしれない。
しかし、環境問題と差別や格差の問題はつながっていて、私たちはこの2つを同時に解決していかなくてはならない。
グレタ・トゥーンベリさんが発起人となった、気候変動対策を求める学生運動「Fridays For Future」の日本版で2年前から活動し、2021年1月からアメリカ・インディアナ州の大学で環境文学や平和学について学んでいる私が、ここで知った「環境正義」という言葉。
この「正義」という意味を紐解きながら、いかに環境問題と人種的マイノリティに対する差別が根本的に結びついているか、説明してみたい。
環境運動は「余裕」のある白人男性のものだった
大学で環境運動の成り立ちを学び、非常に驚いたことがある。アメリカにおける初期の運動が、非常に白人至上主義的で、人種差別や格差を助長してきたものだということだ。
自給自足生活を記した著書「ウォールデン」で多くの環境主義者に影響を与えたソローや、国立公園設立のきっかけを作った環境NGOである「シエラクラブ」創始者のミューア。初期の環境運動のヒーローと見なされている人物たちは、多くが経済的に裕福で自然を親しむ「余裕」がある白人の男性であった。
ミューアは、元からネバダ州シエラに住んでいた原住民を「このきれいな荒野で、黒目がちの黒髪で、半分幸せな野蛮人が送る、奇妙に汚くて不規則な生活」(Muir 114)と差別的に語っており、そうしたレイシスト的な考えが国立公園の設立の際に原住民たちを追い出すことにつながった。(実際は原住民族たちの野焼きなどの慣習によって美しい自然が守られていたにも関わらず、だ)
自然は白人などの特権階級によって独占され、有色人種は排除されていったのだ。
それなのに、である。
有色人種は環境問題の被害に最前線で直面している。
例えば、ミシガン州デトロイトの最も大気汚染が深刻な地域であるボイントン地区の住民の80%は有色人。呼吸器官に被害を与える大気汚染物質であるPM、SOx、NOxを州内で最も多く排出している4つの企業が、同地区のたったの5マイル圏内に勢揃いしている。
経済的にその土地から引っ越すことができない彼らが、長期的に健康被害を受け続けることになり、死亡率も周辺地域と比べてとても高い。白人の自治体職員や企業がつくった都市計画や産業計画によって、である。
現代奴隷制(強制労働や人身売買などで望まない労働を強いられる人々やその問題)を研究するノッティンガム大学のケビン・ベールス教授は、そうした人々が「”使い捨てられても構わない人々(disposable people)”と認識されている」と指摘する。
日本人に伝わりづらい「正義」のニュアンス
こうした状況に対して「NO」を突きつけるのが「環境正義 (Environmental Justice)」だ。
「環境正義」は、すべての人が人種・性別・文化的背景・経済的な状況に関わらず、環境汚染や気候変動の影響から平等に守られることを目指す。
例えば先にあげたデトロイトの貧困地区に住む有色人種など、そもそも社会的に弱い立場にある人たちが真っ先に環境問題による被害を受ける構造を是正することを求めるものだ。
「正義」と聞くと、日本語では「正義の味方」と言われるように、悪に対して振りかざされる絶対的な正しさという印象が強い。
しかし、英語におけるJusticeは”絶対的”というよりも”相対的”に「公正な、公平な」というニュアンスで用いられる。社会的マイノリティの命が人種差別や環境問題により暴力的に奪われるという「不正義」に対する「正義」として語られる。
私はいま、アメリカの大学で学んでいるが、人種差別や気候変動、貧富の差といった問題の文脈の中でJusticeという単語をよく耳にする。Just Solution(公正な解決策)、Just Transition(公正なシステムの移行)などの言葉もよく聞く。
一方、日本語で聴き慣れている「環境問題」や「気候変動」という言葉は、どこか私たちには無関係で独立した「問題」として響き、その裏で不公平な災害や暴力の被害を受ける人々の苦しみが隠されてしまう。
「環境正義」という言葉は、そうした「隠蔽」を許さない。そこに「当事者」がいるのだ。
私が「環境正義」という言葉が日本で広まって欲しいと考える理由はここにある。
さらに環境正義は、その当事者たちが政策決定に参加する権利が保証され、最終的に全ての政府や企業による環境破壊がなくなること、そして自然と人間が調和した公正な世界が実現されることを求めている。
(環境正義はとても多様な社会課題と関連しているため、完全な定義づけが難しい。筆者の説明は第一回全米有色人種の環境リーダーシップサミットで提唱された環境正義の原則を参考にしている)
気候変動も「気候正義」という言葉でとらえる
「正義」という言葉は、それでも大袈裟に聞こえるだろうか。
次のグラフをみて欲しい。
世界全体の個人消費によるCO2排出量の半分は、世界中で最も裕福な10%から排出されたものだ。世界人口の50%を占める貧困層から排出されるCO2は、全体のわずか10%に過ぎない。
「途上国で人口爆発が起きている以上、地球温暖化は止められない」などの言説を聞くことがあるが、温暖化の原因となっているのは先進国や富裕層の資源利用だ。
こうした状況をうけて、アメリカの作家レベッカ・ソルニットは「気候変動は裕福なものから貧しいものに対する暴力だ」と述べている。
気候変動は、労働者・女性・グローバルサウス・貧困層など他の社会課題における弱者を真っ先に直撃する、まさに構造的な「暴力」なのだ。
日本のCO2排出量の18分の1しか排出していないバングラデシュでは、1900万人の子どもが気候変動による命の危機にさらされている。CO2排出量の少ない島国などでは海面上昇などによって国土が消滅するということが現実になっている。
(相対的には)原因を作っていない国々が、存在すらも消し去られるということは確実な「暴力」だ。ゆっくりと上がり続ける海水面や、長期的な干ばつがその「武器」となっているのだ。
こうした現象は例えば日本国内でも起きている。大型台風が上陸した際に台東区でホームレスの方が避難所へのアクセスを拒否された問題が示すように、社会の中で最も守られていない人々の命が真っ先に危険にさらされる。
気候変動の不平等な原因と影響による不正義を考慮し、公正な解決策を求めていくための考えが「気候正義」だ。
気候変動問題と、BlackLivesMatterが手を取り合ったように…
解決の鍵になるかもしれないのは、Intersectionality(インターセクショナリティ・交差性)という概念だ。これも、アメリカに来てよく聞くようになった単語の一つで、世界の環境運動では大きく叫ばれている。
気候変動問題だけでないが、労働問題、人種問題、ジェンダー格差、貧困などあらゆる社会課題が複雑に交差していることを表す文脈で用いられる。
Intersectionalityを意識し、それぞれの問題における弱者の存在をつなげて考え、包括的に解決していくことを目指さなくてはならない。
アメリカでは、気候変動運動とBlack Lives Matterが連帯し先の大統領選挙でも存在感を見せた。脱炭素社会と雇用創出を目指す「グリーン・ニューディール政策」の後押しになったとされる。
SNSでも若者に伝わりやすいグラフィックとともに、環境危機が人種差別・ジェンダー格差・新植民地主義と深く繋がっており、連帯して運動を起こす必要性を発信している団体やインフルエンサーが増えている。
▼一例として筆者がよく見ているintersectional environmentalistのアカウント
私も日本で気候変動運動に関わってきたが、先進国である日本はグローバルサウスの資源を利用したり、安価な労働力を搾取したりして、経済活動を行なっている。
だからこそ私は、グローバルサウスでさまざまに交差する課題に取り組む人たちと連帯して、静かな暴力の解体を求めていきたい。
今は、地球の反対側にいるアクティビストともいつでもZoomミーティングができ、一緒に動画やInstagramなどで発信するためのコンテンツを作ることが可能だ。国内外で、難民問題、貧困、LGBTQ、女性の権利など様々なイシューに取り組む人々が繋がり、互いのアクションに参加をしたり、共に企画しメッセージを発信していくことができると思う。
日本で不自由なく育ち、男性で、異性愛者である自分は、無意識のうちに格差構造の加害側・マジョリティ側であるということを、「環境正義」の概念によって気づかされた。
母子家庭で育ったため経済的に学費を払うことが厳しく、全額奨学金で工面しているものの、海外の大学に進学することができたという点で、とても恵まれている立場にある。そんな私が環境正義について書いていることを問題視する人もいるかもしれない。しかし学ぶ機会をもらえたからこそ、伝えていく責任があると考え、今回の記事を執筆した。
「世の中がそっちの流れだから」「経済システムもそう変わっているから」という理由での「脱炭素」ではなく、倫理的なアプローチとしての気候正義を実現することが不可欠だ。気候変動運動は人々が「使い捨てられる」ような社会構造を根本的に変えていくことが求められる。
*引用:Muir, John (2004). My First Summer in the Sierra. New York: Dover Publications Inc
(編集:南 麻理江)
Source: ハフィントンポスト
気候変動で“真っ先に死ぬ“のは誰? 「環境正義」や「気候正義」という言葉が日本にも浸透してほしい理由