クリスマスの翌日、私の家族は「カモメの日」を祝うために、古くなったクラッカーやシリアル、プレッツェルの箱を持ってケープコッド(アメリカ・マサチューセッツ州)のビーチに刺した木の枝を取り囲んだ。
「カモメの日」の名付け親である母は、枝を飾るよう私たちを促した。4人きょうだいの最年長である私は、指示を仰ぐように私の方を見るきょうだいたちと視線を交わした。
娘を抱いて体を上下に揺らしていた弟が「母さん、傷つけるつもりはないんだけど、どういうことなのかさっぱりわからないよ」と言った。
10年前の母の宣言
10年前、母はクリスマスをやめると宣言した。代わりに「カモメの日」を祝うというのである。私は、母がピンタレストで何か見たのだろうと思った。
母は「違う、違う」と否定した。
「自分で考えたんだよ。棚の中にある古くなった食べ物をツリーに飾り、それをカモメにあげるの。カモメたちは冬は人間からサンドイッチを盗めないから、お腹を空かせているはず」
4人の子どもが家庭を持つようになった後、私たちはそれぞれの家族が自宅でクリスマスを過ごせるようにするために、12月26日に実家でクリスマスを祝うことにした。
しかしクリスマスは次第に、期待と破綻に満ちた祝日へと姿を変えていった。母、私、親権争いをしている人、子どもの病気で傷ついた人――崩壊状態にある者は、その年によって違った。
それでも毎年、私たちはクリスマスを乗り切った。車でさっさと帰ったり、2階の寝室に閉じこもったりする人がいなければ成功だった。そのどちらも、頻繁に起きた。
私たちはお互いを大切にしていなかったわけではない。家族の役割にしがみついていたのだ。
長子の私は責任を背負いすぎて機嫌が悪くなり、歳の近い2人の弟は私の不機嫌さや指図する傾向(性格だと認めよう)をからかった。13歳年下の妹は争いごとが起きないよう気を配り、「高校卒業後に最も自立しているのは誰か」といった、喧嘩になりそうな話題をそらした。
でも、カモメの日は違った。祝い方を決めるのは母で、私たちはそれに従った。クリスマスとはまったく違った。
最初のカモメの日の数日前、母は私に電話で「プレゼントは持ってこないでね。プレゼントをもらうことも期待しないで」と言った。
私は妹にメールした。「カモメの日ってどうなってるの?」
妹から返信がきた。「わからない。でもお母さんは張り切ってる。いいことあるかもよ?」
カモメの日、私が娘たちと実家に着くと母はワインをゆっくり楽しみ、父はダイエットコーラを一気に飲み干していた。そこには、オーブンタイマーを巡って言い争ういつもの光景はなかった。
オーブンから漂ってくるローストビーフやポテト、インゲン豆の匂いの代わりに、バルサムモミの香りがした。
弟や妹はキッチンの周りにいた。妹は眉をひそめ、弟は肩をすくめていた。きょうだいたちがつまんでいるチェダーチーズとリッツ・クラッカーの大皿の隣には、バルサムモミのキャンドルが灯っていた。
人が変わるための唯一の方法は居心地の悪い思いをすることだと自己啓発本で読んだことがある。私たちきょうだいは、とても居心地が悪かった。
ピリピリと張り詰めた空気はどこに行ったのだろう?口論は?大人であるにもかかわらず、両親にかまってもらうことを狙い相手を困らせようとする策略は?
カモメの日を祝うことに気を取られてしまったら、何十年にもわたるすれ違いから生じ、いまだに引きずっている傷ついた感情をどんなふうに態度に出せばいんだろう?
母は「男の子たちは、木に使えそうな大きな枝を探してきなさい」と言った。近所にあるのは、ヒョロヒョロして良い枝のない細い松の木ばかりだ。45分後、彼らはやせ細った残念な枝を持って戻ってきた。
妹が顔をゆがめると、弟は「簡単に見つかると思う?」と言った。しかし私が思っていたような口論は起きず、ふたりとも笑い出した。
母がそろそろビーチに向かう時間だと告げると、弟のひとりが、私たちみんなが疑問に思いながらもあえて尋ねなかった質問をした。
「ちょっとクレイジーだと思う人いる?なんでクリスマスにカモメを祝うために零下1℃の中をビーチに行かなきゃいけないの?」
数秒後、父は私たちきょうだいを廊下に押しやった。
「とにかく、母さんの言うとおりにして。わかった?」
(セサミストリートの)バートのようなフサフサとした眉毛がピンと立っていた。誰かが傷つくようなことを言ったり、その日が台無しになりそうな雰囲気になったりすると、私たちはいつも1980年代や90年代にタイムスリップした。それは避けられない伝統だった。
母は「祝日って、気分が高揚するね」と毎年言うセリフを口にした。
母はいつも、クリスマスを魔法のような日にしたがった。何よりも、私たちをがっかりさせたくなかったのだ。
中学生の頃、私は母のミニバンの助手席に乗り、おもちゃ屋の前に停めた車で母が待つ間に店に駆け込み、手に入らないアルフのぬいぐるみや、トランスフォーマー、エア・ジョーダンがあるかどうか尋ねた。私が急いで車に戻り親指を下げると、母の顔から希望の表情が消えていった。
それでも、母はいつも私たちに望むものを届けてくれたが、愛や義務、責任には代償がつきものだった。
クリスマスの日までに、母は疲れ果て、機嫌が悪くなっていた。それは私たち家族に対するものではなく、祝日の期待に対してだった。
ピリピリした空気が、私たち家族の7人目のメンバーになり、私たちがサンタからのプレゼントを開けた後に忍び寄ってきた。母が向かった台所には、何時間もかけて用意したのに、望んでいたようには評価されない料理があった。
初めての「カモメの日」
今、私たちの家族15人は、コートや帽子、手袋を身につけて、ビーチまで1.5キロの道のりを歩いている。
弟たちは 「ツリー」を担ぎ、姪は等身大の木製のカモメを握りしめていた。このカモメは、母がどうしても写真に収めたいとコーヒーテーブルの上に置かれていたのだ。写真を撮るというのだろうか?
父は「ホワイト・クリスマス」を歌いながら、食べかけのチェリオスやプレッツェル、リッツ、チーズイットの箱が入ったスーパーのビニール袋を2つ振り回した。
私たちきょうだいはどうしていいかわからなかった。穏やかで良い雰囲気に、調子を狂わされた。私たちは物心ついたときから、休日は武装して戦いに備えてきたのだ。だいたいいつだって、スーパーについての無邪気なコメントが、その人に対する個人攻撃や選択の批判になってしまうのだ。
私たち4人は、冷たい空気や砂の感触、子どもたちの興奮に集中しながら、母が作った偽の休日を乗り切るための仲間意識を求めていた。
私たちは身を寄せ合い、弟たちが固い砂の上に刺したツリーを倒そうとする北東の風を遮った。大西洋は暗く、浜辺は人けがなかった。手袋をしてくればよかったと思った。
母が「ツリーにお菓子を置く場所を見つけて」と言った。「キラキラした飾りだと思ってね」
中学生の私の娘や、姪、甥が飾りつけを始めた。10個のプレッツェルをネックレスのように枝に連ねた娘が、「ミミ、これかわいいでしょ」と母に言った。
低い枝の上にバランスよくクラッカーを重ねた姪が「ミミ、見て、見て」と叫んだ。
私たちきょうだいは後ろに下がり、喜びに満たされた表情の母を目にした。それはクリスマスに見たことのない表情だった。私たちはニヤリと笑い、チェリオスの箱に冷たい手を突っ込んだ。
「母さんが、今朝これを食べたと思う人いる?」と弟の一人が尋ねた(母は賞味期限切れの食べ物を取っておくので有名だ)。
クリスマス、いやカモメの日に私たちは笑った。それは気持ちのいいものだった。本物で私たちが何年も、いやもしかしたら永遠に失っていたかもしれないものだった。
私たちはお互いを大切に思っていたが、クリスマスの混乱の中でそれを忘れてしまうことがよくあった。
古くなった食べ物の箱や袋を空にした私たちは、自分たちの作品を眺めた。長女が私に「気に入った?」と尋ねた。
「気に入った」と私は答えた。
私たちはビーチを歩いている男性と女性を見つけて、写真を撮って欲しいと頼んだ。
写真を撮ってくれた女性に「これは何のためのものですか?」と尋ねられ、弟が「カモメの日です!」と自信たっぷりに答えた。
家に帰る途中、私たちは「カモメの日!カモメの日!カモメの日!」と唱え始めた。それは家族にとって、クリスマス翌日の新しいスローガンになる言葉だった。
これほど、自分が家族の一員だと感じたことはなかったと思う。指先はしびれ、スニーカーは砂でいっぱいだったが、家族に愛されているという気持ちではち切れそうになった。長い間、クリスマスにこんな気持ちを感じたことはなかった。
その日の午後、私たちはナチョスとピザを食べ、母の手作りジンジャーブレッドマン(人型ビスケット)を飾った。
キッチンは小さなお菓子や、フロスティング、食用ジェルカラーで埋め尽くされ、母は一緒に座った孫たちをクリエイティビティで魅了した。
母は私たちに50ドル入りの封筒と小さなチョコバーを一箱ずつくれた。
母が「カモメの日おめでとう」と言い、私たちは心から喜んだ。何もいらなかった。母が一昨年私たちにくれたものさえ覚えていなかったのだから。母は私たちきょうだいに、自分が買って贈るために、子どもたちのサンタへの欲しいものリストからプレゼントを1つとっておいて欲しいと頼んだ。それまで何年も続いていた、大量のプレゼント交換を懐かしむ者は誰もいなかった。「もうやらない」という許可をもらうまで、それがどれほど私たちを悩ませていたかに気づかなかった。
数時間後、弟たちは枝を取り除くためにビーチに行った。枝には何も残っておらず、古くなった食べ物はすべてなくなっていた。空から舞い降りてきたカモメたちが、私たち家族の機能不全の混乱とゴミを綺麗にし、新しい方法で家族の複雑な美しさを祝うことを許してくれたのだ。
ここ数年、私たちはカモメの日のTシャツを作り、恒例の記念撮影のために三脚を買い、交代でテイクアウトの食べ物を持ちより、ビーチへの散歩のためのプレイリストを作り、12月の大西洋沿いでツリーを飾るためにふさわしい服装を学んだ。
母の宣言から10年、私の子どもや姪、甥たちは、カモメの日を知らない人がいると驚く。彼らにとっては毎年恒例、いや国全体で祝うべき祝日なのだ。私のSNSへの投稿や写真には、質問や 「来年は私もしたい!」という長いスレッドができる。
私はみんなに「ぜひやってみてください」と勧めている。
オリジナルサイトで読む : ハフィントンポスト
クリスマスを祝うのをやめたら最高だった。機嫌が悪かった母の宣言が私たち家族を変えた