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「私にとっては優しい祖母。だけど母にとっては…」LiLiCoが本音で語る“親子3世代”の繋がり

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タレントのLiLiCoさんタレントのLiLiCoさん

世間を騒がすイシューからプライベートの話題まで、LiLiCoさんがホンネで語り尽くす本連載。今回のテーマは、「祖母と私」です。

18歳で来日してから、東京・葛飾区に住む祖母が母親代わりだったというLiLiCoさん。この3月で亡くなって20年になる明治生まれの祖母は、海外に渡り見知らぬ日本人と結婚するなど、波乱万丈の人生を送ったといいます。

LiLiCoさんが祖母から受けた影響や、祖母・母・自身という親子3世代の繋がりについて語ります。

明治生まれの祖母の思い出

私の日本の祖母は、明治42(1909)年生まれ。大変な時代を強く生き抜いた女性でした。幼少期に第一次世界大戦を経験し、兄を訪ねて海外に渡ったら、その日のうちに現地の知らない日本人と結婚することに。結婚後は、周囲の日本人女性たちに教わって、着物を縫う仕事をしていたそうです。

結婚して8年ほど経った頃に日本に戻り、私の母と叔母、叔父の3人を出産しました。しかし、叔母は12歳のときに病死してしまいます。

さらに数年後には、今度は夫である祖父ががんで57歳で亡くなり、祖母は一人で母と叔父を育てました。

スウェーデン時代、私は5年に1度、日本に遊びに来ていました。当時の私にとって、祖母はよくわからない言葉を話す不思議な格好をした小さなおばあちゃん。

祖母がスウェーデンに来たこともあります。一番よく覚えているのは、和装でスウェーデンにやってきた祖母が道路で犬のフンを踏んでしまった事件。子どもの私にはおかしくて、祖母が帰ってからも母と何度も思い出し笑いをしていました。

18歳で来日して再会した祖母は、昭和17年に1500円で買ったという東京・立石の木造2階建てに住み、近所でライブハウスを営んでいました。日本語を一言も話せない孫がいて、すごく困ったはず。それでも歌手を目指していた私のために、オーディション情報や、バイトの求人情報を見つけてきてくれたり、日本語を教えてくれたりしました。

生理になったときには、血がついた服を座布団の下に隠したら、知らないあいだに洗っていてくれたこともありました。翌日、薬局に連れて行ってくれて、祖母は「女の子の“恥ずかしいやつ”ください」と一言。当時の女性にとって、生理用品は恥ずかしいものだったんですね。

祖母の作ってくれる黄色いカレーも肉じゃがも大好きでした。一番の思い出の味は日本に到着した夜に食べた店屋物のしょうゆラーメン!私にとって初めて食べるラーメンで、見た目も味も今でも鮮やかに思い出します。

「毎日、違う道を歩きなさい」祖母の教えてくれた言葉

祖母が亡くなったのは、94歳のとき。2002年に息子である叔父を57歳で亡くし、骨壺を抱きながら「桜が咲いたら迎えにくるんだよ」と泣いていた祖母は、春の気配がし始めた翌2003年の3月、東京・曳舟の病院で亡くなりました。

祖母が入退院を繰り返していた最期の3年ほどは、私も仕事が忙しくなっていました。それでも時間が惜しくて、毎晩のように仕事が終わると立石の家や病院へ直行しましたね。寝ている姿を見るだけのときも、たまにオムツを替えて「も~、ぴいこちゃん(LiLiCoさんのあだ名)がやるとモゴモゴするんだから~」なんて笑われるときもありました。

祖母の死後、葛飾の家に戻ったら、お通夜やお葬式の費用、遺産の分配まで、生前に手配したことを記したメモが残されていました。遺影やお葬式で祖母自身が着る着物もそろえてあって、最期までしっかりした人だったんだなと驚きました。

若者にも理解があるイカしたおばあちゃんだった祖母は、地域の人気者でした。生前、私は近所の人たちから、「ぴいこちゃんには申し訳ないけど、あの人はみんなのおばあちゃんだよ」と言われたことがありました。旅立つ1年半ぐらい前、「死んでからみんなが集まってくれてもありがとうが言えないから」と話す祖母のために企画した生前葬のパーティーにも、たくさんの人が集まりました。

祖母が教えてくれたなかで、特に記憶に残っている言葉が2つあります。1つ目は、「毎日、違う道を歩きなさい」。毎日同じ生活を送っているとしても、違う道を選べば新しい発見があるというアドバイスです。

2つ目は、「一日一つだけ覚えればいい」。語学でもいいし、天ぷらの揚げ方でも、梅干しの漬け方でもいいから、1日1つ覚えれば1年で365個賢くなれる。明確で取り組みやすくていいですよね。どちらも、自分の人生は自分次第でいくらでも変えられるということを教えてくれる言葉です。

私にとっては優しい祖母、だけど母にとっては…

ケンカをして仲が悪い時期もあったけど、祖母は優しくていい人だった――。そう思う一方で、私の母にとってはそうではなかったのかもしれないな、と考えることもあります。

日本で生まれた母はいつも「弟がバックパックの旅で訪れたスウェーデンを絶賛していたから、自分もスウェーデンに行った」と話していました。でも、もしかしたらそれは過去を美化しているだけかもしれません。もし日本で幸せだったら、移住までするでしょうか? 母とは逆ですが、私もスウェーデンでの生活に閉塞感を覚えて、日本にやってきましたから。

祖母は母が日本にいるとき、ある会社の跡取り息子との結婚を「うちの子では社長夫人は務まらない」と言って反対して、母たちは別れることになったそうです。そんな祖母が嫌になったことも母がスウェーデンに渡った一因だったのかもしれません。思い返せば、母と祖母は顔を合わせれば言い合いをしていた気がします。

ただ、それは私とは関係のない、2人の間の話。祖母が亡くなった今は、私と祖母の間にある良い思い出を大切にしたいです。

若き日の祖母と話をしてみたい

祖母は、私の「日本で芸能人になりたい」という夢を受け止めてくれた人。18歳の時、スウェーデンから日本に渡っていいか母に電話をかけてもらったとき、祖母が言ってくれた「芸能界を本気で頑張るんだったら来ていいよ」という言葉は、今でも私の原動力になっています。

テレビや雑誌で占い師に見てもらうと、必ず「おばあちゃんが後ろにいる」と言われるんですよ(笑)。もしかしたら、祖母は今も私を守ってくれているのかもしれません。

私の親族には、祖母をはじめ、生まれた国の外の文化に触れて生きる人が多くいます。母は日本からスウェーデンへ、私はスウェーデンから日本へ移って結婚しました。スウェーデンで育った弟も日本、ロシア、スペインに住んだことがあり、結婚相手はタイ人。母のいとこは日本からデンマークに移り、デンマーク人のパートナーと韓国人の養子と暮らしています。 

生きた時代は違うけれど、2つの国で暮らしてきたという点では私と祖母は同じです。海外に渡って見知らぬ人と結婚した祖母は、何を感じたんだろうと今でも思うことがあります。そして、自分の母親や娘である私の母と、どんな風に接していたんだろうと。

2023年の3月、祖母が亡くなってから、早いもので20年が経ちます。桜の季節が近づき、若き日の祖母と話してみたかった、その人生についてもっと聞きたかったなと思いを馳せるのです。

(取材・文=有馬ゆえ、写真=川しまゆうこ、編集=若田悠希)

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