「真っ黒焦げになった死体が重なっていた」
東京大空襲の翌日、焼け野原を歩いた14歳の少年は、東京に「地獄」を見た。
79年経った今でも、脳裏から離れない東京の焼け野原の光景だ。
終戦記念日を前に東京大空襲・戦災資料センター(東京都江東区)で8月14日、小林暢夫さん(94)が第二次世界大戦中の経験を、親子連れ約80人に向けて語った。
小林さんが育ったのは、現在の東京都文京区にあたる本郷区根津片町。
初めて地元を空襲が襲ったのは、終戦の年の1月。自宅から徒歩5分ほどの距離にあった根津神社に焼夷弾が投下された。
若い男性たちは出兵して地元に残っておらず、中学生だった小林さんも梯子をかけて屋根に登り、消火活動に当たった。
「北風で燃え上がった火の粉が降ってくる。極寒の1月、氷が張ってしまっている防火用水の氷を叩き割って、必死に水をかけました。
日本の木造家屋を効率よく燃やすようにと米軍が作ったのが焼夷弾でした。水なんてちょっとかけても消えるはずない。けれど一生懸命やりました」
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今も、人差し指を見るたびに思い出す「戦争」
陸軍の軍人が中学校に来て、軍事教練を実施した。ズボンの裾の上などに着用するゲートルの巻き方が下手だったり、歩いていて解けてきたりしても、すぐにビンタをくらった。
「三八式歩兵銃」を持って訓練をしたが、150センチ足らずの中学生の小林さんの身長より銃の方が長く、重かった。
「疑問なんて持たない。銃を持って、訓練することが当たり前だと思っていた」
中学2年生からは、学徒動員で上陸用舟艇などをつくる砂町の軍需工場へ。その時に負った怪我は、今でも小林さんの右手の人差し指に残っている。
上陸用舟艇の試運転の際に右手の人差し指を挟まれ、指先は骨だけが残った。血が吹き出たが、怖くて「痛い」とも言えない。病院へ行ったが、当時の病院には既に十分な治療ができる余力もなく、消毒液を塗って包帯が巻かれただけだった。
「今でも、指を見ると戦争を思い出してしまう」
指先が変形してしまった人差し指を見て、小林さんはそう話す。
大空襲の翌日、焼け野原には黒焦げの死体の山
東京大空襲の夜、根津の自宅から真っ赤に燃える下町の空を見た。
翌日、地下鉄が動いていたために浅草線で日本橋へ行き、茅場町から砂町、門前仲町、錦糸町、亀戸と友人たちと渡り歩いた。
そこで目にした衝撃的な光景は、今でも小林さんの脳裏に焼きついている。
「地下鉄の日本橋の駅から地上に上がったら、もうそこは焼け野原で、真っ黒焦げになった死体がたくさんありました。心臓が止まるような思いでした」
死体が山積みになっている中を歩いていると、うつ伏せになっている死体をたくさん見た。
「うつ伏せで倒れている死体の下には、真っ黒焦げになった赤ちゃんがいました。赤ちゃんに覆い被さって守りながら死んだ母親の死体をたくさん見ました。その光景が強烈に印象に残っています。
地べたはまだ熱いんです。焼け野原を歩きながら、友達たちはどうしたんだろう、黒焦げの死体の山の中に友達がいるんじゃないかとも思いました」
水を求めて、防火用水の中や外で死んだ人たち。川に浮く死体。手足があるもの、ないもの。
悲惨な光景を目の当たりにし、「アメリカは、こんなことをやったのか」と怒りのような感情が込み上げた。
「3月10日だけで10万人も焼き殺された。みんな好き好んで戦争をやったわけじゃない。国がやった戦争に、国の命令で巻き込まれた。兵隊には大事な夫や息子を取られ、空襲では一般人が殺された」
焼け野原に積み重なる死体に加え、小林さんがショックを受けたのは、身元が分からない死体の埋葬のされ方だった。
「歩いていると、既に死体の『整理』が始まっていました。トラックの荷台に死体を放り投げて、大きな穴を掘ってそこに投げ入れて埋めていたんです。
人間の死体を『放り投げる』だとか、『投げ捨てる』ということは普通できないはず。でも、そんな状態が普通になってしまっていた」
小林さんが目撃したのは、空襲直後の「仮埋葬」だ。
東京大空襲では約10万5400人が犠牲になり、その莫大な死者数ゆえに通常の埋葬ができず、大きな公園や寺院の境内などに穴を掘って大規模な仮埋葬をした。
東京大空襲・戦災資料センターによると、その数、約9万4800人。
うち約8000人のみは名前が分かり個別に埋葬されたが、それ以外は合葬された。仮埋葬された遺体は3〜5年後に掘り返して火葬し、遺骨は東京都慰霊堂に安置された。
仮埋葬をした3月はまだ気温が低かったが、夏になって気温が上がってくると腐敗臭が漂った。
小林さんは「土の下から腐ったような臭いが漏れて、町中に漂った。すごい臭いだった」と振り返る。
「もう空襲は来ない」玉音放送を聞いて「ホッとした」
8月15日、皆でラジオを囲んで玉音放送を聞いた。
「負けたんだけど、もう空襲は来ないと思うとホッとしました」
「悔しさはなかった。『やっぱりそうだろうな』という思いでした。軍国少年だったけど、戦争中の国のやり方について、『こんなので大丈夫なのか』と疑問が湧いていたから、『やっぱり』という思いでした」
戦争は終わったが、「これからどうなるんだろう。どうやって食べていけばいいのか」と、その後も続く飢えとの闘いについて考えた。
小林さんが戦争を経験してから79年。今も世界各地で続く戦争に「どうしてこんなことが起こってしまうのか」と心を痛めている。
ウクライナやパレスチナで幼い子どもを含む一般市民が無差別に殺されているニュースを目にするたびに、「どうにかして止めなければいけないのに」と苦しく思う。
同日、小林さんの戦争証言を聞いたのは、小中学生の子どもたちとその保護者を中心とする約80人。
小林さんは、戦争について学び続けて平和を継続し、投票権を行使して、自分たちの未来を自分たちの手で選んでいってほしいと呼びかけた。
語り継ぐ戦争。 東京大空襲・戦災資料センター、大きな役割
今回、小林さんが戦争の経験を語った東京大空襲・戦災資料センターは、2002年に民間募金によって設立された平和博物館だ。
東京大空襲で甚大な被害を受けた江東区北砂に位置する。
東京大空襲について専門に説明する公立の博物館がない中、民立民営で空襲の被害や生存者の証言を伝えている。
センターは1、2階に当時の写真やパネル、生存者の証言などが展示され、2階のモニターでは証言映像などの上映も行なっている。
小林さんのような東京空襲の経験者が「語り部」として活動しており、東京大空襲があった3月10日前後や、終戦記念日の8月15日前後には一般向けにも、センターで直接、語り部の話を聞く会が開かれている。
戦後79年。戦争を経験した人たちが少なくなっていく中、センターは証言を映像や書籍などで残す活動に力をいれている。
都や国が東京空襲についての公立博物館を設立しない中で、センターの存在意義は大きく、東京空襲や第二次世界大戦を語り継ぐ上で重要な役割を果たしている。
(取材・文=冨田すみれ子)
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真っ黒焦げになった死体の山。母に守られながらも死んだ赤ちゃん。14歳の少年が見た、東京大空襲後の「地獄」