自分の姉妹にこんな提案をすることが許される状況というのは、おそらく他にないだろう。
一緒に育った姉妹であるキムのベッド脇の椅子に座っていた私は、残念ながら苦悩に満ちたその提案をする立場にいた。
私は平静を装いながら、「今日は希少・難治性疾患の日だよ」とキムに伝えた。
キムは目を開け、横目で私を見た。私が演技が下手だということを、ふたりとも知っていた。
それでも私は平静を装った。
「今年はうるう年だって知ってた?今日は2月29日だよ」
そう言いながらも、キムは今日がいつかをわかっていないだろうと私は思った。オピオイド鎮痛薬の影響で、キムは日付を認識できない状態だった。
私は、別の質問をしてみた。
「あなたの子どもたちが、この次2月29日に目覚めるのが今から4年後だなんて、興味深いと思わない?」
私は、言葉の裏に隠されていた質問の意図をばかばかしく感じ始めていたので、最後の発言がようやくキムの注意を引いたことに気づいてほっとした。
キムは目を細めて、私の顔を見つめた。私はその目を見つめ返して、単に2月29日についての興味深い事実を伝えたかっただけだと思わせるような表情をつくろうとした。
しかし、キムは次の2月29日がくるまで4年かかるという言葉の本当の理由を知っていた。
キムは「死ぬなら、今日がいいって言っている?」と淡々とした声で尋ねた。
「まさか!」と私は気分を害したふりをした。だけどふたりとも、それが質問の意図だと知っていた。
私は少し間を置いてから、静かにこう付け加えた。
「だけど……それはあなたの物語にとって、大きな結末になるでしょうね」
その日、もう一人の姉妹のキャスリーンが「2月29日が希少・難治性疾患の日だ」と教えてくれた時、私たちふたりはキムの最後にふさわしい日だと考えた。
当然、私たち姉妹はキムに死んで欲しいと望んでいたわけではない。生き続けてほしかった。
しかし、キムの死は「もし」ではなく「いつ」の問題だった。私たちは、ホスピスで話をしていた。
キムは、1000万人に1人と言われている盲腸がんと胃がんの併発を患っていただけではなく、卵巣には平均生存率が3〜10カ月とされるクルーケンベルグ腫瘍というがんもあった。
しかし「平均」という言葉でキムを表現することはできなかった。41歳でがんと診断されてから1カ月後に、キムはHIPEC(術中腹腔内温熱化学療法)を受けた。
医師たちはキムの腹部を開いて、なくても生存できる臓器をすべて取り除き、その後数時間、体内に抗がん剤を投与した。
大変な手術だったが、キムは揺るぎない強さを持ち続け、1カ月後には長男を幼稚園に歩いて送れるまでに回復した。
その1年後には次男を幼稚園に送り出し、ふたりの子どもが中学生になるのを見届けた。
とはいえ、なんの障害もなかったわけではない。手術による寛解(かんかい)から6年後、がんが再発した。
キムと夫は子どもたちを私に預け、世界有数のがん専門病院の医師たちと会うためにテキサスに向かった。
一週間の予定で出かけたふたりだったが、戻ったのは翌朝だった。診察が始まってから数分で、医師からできることはないと伝えられたのだ。
キムのような非常に稀な癌の研究は行われていなかった。研究をしても、ほんの一握りの人しか利益をもたらさないからだ。
私は、これがキムにとってのターニングポイントのひとつになったと思っている。希望とは非常に力強いものであるからこそ、奪われることで受けるダメージも大きい。
キムの症状に対する治療法がなかったため、医師たちは既存の化学療法からいくつかの選択肢を選んだ。
そのうちの一つが、骨の中にできた腫瘍の成長を奇跡的に止めてほしいと期待していたが、治療の効果は得られず、キムを弱らせるだけだった。
オピオイド鎮痛薬を定期的に投与する注入ポンプの音で、私の意識はキムの病室に戻った。
鎮痛剤の投与を続け、意識が混濁しているキムが、2月29日という言葉の裏に隠された意味を理解したことに驚いた。
この日の前日、キムはなぜかベッドから起き上がり、スーツケースに荷物を詰め始めて、痛みがなくなったから家に帰れると言い始めた。
家には帰れないこととその理由の説明する私たちの会話は、これまでに経験したことがないほど難しいものになった。
自分たちがホスピスにいる理由を思い出した瞬間のキムの表情を、私は忘れられない。
キムは「そうか、私は死ぬためにここにいるんだ」と静かに言い、荷造りを止めた。
キムが苦しそうに咳をした。私は、ベッド脇のテーブルに置かれた水のカップに入っていた持ち手のついたスポンジで、キムの唇を湿らせた。
私やキャスリーン、キムの夫、私たちの両親は、近づく死がもたらす避けられない不快感を食い止めるための最大限の努力をしていたが、唇はひび割れ始めていた。
キムは、薄く氷水を塗られた唇を動かし、目を閉じて、長く、しかし浅い呼吸をした。
私は椅子にもたれかかった。キムに意識のある時間はますます短くなり、頻度も減っていった。
彼女がいつ、再び目を覚ますかわからなかったが、私は自分の提案に打ちのめされ、恥じた。
自分たちが、まだホスピスの部屋にいることにも苛立ちを覚えた。キムの主治医は、輸血を止めれば、2、3日で亡くなるだろうと私たちに伝えていた。
キムの主治医が選んだ化学療法は、がんの成長を止められなかっただけでなく、そのうちの一つが引き金となり、身体が血液細胞を攻撃するようになっていた。
医療チームは、さまざまな方法でこの問題を解決しようとした。
1940年代の映画に出てくる、常軌を逸した科学者の研究室にあるような機械にキムをつなげ、体内の血液を全部入れ替えることまでした。しかし治療は何一つ効果を発揮せず、最終的にキムは生き続けるために毎日輸血を必要とした。
私たち家族はこの時、アメリカの血液供給の4分の1が、がん患者のために使われていることを知った。
治療を続ける体力を保つために、がん患者が献血に頼っているという事実が広く知られていないことを、私は不思議に思った。
40回目の輸血を受けた頃、キムは医師たちに「心配しないで、いつか返します」と伝えた。
医師らはキムが冗談を言っていると思ったが、そうではなかった。私たちは献血イベントを計画していて、キムは約束を果たしたいと望んでいた。
毎日の輸血はキムを生かしてはいたが、疲労を取り除いたり、痛みを和らげる効果はなかった。キムの身体は、これ以上の治療に耐えられないところまできていた。
キムは輸血を中止する決断をした。絶望的な、しかし理解できる決定だった。
私たちに残されたできることは、キムがホスピスでできる限り苦痛なく、快適に過ごせるようにすることだけだった。
献血イベントに参加できなくなったことに落胆したキムは、お通夜やお葬式の代わりに、献血イベントに参加するようみんなにお願いしてほしいと私たちに頼んだ。
イベントは、1週間前の時点ですでに300人以上の申し込みがあった。私たち家族はキムの看護をしながら、イベントについての新聞やテレビの取材を受けた。キムが望んだ献血運動が、ついに正式にスタートするのだ。
私たちはこの運動を「A Pint For Kim(キムのための1パイント)」と名付けた。謙虚なキムはすぐに自分の名前を削除するよう求めたが、私たちは拒否した。
死に際にいる人の願いを拒否するのは良いことではないように思えるかもしれないが、何百人もの人々が登録してくれたたった一つの理由を私たちはわかっていた。
みんな、キムのために参加してくれたのだ。キムの他者への接し方や生き方が、人々を動かしたのだ。
8年間の闘病中、私たちはキムが不平を言ったり、怒ったり、「なぜ私が?」と言うのを一度も聞いたことがなかった。たった一度も。
キムが亡くなった後、私がキムのナイトテーブルから最初に見つけたものは日記で、最初のページに彼女の筆跡でで2つの文章が書かれていた。
「私たちは自分のためにここにいるのではない。他人を愛し、他の人につくすためにここにいる」
キムの人生の終わりの頃、私はしょっちゅうキムが置かれた状況に怒っていた。それを考えると、キムが自分の状況に腹を立てることがないのは私にとって驚きだった。
医師たちに、輸血を止めればそれ以上は持たないだろうと言われた2〜3日を過ぎても、キムは歩行器を持ってホスピスの中を散歩し、大好きなファストフードを買ってきてと私たちに頼んだ。
隣の部屋のチームメイトを訪ねて来ていた元大学野球部員に声をかけてみたらと私に勧めることさえあった。
キムは間も無く死ぬ人のようには見えなかった。現在の状況が残酷ないたずらのように思え、私はますます耐えられなくなっていった。
答えを求めていた私たちは、ホスピスの医師に、なぜこんなに時間がかかるのか尋ねた。医師は、骨にできたわずかな腫瘍と自分の血液細胞への攻撃を除けば、キムは健康な49歳の女性だと説明してくれた。それ以外の部分は強かった。気持ちも、肺も、深い愛に満ちた心も。
医師は、余命についての誤った情報を謝罪した。だけど今になってみれば、余命より長く生きることを事前に知っていたとしても、それで楽になっていたのか、苦しめられたのかはわからない。
私がわかっていたのは、世界中の誰よりも親しかった人が、2週間近くかけて淡々と亡くなっていくのを見るというのは、言葉では表せないほど絶望的で、胸が張り裂けそうだということだ。
だから、おそらく私の一部は、あの2月29日にキムに死んでほしいと感じたのだろう。彼女がゆっくりと私たちのもとを去っていくのを目の当たりにする苦痛に、耐えられなくなっていたのだ。
私はキムに目を向けた。キムは 『NOPE(お断り)』と書かれたシャツを着ていた。終わりが近づいている姉妹の意志の強さに、私は思わず微笑んだ。
キムはまた長く息を吸い込み、今度は息を吐く代わりに、言葉を発した。
「OK」
「何がOKなの?」と私は尋ねた。
「OK」彼女は目を閉じたまま言った。「今日、死んでみようと思う」
私は胸全体が締め付けられ、突然呼吸ができなくなった。
ホスピスにいた1週間、すぐそばで過ごした病院の数カ月、闘病生活を続けた8年間、私はどうにかキムのために強くいられた。
しかし、「今日、死んでみようと思う」という柔らかい言葉を聞いて、私の強さは完全に崩れてしまった。
泣くのを堪えているのを気づかれないよう、私は口と鼻を手で押さえ、キムの手をしっかりと握りしめた。
自分を取り戻す頃には、キムはまた眠っていた。私はそっとキムの部屋を抜け出し、家族が仮住まいにしていた来客用のラウンジへと歩いた。
私たちはこのラウンジで、他の家族がホスピスに出入りするのを眺めながら、キムに死が訪れるまでの苦しく長いプロセスが終わるのを待っていた。
私はキャスリーンを見つけた。キャスリーンは私の表情から、キムとの会話がどうなったかを知ろうとしていた。
「やってみるって言った」 と私は言った。
キャスリーンはうなずき、私たちは一緒にキムの部屋に戻った。キムが一人にならないようにした。
キャスリーンはキムのベッドの横に座り、私はパジャマに着替えて寝るために顔を洗った。
部屋に戻ると、私たちはキムの寝顔を見ながら黙って座っていた。この4カ月間、私たちはこうやってキムの寝顔を見ることに慣れていた。
私は時間をチェックし続け、午後11時57分になった時には真夜中になるまで携帯電話から目を離さなかった。
真夜中を過ぎた時に、私はキャスリーンの注意を引くため、そっと咳払いして、携帯電話を掲げた。
「3月1日」と私はささやいた。
私たちはほんの少しの失望感を共有した。私は肩をすくめ、少しでも眠れるようにと椅子にもたれかかった。
この時、キムと交わした2月29日についての会話が、私たちの最後のやりとりになるとは思ってもみなかった。
翌朝、キムは意識を保つのがやっとだった。
3月2日には、もう目を覚まさなかった。
そして3月3日、キムは私たちのもとを去った。その死は40年早すぎ、3日遅かった。
その5日後に、500人以上の人々がキムを追悼し、献血するために集まった。その日、イリノイ州で1日のうちに1カ所で行われた献血として、最高記録を打ち立てた。
それ以来毎年、「キムのための1パイント」は、この記録を更新し続けている。
筆者:クリスティン・ジョー・ベネディクはアメリカ・イリノイ州在住の映画監督、劇作家。エルムハースト大学でライティングとストーリーテリングを教え、デジタル・メディア・プログラムを運営。いとこのキャロラインらと「キムのための1パイント」を運営し、『The Base Chicago』や『Versiti Blood Centers』など複数の非営利団体で顧問委員を務めている。
ハフポストUS版の寄稿を翻訳しました。
オリジナルサイトで読む : ハフィントンポスト
愛する姉妹に2月29日に死ぬことを勧めた理由。返ってきた答えに、私の心は引き裂かれた