(※この記事には、航空機の墜落現場の写真が含まれます)
520人が犠牲になった1985年の日本航空のジャンボ機墜落事故から8月12日で38年を迎える。
単独機としては、航空史上最悪の犠牲者数となった事故。あの日、何が起きたのか。資料と写真で振り返る。
1985年8月12日午後6時12分。
日本航空123便(ボーイング式747SR-100型JA8119)が、東京・羽田空港から大阪・伊丹空港に向かって離陸した。
伊豆半島南部の東岸上空に差し掛かる直前の午後6時25分ごろ、「ドーン」という音とともに機体に異常事態が発生し、操縦不能になった。同56分、群馬県多野郡上野村山中(通称・御巣鷹の尾根)に墜落した。
機内には、乗客509人と乗組員15人の計524人が搭乗していた。乳児12人を含む520人(乗客505人、乗組員15人)が死亡、乗客4人が重傷を負った。一家全員が亡くなったのは22世帯に上る。
日没を迎えたため墜落地点の特定に手間取り、場所がはっきり特定されたのは翌13日になってからだった。
犠牲者の中には、歌手の坂本九さん、阪神タイガース球団社長の中埜肇(なかの・はじむ)さん、ハウス食品工業社長の浦上郁夫さん、元宝塚歌劇団の娘役の北原遥子さんといった著名人もいた。
単独機として航空史上最悪の犠牲者を出した事故は、なぜ起きたのか。
墜落した機体は、事故の7年前の1978年6月2日、伊丹空港に着陸する際に胴体尾部を滑走路に打ち付ける「尻もち事故」を起こしていた。この際、後部圧力隔壁が損傷したため、メーカーであるアメリカ・ボーイング社が機体を修理していた。
当時の運輸省航空事故調査委員会は1987年、事故調査報告書を公表した。その中で墜落事故の原因について、こう指摘した。
「本事故は、事故機の後部圧力隔壁が損壊し、引き続いて尾部胴体・垂直尾翼・操縦系統の損壊が生じ、飛行性の低下と主操縦機能の喪失をきたしたために生じたものと推定される」
その上で、後部圧力隔壁の不適切な修理が行われたこと、隔壁の疲労亀裂が点検整備の段階でも発見できなかったことも事故原因に関与しているとみられるとした。
修理ミスをおかしたボーイング社の担当者を特定できないまま、群馬県警は、業務上過失致死傷容疑で日本航空や運輸省の関係者、氏名不詳のボーイング社の修理スタッフら計20人を書類送検した。前橋地検は1989年11月、嫌疑不十分のため全員を不起訴とした。
事故調査報告書には専門用語が多く含まれ、難解でわかりにくいものだった。そのため、遺族らでつくる「8・12連絡会」は2010年、運輸安全委員会に対して、遺族たちが抱いていた疑問をまとめて提出。事故原因などを説明する「解説書」が翌11年に作成・公開された。
ノンフィクション作家の柳田邦男さんは、解説書の意義を次のようにつづった。
「安全な社会を作る仕事である事故調査の中で、被害者・遺族ならではの気づきや被害者・遺族の理解と納得感を視野に入れることが重要であることを具体的に示す“教科書”的な意味を持つ」
事故の教訓を風化させず、安全運航の重要性を再確認する場になるように――。
JALグループは2006年、安全運航を提供するための原点となるよう、「安全啓発センター」を開設した。後部圧力隔壁や胴体などの残存機体や、コックピット・ボイスレコーダーも展示している。墜落前、乗客たちが機内で書き残した遺書や、事故を報じた当時の新聞記事も見ることができる。
センターはJALグループ社員の研修施設として使われ、一般の見学も受け入れている。見学は事前申し込みが必要。
「ママ こんな事になるとは残念だ
さようなら
子供達の事をよろしくたのむ
今6時半だ
飛行機はまわりながら
急速に降下中だ
本当に今迄は幸せな人生だったと感謝している」
(日航機墜落事故の犠牲者が、機内で書き残した遺書より抜粋)
事故から3年。発生後に生まれ、事故自体を知らない若い世代も増えている。
ストリートビューを作成した山本昌由(まさよし)さんは、出張帰りだった父謙二さんを事故で亡くした。
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日航ジャンボ機墜落から38年。当時、何が起きたのか。航空史上最悪の事故を振り返る