「あまりにも便利すぎる世の中ですが、僕がこのマシンを通じて提供したいのは、抹茶で自分をととのえる時間です」
洗練された抹茶マシンを前にして、World Matcha代表の塚田英次郎さんは笑う。
「DAKARA」「特茶」の商品開発や、「伊右衛門」ブランドの成長など、大手飲料メーカー、サントリーが誇るペットボトル飲料のヒットや成長を支えてきた人物だ。
東京大学を卒業後、サントリーに入社、新商品開発部に配属、スタンフォード大学へのMBA留学、アメリカでの新規事業開発。エリート街道を歩んできた彼は、なぜサントリーを辞めたのか。
そして、なぜ抹茶マシン「空禅抹茶」を開発したのか。
これまでの日本や海外でのキャリアや転機とともに、自分らしい働きかたや、「抹茶」を通じて実現したい未来への展望を聞いた。
おいしい「抹茶」で作りたいサステナブルな社会
インタビューの冒頭、塚田さんにいまの仕事を訊ねると「“抹茶”を通じてサステナブルな社会を作ろうとしている」と話してくれた。
「いまの仕事は、世界においしい抹茶を通じて、健康的な生活、よりバランスの取れた生活を皆さんにしていただきたいと思っています。その結果として、世の中がより循環して、サステナブルになっていったら良いなと。抹茶を通じて、そういった事業をやっています」
塚田さんが2019年に独立して、一から開発したのが、抹茶マシン「空禅抹茶」だ。
家やオフィスで、エスプレッソマシンでコーヒーを淹れるように、海外の人が抹茶を日常的に飲めないだろうか?
そんな思いから開発されたこのマシンは、オーガニックの碾茶(てんちゃ、緑茶の一種で、ひいて抹茶にするための茶)を臼でひき、フレッシュな水で、うまみがある水出しの抹茶をつくることができる。
このマシンがあれば、世界中でおいしい抹茶を飲んでもらうことができるのだ。
円窓をイメージしたデザインからは、茶道の思想も感じられる。塚田さんは、マシンを通じて、抹茶だけではなく、五感を研ぎ澄ます “自分をととのえる時間”も届けようとしている。
「あまりにも便利すぎる世の中ですが、僕がこのマシンを通じて提供したいのは、抹茶で自分をととのえる時間です。五感を磨くじゃないですけど、忙しすぎるなかで、5分、10分でもいいから、意図のある休憩、時間を止めて注意を払う。そんな儀式的な習慣は、五感を磨いて自分の良いコンディションを整える、そのきっかけとなると思っています」
新卒で商品開発に配属され、ヒット商品を連発
海外に、日本の抹茶を広める。
そのビジョンと事業プランは突然生まれたわけではない。塚田さんの経験とスキル、課題意識が重なったからこそ生まれたのだ。
ここで商品開発や留学、新規事業を経験した塚田さんのキャリアをふり返ろう。
東京大学を卒業後、1999年に入社したサントリーでは、新卒ながら新商品開発の部署に配属される。当時の活気あふれる飲料市場で、新しい飲料開発と向き合った。
そして、入社2年目に手がけた清涼飲料水「DAKARA」が大ヒット。そう書くと順風満帆に見えるが、自分が「やるべき」と思ったことは、会社を説得して、挑戦の機会を作ってきたという。
塚田さんはそんな自分の強みに「執着心の強さ」を挙げた。
「『DAKARA』の次の年に、(グレープフルーツ果実飲料)『Gokuri』(ゴクリ)を開発したんです。上からは『やらんでいい』と言われましたが、『チャンスをくれ』と」
「当時、新しいボトル缶が開発されたんですが、年間の供給量は決まっていました。僕は『ボトル缶に最適な新商品を作るべきだ』といったんですけど、会社は売れるか分からない新ブランドに新容器を使うのはリスクが高いから、前年に出した『DAKARA』の容器展開としてやろうと」
「僕は、飲み口の広くなったボトル缶で、喉ごしを体感できる果汁飲料をやろうとした。自分の仮説を証明したかったし、『一部でいいから、せめてテスト販売させて欲しい』という話をして、『その程度だったら良いよ』といってもらえたんです」
静岡での「Gokuri」テスト販売初日、コンビニの棚から商品が減っているのが一目でわかった。外で若い子たちが飲んでいるのも目撃した。翌日、会社に戻って販売データを見ると、「めちゃめちゃ売れていた」。
翌年、「Gokuri」の全国発売が決定。いまでもスーパで売れる定番商品のひとつになった。
スタンフォード大へのMBA留学で学んだ「起業」
商品開発で実績を出した塚田さんは2004〜2006年、アメリカ・スタンフォード大学に社費でMBA留学を果たす。留学は「自分がどういう人間なのかをふり返る良い機会になった」と話す。
スタンフォードには、起業家や挑戦する人をリスペクトして支えようとする土壌があった。学生たちにも「君たちは、起業していく人材なんだから、安定を求めて企業で働くな」と意識の変革を促した。
「そういう“洗脳”と、そのために必要な最低限の知識と、卒業後にも効いてくる人脈が得られる。本当にトランスフォーメーショナルな場でしたね」
「起業」に対するイメージが、大きく変わったのもこの頃だ。
「それまでの僕にとって起業家というのは、それこそ多額の借金をして、何だったら生命保険をかけて、博打を打つみたいな感じだったんです。でも、スタンフォードでは、『起業しなさい』といわれますが、『自分の金でやるな』とも教えられるんです」
「どういう意味かというと、『ほとんどのスタートアップは失敗する。でも失敗しても人生は続く。生きていかないといけないから、自分の金でやっちゃダメだよ』ということ」
「要は、人が『お前の話は面白いから投資させてくれ』という状態になっていない限り、成功する確率は低い。自分のお金でやるのは一番簡単なんです。でも人が「それいいじゃん!」というレベルに達していないのであれば、まだプランが甘い。もう少し準備を進めて、デザインやプロトタイプを作るとか、そういうことが大事ですよね」
社費で留学させてもらって、サントリーに帰ることは決まっている。それでも、塚田さんはなんとなく「自分もいつか起業できるかもしれないな」と思うようになったという。
お茶事業のアメリカ進出と撤退、「特茶」の大ヒット
帰国後は、アメリカの市場におけるお茶事業の展開を仕掛けるが、直後に起きたリーマンショックの影響で苦い撤退を経験。塚田さんは「商品が売れたか売れないかも分かる前だったので、ものすごく悔しかったですね」とふり返る。
日本に戻った塚田さんは、「烏龍茶」や「伊右衛門」といった主力商品を手がけ、2013年には、「伊右衛門 特茶」(特定保健用食品)の開発を担い、大ヒット商品へと導いた。
「『特茶』がヒットしたときに、もうこれでいいのかなと思えたんですね」と塚田さんは明かす。スタンフォード留学から7年が経っていた。
「サントリーに機会をいただいてスタンフォードに行って、恩返しをしないと先のことは考えられないと思っていましたが、これで十分に返したのではないかなと。2014年に『特茶』を伸ばすプランも全部準備して、自分のなかで達成感がありました」
ペットボトルのお茶と向き合うなかで、忘れられない経験もした。
「2014年に、プロは『伊右衛門』などのお茶の味わい、各社の違いをどう表現するのか聞きたくて、ある有名ソムリエに、急須で淹れたお茶やペットボトルのお茶など複数の緑茶を一度に並べて全部飲んでいただいたんですけど、国内のペットボトルのお茶3種類に関しては、『どれも一緒ですね』という言葉が返ってきたんですよ」
「僕は、すごく衝撃だったんですよ」
「リーフのお茶は、色々な味のポートフォリオがあるし、彼が扱うワインは、白赤ごと品種ごとに、ワインのグラスの形も変えて、提供する温度も変える。本来はお茶もリーフだったらすごく違いがあるのに、ペットボトルは全部同じになってしまう。ハンマーで殴られたような感じで、いかにペットのお茶の味は狭いところでやっていたのかと気づかされました」
「抹茶は粉」は先入観、抹茶マシンが生まれるまで
塚田さんは、ペットボトル飲料の枠を超えて、海外においしいお茶を届けることを考え始める。2014年当時、アメリカ・ニューヨークで抹茶のカフェが注目を集めはじめていた。
「現地では、まだまだ抹茶に対する正しい理解がされていない。エデュケーションも含めて体験する場、カフェが必要かなと。アメリカ人や中国人ではなく、日本人がちゃんと前に出て、日本のオーセンティックな抹茶を提案するようなブランドをまずは作ろうと」
新規事業を着想してから3年、全力で奔走したカフェ「STONEMILL MATCHA(ストーンミル・マッチャ)」がサンフランシスコでオープン。日米の商習慣などの違いにより時間はかかったが、現地で大きな話題を呼んだという。
「僕のなかで『これで大丈夫だ』と思える反響で、まず1号店が出て、その次のプランをようやく実行に移せるなというときに、大企業なので、僕を応援してくれた当時の上司から新しい上司に変わって……突然、『会社としてやり続けることに値しない』と判断されて、『日本で違うことをやりなさい』と解任されてしまったんです」
人事異動で上司が代わり、心血を注いできた新規事業は、「中止」が決まった。
会社に残るのか、独立するのか
塚田さんは、失意のなか帰国。当時は、Apple共同創業者の故スティーブ・ジョブズ氏のスタンフォード大での講演をくり返し聞いて、なんとか自分をふるい立たせようとしたという。
転機となったのは、大学時代の親友・八田大樹さんとの再会だ。
ペットボトル飲料やアメリカでの抹茶カフェを通じて長年お茶と向き合ってきたが、茶葉の調達については製茶メーカーを通すため、直接茶農家と交流する機会はなかった塚田さん。八田さんの故郷でお茶どころ福岡・八女の茶農家やお茶屋を訪ね、産地の現実を目の当たりにする。
日本ではペットボトル飲料の普及とともに、茶農家にとって一番の収入源だったうまみの詰まった一番茶のリーフ(茶葉)の価格は、ここ30年ほどで約半分にまで下がっていた。急須で淹れるお茶の需要がなくなり、多くの農家が「このままでは、いよいよやっていけない」「子どもにも継がせられない」「茶園を閉じよう」と漏らす危機的状況に陥っていたのだ。
塚田さんは、悩み、考えた。
自分は、本当に何をやりたいのか。
会社員を続けるのか、辞めて独立するのか。
「自分は、アメリカで日本の良いお茶を広めることを頑張って、アメリカの人たちは頑張る人を応援してくれて、直接的に言葉で感謝してくれて。お世辞かもしれないけど、『あなたがやっていることはすばらしいいことだよ』と言ってもらえた。それをやっている自分がすごく好きだったなと」
「やはり自分は、『日本の抹茶の価値を、海外に伝えたい』と心から思えた。サントリーではできなかったけど、自分なりに違う方法で挑戦してもいいんじゃないかと思えたんです」
塚田さんは2019年、43歳のときにWorld Machaを創業。八田さんは共同創業者になった。(後編に続く)
オリジナルサイトで読む : ハフィントンポスト
「特茶」「DAKARA」を開発。サントリーを辞めて、世界に“抹茶”を広めると決めた理由