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左耳にピアスをつけ、長髪を縛ったオシャレな髪型。ひげをたくわえ、日に焼けた精かんな表情でサーファーのような雰囲気を醸し出す。
あん摩マッサージ指圧師の浅野菊郎さん(56)は中途視覚障害者だ。
「東浦和マッサージ治療院」に2021年10月から勤務し、3カ月後の今年1月から同店のあん摩マッサージ師の中で売り上げトップに。目下11カ月連続1番人気で、平日の午前9時から午後4時までの営業時間は、連日予約で全て埋まっている。
同店の北川貢四郎統括責任者(70)は、浅野さんのある行動に驚いたという。
「勤務して間もない時に、白杖と店のチラシを手に近所の会社や店に営業へ出掛けたんです。こちらが指示したわけではない。今まで多くのマッサージ師に携わってきましたが、こんな先生は見たことがありません。勉強熱心で、施術したお客様のデータを頭に叩き込んでいます。施術だけでなく、お客様への気配り、会話が上手で総合力が高い。『浅野さんの施術を受けたい』とキャンセル待ちのお客さんが常に7、8人いて、なかなか予約を取れません。キャリアは浅いですが、プロ意識が高いベテランの先生です」
ネオンが妙に眩しい。感じた異変
浅野さんは中途失明する以前、人気美容師だった。
19歳の時に山野愛子美容室の銀座店に勤務し、23歳で新宿店の店長に抜擢。午前8時に出勤し、開店前にスタッフの練習をサポートして、営業時間を終えると、再びスタッフの指導に。シャンプー、パーマなどのワインディング、ブローの練習、ヘアセットアップなど個々のスタッフの課題に合わせて助言、実技指導を行い、売り上げの管理も行う。店を出るのは午後11時を過ぎ、終電に乗ることも珍しくなかった。
当時は1990年代半ばで、「カリスマ美容師」が大ブーム。浅野さんもドラマ「遠山金四郎美容室」の美容監修のメンバーとして携わったほか、人気美容師としてテレビ出演したことも。
常連の顧客の中には人気俳優、金メダルの女性アスリートがいた。新宿店に7年間勤務後、お台場店、赤坂店、銀座店、渋谷店に赴任し、37歳の時に銀座本店の店長に。55店舗の総店長となった。
多忙な毎日だったが、充実していた。私生活でも美容師の妻・智恵さんと結婚して3人の子宝に恵まれる。だが、この時に目に異変が生じていた。
「夜のネオンが妙にまぶしいなって感じるようになって。転んだし、人によくぶつかったりしていたので、これはおかしいと…」
大学病院で検査を受けたところ、医師から「網膜色素変性症」と診断を告げられる。
「視力は持って10年でしょう」
網膜色素変性症は、網膜に異常をきたす遺伝性、進行性の病気。個人差があり、視力を保つ例もあるが、目がほとんど見えなくなる人も多い。
聞き慣れない病名がピンとこない。だが、失明する恐怖心が頭をよぎると、目の前が真っ暗になった。この先どうすればいいのか。
思い浮かんだのは、父・昭敏さんの言葉だった。ガンのため病院で入院していた際、『おまえ、自分の店をやんねえのか』と聞かれた。『やらないよ』と返答したが、昭敏さんが他界した際に心のどこかで引っかかっていた。
「網膜色素変性症」と診断され、「後悔しないように生きよう」と、40歳の時に独立することを決断した。
家族以外に誰にも言えなかった
浅野さんは、埼玉の与野駅から徒歩1分の場所に、美容院「ヘアーマイスターSeptenS」を開業する。浅野さんが独立したことを知り、山野愛子美容室に在籍していた時の顧客が多く訪れた。
地元住民にも愛された。浅野さんが当時の美容師では珍しかった生え癖を治す高度なカット技術「ヘアリセッター」の資格を持っていたことも人気を呼び、連日盛況だった。
「人生で一番楽しかった」と振り返る日々。
だが、目の病気は進行していく。
「焦点が定まらなくなるんです。例えば、歩いている特に信号がパッと見つからず探さなきゃいけない。視野が欠けだすと、今度は見つからなくなり、色も分からなくなる。徐々に進行が進んで、この先どうなるんだろうと…」
仕事にも支障をきたすようになる。指先の感覚を研ぎ澄ませていたが、カットの長さが微妙にずれるように。視力の低下を利用客にさとられることが怖かった。
命を落とす危機に何度も見舞われた。見える視界が狭くなり、足を踏み外して駅のホームから2回転落。トラックにひかれ、5メートル以上吹き飛ばされたことも。肩甲骨、肋骨、上腕を骨折し、頭を17針縫う大けがだった。ICUに入院して一命をとりとめたが、美容師として働くのは限界だった。
店を開いて10年後の19年10月23日。一緒に働いていた長男・将大さんの28歳の誕生日に店をひっそり閉めた。最後の1年間はハサミを持つ機会がほとんどなくなったが、目の病気のことは家族以外に誰にも言えなかった。
「何も変わっていない自分を見てほしい」
視力低下が進行し、生き甲斐だった店を閉めたことで心が空虚になった。
自宅でふさぎ込む生活が半年間続いたが、「このままではダメだ」と仕事を探すことに。ハローワークに行ったが、視覚障害者は仕事がなかなか見つからないと感じた。
市役所に相談に出向いたところ、資格の取得を勧められ、埼玉県立特別支援学校塙保己一学園に入学する。自分と同じ境遇にいた中途失明の仲間たちに出会い励まし合うことで、心が少しずつ前向きに。2年の時に「全国盲学校弁論大会」に出場したことが、大きな転機になった。自分の半生を振り返り、思いの丈を語った。
「美容業界の仲間にも、長年通ってくださった大勢のお客様にも、あの時、本当のことが言えなかった。それが私の心に重しとなっています。新たな自分を!そして、何も変わっていない自分を見てほしい!元気な姿でみんなに『ありがとう』を伝えたい」
このスピーチで全国大会準優勝に輝き、「新たな人生を頑張ろう」と心に区切りがついた。同校を卒業し、2021年10月から「東浦和マッサージ治療院」に勤務する。
「勤めて1年足らずで技術はまだまだ未熟です。基本に忠実にやって、分からないことがあったら、学校の先生に電話で確認しています。頸椎がちょっとズレているというお客さんにどういう施術がNGなのか、腕が45度しか上がらないお客さんはどの辺の筋肉をアプローチすればいいのか。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥って言うじゃないですか。知ったかぶりが一番怖いですから」
口コミで評判を呼び、利用客がどんどん増える。わずか3カ月で売り上げトップに。利用客の心をつかんだ理由は、施術の技術だけではない。
「お客様の体をほぐすだけでなく、心をほぐす。話をしやすい空気を作ることを心がけています。施術も寝息に合わせたリズムで吐いている時に押すとか、些細な動きを大切にして。目が悪いからとか言い訳にならない。技術だけでお客さんの信用は得られないですから」
大事にしている言葉
浅野さんが大事にしている言葉がある。
「ありがとうという感謝の心、させていただきますという奉仕の心、おかげさまでという謙虚な心、はいという素直な心、すみませんという反省の心」
山野美容室の朝礼、夕礼で22年間言い続けてきた訓示が、現在も心の礎になっている。
高いプロ意識で容姿にもこだわりが。
「身だしなみをしっかりしないと。ピアスもそうだし、カッコよく演じることが大事。美容師の時に先輩から『職場はステージだと思え。俳優になった気持ちでやれ』と言われてきましたが、失明した今もその気持ちは変わりません。ありのままの気持ちを出しつつ、作り上げた自分を出してお客様に接しています」と言葉に力を込める。
視力低下は進行し、現在は暗闇の中で光と物が動いていることが判断できる程度で、文字や人の顔は見えない。勤務がある平日は職場近くのグループホームで暮らしている。
取材で話を伺う際、個室にお邪魔すると、驚いた。部屋の中は整然と片付けられ、窓際には洗濯物が均等の感覚で干されていた。テーブルには香水やオシャレな帽子が。「きれいですね…」と漏らすと、カーペットの前に折り畳み式の机を出した浅野さんは、「そう言ってもらえるのが、一番嬉しいんです」と笑った。
「中途失明でできないこともありますが、できることはやらないと。(健常者の時と)変わらない生活を送ることが大事だと思っているんです。誰に認めてもらうわけじゃないけど、丁寧な生活を意識しないとモチベーションが上がらないですから。ヘレン・ケラーの言葉が好きで。『思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから』。病気になる前から大事にしていた言葉ですが、今は本当に身に染みます」
思いは、子どもにも届いている
浅野さんはエネルギッシュだ。平日は朝から夕方まで毎日立ちっぱなしで働く。休日は障害者交流センターで、マシンを使って1時間鍛えた後、約2キロを1時間半泳ぎ続ける。時間が空いたら外に積極的に出かけ、会食の席で仲良くなった友人も多いという。
これから描く夢は、何だろうか。
「時代はどんどん変わっていきます。店舗のセルフレジが進み、便利になっていますが、人恋しくなり、人のぬくもりがまた求められる時代がくると思う。将来は仲間たちと古民家みたいな雰囲気の店舗で、お客様があん摩マッサージを受けて、美容室でカットもできて、お茶を飲んでリラックスできる場所を作りたい。美容師をやってきたノウハウ、今はあん摩マッサージ師で目が悪くなってもこうして頑張っていることを伝える講演活動もやってみたい。色々なことに挑戦したいんです。怖いものはないですよ。どん底まで落ちて、はい上がるだけですから」
塙保己一学園のクラスメート、先生、職場の同僚たち、治療院の利用客。周囲への感謝の思いは尽きない。中途失明を知った美容師時代の仲間が温泉旅行に誘ってくれた時は、本当にうれしかったという。
気丈に振る舞う浅野さんが漏らした唯一の心残りは、家族に話題が及んだことだった。
「中途失明する中で、心がすさんだ時もありました。家族はどう接していいか分からなかったと思う。特に三男には申し訳ない気持ちがあります。小学校高学年ぐらいの時に、私が目の病気に気づいて。長男や次男は富士山に連れて行ったり、毎年のように色々な場所に出掛けていたけど、三男はどこにも行かせてあげられなかった。辛い思いをさせてしまったと思います」
美容師として充実した生活を送っていたが、「網膜色素変性症」で人生が変わった。視力を失う恐怖心、何度も事故に遭って味わう絶望感は想像を絶する。だが、家族や周囲の支えで再び立ち上がり、現在は人気のあん摩マッサージ師として道を切り拓いている。
三男の七星(ななせ)さんは現在、高校1年生。こう話してくれた。
「兄たちに色々な場所に連れて行ってもらったので、辛いと思ったことはないです。お父さんは自分が物心ついた時には目が悪くて…。大変なことがたくさんあったと思います。もし、自分の目が見えなくなってあそこまで頑張れるかというとできない。凄く努力してきたと思うし、尊敬しています」
浅野さんの思いは、愛する息子にしっかり届いている。
(取材・文:平尾類、編集:濵田理央)
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駅のホームから2度転落も。目が見えなくなった人気美容師が、売り上げトップのマッサージ師になるまで