上半身裸の騎馬戦という「地獄」に苦しんだ僕は、教師になった

東京の私立小学校で教師をつとめる星野俊樹さんは、ジェンダーやセクシュアリティについて子どもたちとともに考える機会をつくってきました。その原動力となったのは、星野さん自身が「ジェンダー規範にとらわれていたから」。つらかった子ども時代の経験を語ってくれました。 

※この記事には差別的な描写があります。

星野俊樹(ほしの・としき) / 1977年生まれ。桐朋小学校教諭。大学卒業後、出版社勤務を経て小学校教員に転職。東京都内の公立小学校に6年間勤務した後、学園法人桐朋学園桐朋小学校に着任。社会的排除に向き合う人権教育に関心がある。

僕は1977年に生まれました。本家の長男として親族の期待を一身に背負っていました。

知能指数を高めるための塾に通わされ、小学校受験に挑戦したものの、失敗。滑り止めで合格した私立小学校は中学受験に特化していたため、またも受験に向けた勉強の日々が始まりました。

「ダメな男だ」と叫んだ父

父親は、家庭の中では「暴君」でした。僕の成績が下がると「頭が悪い」「女の腐ったやつ」と怒鳴り散らし、暴力もよくふるいました。会社でうまくいかないことがあると、夜中に「俺はダメな男だ」と叫んでいました。母親のことは見下していて、殴りつけることもありました。

学校や塾でも安心できませんでした。塾の先生からは、問題が解けないと約30枚のチラシを丸めて棒状にしたもので頭を殴られたり、机の下から蹴り上げられたり恫喝されたりしました。成績を上げることしか、父親や先生からの暴力を避ける方法はありませんでした。

家を継ぐものとして、成績がよくなければならない、高学歴であらねばならない、暴力に耐えて強くあらねばならない。いまなら「家父長制」の抑圧であったことがわかりますが、小学生だった当時は、大人に従うしか選択肢はありませんでした。

そんなストレスを抱えていた5年生のとき、小学校で運動会がありました。

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「女は楽してズルい」

男子は騎馬戦と組体操、女子はチアダンス、と性別によって種目が決まっており、選択肢はありませんでした。しかも男子は全員、上半身裸にさせられたのです。

騎馬戦も組体操も、運動会の「華」とされていた種目でした。練習では、指導と称して先生たちから太鼓のバチで殴られたり、ビンタをされたり。裸だったためケガが絶えませんでした。

そのときに僕を含めた男子たちから上がったのは、「組体操が嫌だ」「裸になりたくない」という訴えではなく、「女子はずるい」という不満でした。「自分たちは叩かれながら練習しているのに、女子は楽をしている。不公平だ」と。

弱音を吐くのは男らしくないと思い込んでいたのかもしれませんが、そもそも言われた通りにやらなければ暴力をふるわれるような状況で、嫌だと言う選択肢があることすら知らなかったのだと思います。

自分たちのつらさを大人に訴えることができない代わりに、怒りの矛先を女子に向けていたのです。

ここ数年、SNSなどで女性が差別や生きづらさを訴えているときに、男性が「男だって生きづらいんだ」と乗っかってくる現象を見かけることがあります。幼い頃、男子がつらさを訴えられず、「女子だけずるい」と言っていた構造と同じことが続いているように見えてなりません。

結局、僕は中学受験にも失敗しました。父親からは「無能だな」とだけ言われました。ストレスが原因でチックを発症していました。残ったのは、強烈な学歴コンプレックスでした。

男子の内輪ノリに加担

中学校に入ると、同級生たちは「俺」という一人称を使っていました。僕はずっと父親から「女の腐ったやつ」と言われ続けてきたので、そんな自分が「俺」を使う資格はないんだ、と一人称ひとつとっても悩み、「俺」を使えない自分を情けなく感じていました。 

初めて好きになった相手は男子でした。同性を好きになった自分に混乱しました。当時は「ホモ」が笑いのネタとして消費されていて、家族や友達、先生たちも同性愛に対して差別的な発言をしていました。

同級生にバレたらいじめの対象になる。その恐怖から、高校では男子集団の中で、周りに合わせて「普通」を演じることに必死でした。

男社会のヒエラルキーでのサバイバル術は、いわゆる体育会系の内輪ノリに参加することでした。女性教師の容姿いじりに加担したこともありました。

今では考えられないことですが、高校の卒業文集に掲載されたクラスアンケートの中に「ホモかもしれない奴」を選ぶ投票があったんです。1位に名前が上げられていたA君には、3分の2の生徒が投票していました。

投票結果に自分の名前がなかったことに心底ホッとしました。同時にA君に対して「ホモだと思われてお気の毒。うまく立ち振る舞えなかったんだから自己責任だよね」と本気で思っていました。

他者を差別するだけでなく、自分のことも差別していたんだと思います。「ホモはキモい」「男子ノリを楽しめないなんて男らしくない」という攻撃を自分自身に向けていました。大嫌いな本当の自分を隠し通し、嘘で固めた“自分”をつくっていました。 

そして常に誰かと比較して、人間関係を勝ち負けで見ていました。社会問題や構造には目を向けることなく、自分は努力したから生き残れたんだ、と思っていたんです。ゴリゴリの自己責任論者になっていました。

「男らしさ」の呪縛が解ける

そんな僕に訪れた最初の転機は、大学1年のときのジェンダーの授業でした。

性的マイノリティの先生が、授業中にカムアウトしているのを見たことがきっかけです。これまで否定していた「自分らしさ」に向き合うようになり、執着していた「男らしさ」とは何だったのか、と疑問を感じるようになりました。

ジェンダーの授業を受け、モヤモヤが言語化されるたび、救われたような気がしました。この苦しみは社会の問題だったんだと気づくと、下の世代には苦しんでほしくないと思うようになりました。

たくさんの本を読みながら、少しずつ、学歴至上主義や自己責任論の呪縛から解放されていくのを感じました。受験勉強ではない学問があったのだと、大学に入って初めて知りました。

子どものとき、知らず知らずのうちに植え付けられた「男らしさ」の規範。苦しみから逃げることすら頭に浮かばないほど、選択の機会を与えられてこなかったこと。これらの経験は、僕の人格形成に大きく影響しました。

僕の場合は大人からの強い抑圧がありましたが、仮にそれほど大きな圧力ではなかったとしても、大人は子どもに忖度をさせてしまう可能性があると思います。

子どもは親の喜ぶ顔を見たいので、電車のおもちゃをもらったら、本当は電車が好きじゃなかったとしても喜んでみせることもあるでしょう。「女の子だから思いやりをもって」など、期待された役割を演じてみせることもあるでしょう。

子どもは大人が好むように自分を方向づけていくことがあるという前提で、私たち大人は子どもと接する必要があるのではないでしょうか。

教師が持つ権力

大学卒業後、出版社で働いたあと、小学校の教員になりました。多様性教育に力を入れ、担任していたクラスでは2017年から2年間、「生と性の授業」と題して取り組みました。

ジェンダーやセクシュアリティについて、子どもたちと対話をしながら学び続けてきましたが、反省もあります。「正しさの押し付け」になっていなかったか、ということです。

教室の中で、教師は権力を持っています。その権力の大きさや影響力を自覚せず、子どもたちやその家族のリアルを無視して、頭ごなしに自分の考えを教え込むようなことはしたくありません。そのような教師のあり方は、僕が苦しんできた家父長制のあり方と似ていると思うからです。 

ジェンダーバイアスをなくそう、性別役割分担を見直そう、と授業で伝えても、さまざまな家庭があります。とりあえず性別役割分担で回さざるをえない家庭、そもそも役割分担ができない家庭もあります。

僕の実践や発信が、どこかの家庭の親たちのことを、ジェンダーについて無知であると責めるようなメッセージになっていなかっただろうか。無自覚に「正義」をふりかざしていたのではないか、と恐ろしくなることがありました。

ジェンダーやセクシュアリティのテーマを扱う多様性教育をしているというと、他の学校の先生から「それはあなたの学校だからできるんだよ。うちの学校ではなかなか難しい」とため息混じりに言われることがあります。時間も人員も余裕がなく、先生たちが日々やるべきことに追われている学校が多いからです。

僕が勤めている桐朋小学校は、子どもの権利条約を大切にする校風や、教員ひとりひとりの自由な教育実践を尊重する文化があり、多様性教育の実践にあたっても同僚や保護者から理解を得やすい環境があります。

僕が多様性教育に取り組めるのは、そうした特権があるからだという事実は否めません。

まずは大人が変わろうとする

僕自身が100点満点ではない中で、子どもとの関わりでも、何度も失敗してきました。

僕は、結婚について聞かれることが本当に嫌なんです。仕事柄、結婚しているのかどうか尋ねられることが多く、保護者から「子どものいない先生にはわからない」と言われたこともありました。自分が傷つく言葉だとわかっているので、過剰反応しないように日ごろから注意はしていました。

ある日、授業の合間で忙しくしていたときに、ある児童から「先生、結婚してないの?」と聞かれ、とっさに「関係ある?それ」と冷たく返してしまったんです。しまった!と思い、帰宅してからも気になって、翌日その子に時間をとってもらい、「あのとき、棘がある言葉を返してしまってごめんね」と謝りました。

「興味があったから聞いてくれたんだよね。でも、どう返したらいいかわからなくて動揺しちゃったんだ。好きな人はいて一緒に住んでいるけど、結婚しているかどうかは今は言いたくないんだ」

そう丁寧に説明すると、その子はうなずいてくれました。

大人も間違えることはあります。だからこそ、関係性のメンテナンスに労を惜しみたくはないと思っています。

子どもを変えるために教え込むのではなくて、まず大人が変わろうとする姿を見せていく。何を伝えるかよりも、どう伝えるか。それが多様性教育では欠かせない視点ではないかと考えています。試行錯誤しながらも、関係性をつくることを最も大切にしています。

「男は強い、女は弱い」と繰り返し言っていた男子たちがいました。彼らの発言を頭ごなしに否定するのではなく、まず彼らが好きな戦闘ゲームのソフトを買い、ゲームの話題をふってみました。それがきっかけでいろいろなことを話すようになると、彼らが抱えていた不安や苦しみを知ることができました。

彼らは、大人に言えないつらさやいらだちを周りに向けていた、あのときの僕と同じだったんです。

自分や周りを害するほどの行動の背景には、どんな苦しみがあるのでしょうか。どうすればその苦しみから逃れられるのでしょうか。

僕が幼いころに父親や大人に一番してほしかったこと。それは大人がひとりの人間として、肩を抱いて寄り添うように子どもと接することです。僕はそんな教師でありたいと思っています。 

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(取材・文:小林明子) 

(2022年8月4日のOTEMOTO掲載記事「上半身裸の騎馬戦という「地獄」に苦しんだ僕は、教師になった」より転載) 

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