週に3本、多い時には5本のテレビ露出。大塚製薬のオロナミンCや現地スキンケア商品会社とは年間契約でCM出演、インスタグラムやTiktokなどの広告にも顔を出す。インドネシアで間違いなく売れっ子タレントの地位を築いていた。
文字通りの“成功”をつかんでいる。異国の地でのブレークの理由を明かした。
「最初のころは、取り上げてもらうことも少なかったです。日本人でタレントをしているというのがインドネシアで初めてだったみたいです。『日本人の人がいるよ』とJKT48時代に段々と話が広がっていったのがきっかけです」
移籍からわずか2年でレギュラー番組もできた。日本時代には浴びることのなかった視線。注目度にうれしさもありながらも、不安を感じていた。
「今のように毎日テレビに出るとかもなく、日本でもそういう経験がもちろんなかった。『私がやりたいことなのかな』って戸惑いもありました。自分が思っている以上に名前が外に出てしまったので、それに追いつくのに必死でした」と振り返る。
ブレークの実感もあった。「JKT48に入って2年目、3年目くらいは記憶にないくらい忙しくて、その期間だけでCMをトータル20本以上やらせてもらったり、レギュラー番組もあって、コンサートもあって、あっという間にJKTの4年も過ぎちゃいました。そこで一気に自分の人生変わったかなって思いますね」と笑う。
テレビの作りや進行は日本とまるで違う。“日本人キャラ”を最大限に活用してインドネシア芸能界を渡り歩く仲川には、それがフィットした。
「日本って結構台本があって、それ通り話さないといけないことが多いんですよね。ツッコミの場所とかも決まっているみたいな。インドネシアって大まかな台本はあるんですけれど、後は自分のやり方でやっていいんです。それを受け入れてくれる国なのでそこが私にとってはやりやすくて、自分のタイミングで行けるし、緊張せずにバラエティー番組に出られます」
楽屋の作りにも言及した。「日本では基本的にみんな別々だと思うんですけれど、インドネシアは大部屋です。最初は『えー』って思ってたけれど、今は全然気にしていません。日本で言うところの大御所の人とタレントの駆け出しの方が同部屋なんです」と説明。
また「みんな時間通りに来ない」という国民性についても話す。「30分後スタートとかで、最初は『なんで時間通りに始まらないんだろう』『まだ待ち時間?』とか驚いたり、イライラすることもありました。今は慣れ、私自身もおおらかになったと思います」。
活動の幅はテレビだけでない。18年の日本とインドネシアの友好60周年の際には親善大使に就任。1年間活動をした。その後も架け橋のような存在になっている。
「コロナ禍でも日本を紹介する番組をやらせてもらったりしていました。コロナ前は東北を盛り上げるためにインドネシアの方々と訪れて撮影しました。他には北海道に行って、その魅力をインドネシア語で伝えるという仕事もありました」
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