参院選の街頭演説中に銃で撃たれ死去した安倍晋三元首相の「国葬」を、9月27日に日本武道館で行うことを政府が閣議決定した。TBSによると、葬儀委員長は、岸田文雄首相が務めるという。
首相経験者の葬儀は近年、内閣と自民党による「合同葬」が主流となっており、戦後に「国葬」が行われたのは1967年の吉田茂氏のみだ。
この吉田氏の「国葬」は当時、どのように執り行われたのか、写真とともに振り返る。
吉田氏の国葬は、1967年10月31日午後、東京・千代田区の日本武道館で執り行われた。
この日の朝日新聞によると、天皇、皇后両陛下のお使いや皇太子ご夫妻ら皇族方、73カ国の外国特使など約6500人が参列。吉田氏の遺骨が午後2時に到着し、防衛庁(当時)の儀仗隊が19発の弔砲を発射したという。
開会の辞の後、1分間の黙祷が行われ、全国各地でサイレンが鳴らされたという。
佐藤栄作首相(当時)らによる追悼の辞の後、皇族方による供花、遺族や外国特使、招待参列者の献花があり、一般参列者の献花に。儀仗隊による弔銃斉射の中、吉田氏の遺骨は午後5時すぎに式場を出たという。
一方、1967年10月25日付の朝日新聞朝刊(東京本社版)によると、政府は当時、国葬当日の午後について、官公庁は業務に差し障りのない程度に職員を早退させ、国公立の小、中、高校、大学も午後は休校としたという。民間の学校や企業もこれにならうよう要請し、一般家庭にも当日弔旗を掲げ、午後2時前後に1分間の黙祷をするよう要請したという。
また、「競馬や競輪、オートレース、競艇などの公営ギャンブルは当日は開かないと決めた」といい、「NHKと民放連でも当日、ラジオ、テレビの番組を一部変更」し、「葬儀の前後、国葬にふさわしくないと思われるドラマ、歌謡ショー、CMなどはやめる」と報じている。
これに対し、1967年10月26日朝刊(東京本社版)によると、「民間会社や団体は大半が通常通り業務を続け、官公庁のように『午後から業務に差し障りのない程度に早退させる』ことはほとんど考えていない」と報じ、政府が学校の午後の授業を取りやめる方針を決めたことについて、全国の教員や学校職員による労働組合の連合体「日本教職員組合(日教組)」が抗議声明を出したと報じている。
産経新聞によると、今回の安倍元首相の「国葬」にあたっては、生活に影響を及ぼす国民の服喪は求めず、学校や官公庁などは休みにしない方針だという。
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吉田茂氏の「国葬」はどんな様子だったのか。全国でサイレン、弔砲の発射も…写真で振り返る