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意見の違う人と話すコツ、いい「問いの立て方」とは? 京都大准教授・宮野公樹さんと考える

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京都大学学際融合教育推進センター宮野公樹准教授

いろんな意見を持った他者と、対話するのは簡単なことではない。
Twitterなどのインターネット言論の世界では、意見の違う者が対立し、分断しがちだ。 

学問、環境問題、ビジネス……。

意見の異なる立場の人とどうしたら対話できるのか。

そもそもどんな問いを立てれば、多くの人が話し合えるのか。

「その問い、合ってる?」

問いの立て方』(ちくま新書)の著者で、専門化が進む学術界で話題を呼ぶ「対話型学術誌『といとうとい』」を創刊した京都大学学際融合教育推進センターの宮野公樹准教授は問いかける。PIVOTチーフSDGsエディターの竹下隆一郎さんが、意見の異なる人と対話する方法を聞いた。

「対話」と「会話」の違いとは?

——宮野先生は、京大100人論文や対話型学術誌の創刊など、学術界で話題の企画を次々と実施されています。「対話」を重視されていると思いますが、そもそも学問において対話を大事にされている理由を教えてください。

研究者が自分の専門性を超えて研究していくことは、本来、学問のもつ特性です。

一つのことが知りたくて、深くズンズン掘り下げていったら、文学であろうが理学であろうが一つの学問領域のなかでおさまることはなく、おのずと学問の壁を超えていくでしょう。

少々乱暴ですが、人間の身体に例えればわかりやすい。例えば、徹底的に心臓の研究をして理解を進めたとしても、人間全体の理解にはつながらないですよね。血管や血液にも関心は向いていくでしょう。専門は文字通り「門(もん)」であり、単なる入り口でしかなく、そこをくぐってまっとうに深めていくのなら、かならずたどり着くところは同じ、全体や総合、つまり、この世界まるまるが存在していることへの意識です。

ただ、現在の大学がそのような学問の本来のありように応えられる体制かというと、そうではありません。

たとえば、今日、大学が研究者の業績を評価する際に重視される指標のひとつに、「論文の執筆数」があります。より多くの論文を書いた研究者が評価される、ということです。

しかし、あまりに当たり前のことですが、論文執筆は手段であって目的ではない。何かを明らかにしたいその途中経過が論文であり、その途中経過を見せあって、対話し、議論する……それが学術論文の本来の目的であり、その積み重ねが学術全体の分厚い歴史、進展なのです。

論文の量が重視されると、明らかに対話は減少します。それではなんのための論文か、わからなくなりますよね。

今日、論文の生産能力が過度に着目されてる中、なんとか、本来の論文や学術のありようを思い出す必要があると考え、あらためて「対話」が大切になってくる、と私は考えているわけです。

——なるほど、研究者が研究を深めるためには対話が必要だと。私自身は、他者とわかりあう対話、相互理解の難しさを感じています。対話以前に会話ができる状態、お互いにテーブルについている状況も大切だと思います。

対話も会話も、どちらも大事ですよね。定義の違いだからどちらがどうというわけではないけれど、対話であっても、会話であっても、「自分は変わる用意がある」者同士が語らう姿勢こそが大事だと思います。

ネット上での対話が難しい理由

——日本だけではないかもしれませんが、インターネット言論は、対話の内容そのものよりも、キーワードが持っているメッセージ性に引きずられることもあります。たとえば「対話」「多様性」といったキーワードは、普遍性があると私は思いますが、それを出した途端にある種のイメージがついてまわり、その先に進まない。問いの時点で、結論のイメージが決まっていない投げかけも必要ですよね。

確かにそういう状況はありますね。普通に対話したいだけなのにね。

僕が所属する京都大学学際センターが11年前から毎月実施している「全分野交流会」では研究者や社会人、いろんな人が参加します。そこで「話したいテーマ」を集めたとき、とある政策に対し、「○○○という愚策について話したい」と提出した人がいました。

「愚策」っていう言葉、ちょっと何も寄せ付けない空気をまとっていますよね。これでは対話は生まれにくい。

そこで、僕はその場をつくる立場から、その人には「『○○○という政策について』とテーマを変更しませんか? あなたも別に否定したいわけでなく、いろんな人と議論したいのですよね。であれば、こちらのテーマのほうが断然対話がなされますよ!」と伝えました。もちろん、受け入れてもらえましたよ。

――問いを少し変えるだけで、いろんな立場の人が話せるようになりますね。

他にも「京大100人論文」というオンラインの場づくりをしてきました。匿名で研究ポスターを掲示して匿名で意見交換する場なんですが、そのときに実施したのは「過度な主張の方は参加しないでほしい」というレギュレーションで特定の人を外すのではなく、「ここに集まっている人たちは、みんな真摯に対話して、自分が変わる用意がある」というメッセージを、デザインや場のコンセプトを通じて伝えていくことでした。

その結果、「京大100人論文」では3000もの意見が出たけれど、どれも真摯な対話がなされたものでした。きちんとしたコンセプトに反応する人たちが集まれば、見知らぬ人同士でも対話はできる、と僕は信じています。

京大100人論文のステートメント。この企画のスタンスが明確に記載されている。

——対話をするためには、ある程度のリテラシーが必要ということでしょうか。

「リテラシー」よりは、「本性」という言葉のほうがしっくりきますね。本性とは、人間が普遍的に持つ思考、感覚、行動などを指します。人間の欲求の階層のピラミッドで知られるアメリカの心理学者、エイブラハム・マズロー(1908-1970)は「政策などを立案するとき、人間の本性をおさえる必要がある」という趣旨のことを言っています。

さらには、情報を疑う姿勢をもつことも、対話には必要でしょう。例えば、Twitterがすべて正しい情報だと思っている人とは対話しにくい。良し悪しは別として、政治家の発言やテレビで流れる情報については、いい感じに疑う風潮はできていますよね。どの情報に触れても「本当のことはどこにあるんだろう」と考える姿勢は、対話に必要なのではないかな。

動画でチェック? 立ち振る舞いからわかること

——私は対話するときに、ネット上の言論だけでなく、その方の立ち振る舞い、言葉のトーンや仕草も大切だと思っています。ためらいながら話しているのか、真剣に話しているのか。ネット上の言論と、実際の様子を合わせて、その人をとらえるようにしています。相手を受け入れる雰囲気のある立ち振る舞いなのかどうかが知りたいのです。もちろん自戒をこめて、私も気をつけるようにしています。

おもしろいですね。僕も「全分野結集型シンポジウム」という、現在の学問分野を網羅するように、79の分野の研究者を一堂に集めて行われるシンポジウムをやりました。

僕の知り合いだけでは79の分野なんて集まりませんから、登壇して欲しい研究者をネット上で検索します。そのときに必ず写真も見て、「この人だったら、僕の呼びかけに付き合ってくれるかどうか」を想像しました。それと同じですね。

——今後、メタバースやバーチャルリアリティが発達して、アバターを介して人と会うようになると、そういった「対話を受け入れる雰囲気」の察知が難しくなるのかもしれませんね。そうした「仕草」もアバターが再現するようになるかもしれませんが。

宮野先生のZoomの画像。オンライン取材で伝わる先生の印象とは大きく異なる。「話題が硬いフォーマルな会議のときはこの画像でのりきる!」とのこと。

SDGs、どう議論すればいい?

——先ほど、話し手のキーワードで相手に先入観をもってしまうという話をしました。たとえば、私が追いかけているSDGsを例に挙げると、地球を大事にしたい、は思想の違いを超えるので、「みんなが住む地球を大切にしよう」という考えは、「郷土を大切にしたい」という考えと観念的な部分では一致するなど、キーワード的な違いを超えて根本でつながっている共通点もありますよね。

SDGsについて、竹下さんに話したかったことがあるんです。僕は京都大学で「アンチSDGs」をテーマにしたシンポジウムをやって、対話をしたことがあります。アンチSDGsとは言っているんだけれど、つまりは、SDGSを真正面から問い直してみるってことです。なので、竹下さんの書籍『SDGsがひらくビジネス新時代』(ちくま新書)と方向性は同じですごく共感しました。実際に対話も盛り上がりましたよ。

実際の宮野先生のZoomでの様子。当日は、バイクで移動したため髪がぺっしゃんこになっているそう。

竹下さんも僕も、自分たちの意識次第でSDGsの意義が変わると思っている点が共通している。「SDGsの何番と何番をやっているから、自分は大丈夫」という無思考の免罪符になってしまってはSDGsの意味がない。人権や政治、環境破壊などSDGs的な「社会課題」に、企業、ひいては企業を構成する個人がどれだけ本気で向き合えるのか。考え方一つで、SDGsの意義は変わっていくのだと思います。

そして、竹下さんのおっしゃっているSDGsをめぐる対立についてはご指摘の通りですよね。具体的な話を観念に戻していくと、いつか意見は一致するから、対話の糸口は見つかるでしょう。僕の仕事に結びつけて話すと、メタ(高次の視点)からものを見ることは、本来、学問が得意としている役割のはずです。

文系であろうが理系であろうが、どんな分野も入り口でしかない。学問をすることは、「知識を得る」ためではなく、「知識の側からちっぽけな自分たちを見る」という、観念的なものの見方ができるようになるためだから。実際は大学4年間のうちにそういった目線を身につけることが大事なのですが、今日、なかなか難しい。これは大学の責任ですがね。そして、社会に出てからは、なおさら難しい。

今の時代こそ求められる、メタの視点で観念を語る力

——今、ビジネスの世界こそ、観念が必要になっているように感じます。たとえばテスラ社イーロン・マスク氏の「宇宙輸送を実現する」「すべての車は電気自動車になるだろう」といった趣旨の発言は、妄想に近い観念かもしれない。でも、そこに多くの人が魅了されて、人も金も情報も集まってきている。彼には賛否両論もありますが。ビジネスこそ観念が強くないといけない。今、大学で観念的なものの見方ができる人が育っていないと聞くと残念ですね。

本当にそうですね。なんでそうなってしまったか。原因はいろいろあると思いますが、大学だけが原因ではない。ひとつは20世紀に入ってから社会全体が物質的なものの見方が強くなってきたことがあります。

科学主義と、民主主義、資本主義は強く結びついている。科学の発展とともに物質的なものが大事にされて、目に見えない観念的なものは横置きされるようになってきました。そんな時代的な経済合理性の流れの中に大学が置かれているのです。

前述したような論文の量が主たる評価基準だと、論文生産マシーンのような研究者が大学で生き残ることになりますよね。この傾向はほんのここ3、40年ぐらい前からの、ものすごく急激な変化です。

ふと思い出したんですが、僕は研究者人生の前半は、ごく普通の科学者でした。いわゆる文系のほうに移っていったころ、ある文学部の先生に「A先生ってすごく有名だけど、どこがすごいんですか?」と聞いたことがあります。

そのA先生は、論文は2、3本程度、本も数冊しか書いていない。しかし、とても評価されているんですよね。当時の僕は、まだ「学問=論文書くこと」と思っていたので、「そんなA先生ってすごいんですか?」と疑問をもったわけです。すると、その文学部の先生は、「宮野さん、会えばすぐにA先生のすごさはわかりますよ」と返してきた(笑)。

そのときはすごく驚きましたが、今は非常によくわかります。そういう計量化に頼らない研究者の評価というのも、ほんの10、20年ぐらい前まではまだあったんですよ。

対話の先にある研鑽。文句との違いは?

——どうしたら、以前のような評価基準に戻るのでしょうか?

そこで京都大学学際センターは、対話型学術誌『といとうとい』を創刊したのです。掲載するのは、分類や専門で区切ることができない多様な研究テーマです。何を研究しているかというより、どういう世界観で研究をしているか。いうなら研究者としての志、想いのほうを表明する場。その想いについて研究者同士で研鑽(けんさん)することを目指し、学問を育む場、大学を越えたプラットフォームの構築を意図しています。

もちろん、創刊したてなので社会的認知もまだまだですし、論文誌としての評価もこれからです。しかし、10年後には、「え? あの『といとうとい』に論考が掲載されたの? スゲー!」って話題になるようなクオリティーを目指します。

僕は対話だけではなく、研鑽という言葉をよく使います。『といとうとい』では、掲載する論文に対して、執筆段階から編集委員らがいろんな意見を言います。「構成はこう変えたほうがいい」「量子力学の観念を入れてはどうか」など。自分と違う意見は、考えを磨いてくれる。研究者が思考を深めていくプロセスを重視しているのです。

——対話の先に研鑽があるのですね。ちなみに、研鑽と文句はどう違いますか? 企業で働く人には、上司や同僚、部下に「文句」を言われていると感じる人も多いと思います。

文句を発する側は「言って終わり」です。でも研鑽は、「あなたの考えについて私はこう思うが、自分の言っていることは正しいかどうかわからない。だから教えてほしい」という姿勢で発言する。さらに「あなたと自分で、もっといいものを作りたい!」と目標を掲げている。そこが、文句と研鑽の大きな違いでしょうね。

先行きが読めない時代、「問い」を自問する

——問いの良し悪しの話なのかもしれませんが、ある問いを立てることで、問いの解決が遠ざかってしまうことについては、どう考えたらいいでしょうか? 

一般社会には、もともと言わなくてもよかったのに、わざわざ問いを立てたり定義づけしたりして「解決せねば!」と意見し、何か意味あることをしてるようにみせる風潮がありますよね。例えば、「今こそ学問知が必要だ!」みたいな(笑)。学問知って何? って話です。僕は、それはしょうもない仕事だと思っている。そのことに注目してほしいなら、ただそれが大事と叫ぶのではなく、その先にどんな問いを立てて、対話をしていくのかが大切かなあと。すなわち「なにを問うのか?」。何について他者と話し合いたいのか、その問いの立て方が重要になってきます。

――自分の主張ではなく、他者と未来を思い描けるものが問いである、と。

「その問い、合ってる?」を自分のなかで確認し、対話に耐えうる本質的な問いが必要なのではないか。資本主義や民主主義がきちんと機能しなくなって、確実なことが言いにくい、先行きが読めない時代です。ま、人類史上、先が読めた試しなどありはしませんがね(笑)。どんな時代であれ、「そもそも何が問題なのか?」をきちんと考える力のある人が、社会に増えることは、本当に大切なことだとと思っています。

(構成:呉玲奈 編集:笹川かおり)

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