秋篠宮家の長女眞子さまと小室圭さんが10月26日、婚姻届を提出する。2017年9月の婚約内定から4年間、かつてないバッシングの逆風にさらされたお二人。メディアの過熱報道に問題はなかったのか。そして、結婚騒動から社会が考えるべきことは。
「近代皇室の社会史−側室・育児・恋愛−」(吉川弘文館)などの著書を持ち、メディアの問題点について指摘してきた成城大学文芸学部の森暢平教授に聞いた。
――9月27日に小室さんが帰国して以降、テレビ番組は自宅マンション前からの生中継で溢れました。こうした報道をどう見ていましたか。
テレビと新聞のカメラマンは各社の交代制にして、なるべくメディアスクラム(集団的過熱取材)と呼ばれない態勢を取っていたようです。ただ、小室さんの外出といった場面をわざわざ生中継で伝える必要があったのでしょうか。秋篠宮さまに会って「何を話したのか」というニュース性のある内容を伝えるわけではありませんでした。「金銭トラブルも話したらしい」などと推測に留まり、その他は小室さんの動静報道に留まっています。視聴率を狙って番組の尺だけ取り、中身のないニュースを流すのは、過剰だし、水増しです。
――2017年冬に週刊誌が金銭トラブルを報じて以降、メディアの小室さんに関する報道が加熱しました。
メディアの立場になれば、視聴者や読者の関心が高いという「公共性」、伝えることで社会のためになる「公益性」の双方があるため、話題として取り上げるということなのでしょう。「公共性」や「公益性」のために、プライバシーや肖像権がある程度侵害されるのは仕方がないというのがメディアの論理です。
小室さんは、確かに、皇族の結婚相手という意味で全くの私人ではありません。しかし、何でも報じていいわけではない。小室さんの人権を犠牲にしてまで、報道する意味があるのかないのかを、メディアは常に自省する必要がある。
ところが現状は、公共性・公益性と人権のバランスが取れていない。人権を侵害していると言われても反論できない状態にあります。
一部の週刊誌は小室さんの母親と元婚約者の赤裸々な私生活まで踏み込みました。世間の関心があれば何でも書いてよいわけではありません。特にテレビや雑誌は、下世話な興味に答えるだけの報道になっていたと思います。天皇制、皇室の未来への議論につながるような報道はここまで少なかった。
――帰国時の長髪など小室さんの容姿を強調する報道も相次ぎました。
髪型やネクタイの柄など見た目に関する情報を延々と流していましたが、果たして必要な報道だったのでしょうか。
ジャーナリズムは、髪型や服装を強制する校則を「よくない」などと批判してきました。ところが、小室さんに対しては、「ちょんまげ」「ロン毛」など大っぴらに報じた。これはアウトです。見た目への揶揄は許されないことだし、米国では差別だと批判されることもあります。
――一部メディアの報道を受けて、インターネット上では小室家へのバッシングも相次ぎました。言論のバランスの取り方、超えるべきではない一線はどこにあるのでしょうか。
かつての米国のジャーナリズムの教科書には「面前で言えること以上の批判は報ずべきでない」とありました。適切な評論と誹謗中傷の区別は微妙なところがありますが、感情や憶測、伝聞に基づいた評論は、ルールを逸脱した誹謗になりかねない。金銭トラブルにしても「借金を踏み倒す一家だ」と決めつけるのは完全な誹謗です。
一方、「金銭トラブルについて、国民の関心が高いので、可能な範囲で小室さん側も説明を尽くすべきだ」などとする理性的な評論は言論の自由の範囲内にあり、抑圧すべきではありません。
私自身は、そのようには考えず、小室さんが今以上に金銭トラブルを説明する必要はないという立場です。しかし、言論の自由は、自分の意見と異なる見解にも寛容でなければなりません。
問題なのは、好き勝手に報じても小室さん側が反論しないことを逆手に取っていること。ある時期から特に小室さんの母親への悪口に歯止めがかからなくなりました。特定の人物を攻撃する「スケープゴート」になったと思います。
多くの人にとってメディアが流す情報が本当かどうかは実は重要ではなくなっている。むしろ、自分が信じる「真実」に当てはまればよいという現象さえ見受けられました。特に、ヤフーのコメント欄を見るとその傾向は顕著です。
――小室さんへのバッシングの背景の大部分を占めるのは、金銭トラブル報道ではないでしょうか。
仮に小室さんの母親に何らかの問題があったとしても、元婚約者との二人の問題です。ICUへの学費や留学のための名目だったから小室さん自身も関係があると考える人がいます。しかし、あくまで母親と元婚約者が婚約していた時代の金のやり取りで、小室さんは関係がありません。
一方、今もバッシングを続ける人のなかには、「もはや金銭トラブルの問題はどうでもいいんだ。とにかく小室家が怪しいのが問題だ」などと主張する人がいます。そうだとすると、いくら金銭トラブルを説明しても、批判は次から次へと湧いてくるということになってしまいます。記者会見での小室さんの説明が、何のためなのか分からなくなります。
男性皇族が結婚する場合、その相手は身元の調査が行われます。結婚とは少し異なりますが、私は、戦前期の皇子皇女に母乳を与える乳人(めのと)選定の文書を網羅的に精査したことがあります。実感を持って言えることは、4代前まで遡ると、親族に問題のない人なんて実は一人もいないということです。
若いとき、ちょっと羽目を外してしまう人は少なくありません。あるいは、誰かに不義理をしたり、男女関係でちょっとしたトラブルを起こしたり……。人に知られたくない過去を持っていない人の方が珍しいのではないでしょうか。完全に清廉潔白な、理想的な皇族の配偶者というのは、想像上の存在です。誰でも後ろめたい過去や黒歴史はあるはずです。
――SNSやネットニュースのコメント欄は誹謗中傷とも受け取られる批判の声で埋め尽くされています。「これが国民の大多数の意見だ」といった書き込みも見かけます。
典型的な「エコーチェンバー」です。ネット上の閉ざされた空間で自分と似た意見しか返ってこないからこそ、これが、多数の意見、「国民」の意見だと勘違いしてしまうのでしょう。例えば、ANNの世論調査(2021年10月16・17日実施)では、結婚を「お祝いしたいと思う」と答えた人は61%でした。もちろん多数派だからよいというわけではありません。「お祝いしたいと思わない」とする回答者も24%もいて、少数派の意見もきちんと受け止めるべきです。どちらかが「国民」の声だと単純視することはできません。むしろ「国民」が大きく分断されていることが問題です。
――メディアの報道を起点に、世論は大きく揺さぶられました。メディアに足りなかった視点はあるのでしょうか。
今後の皇室を考えた時に何をすべきなのか、冷静かつ理性的な議論の場をメディアは生み出せませんでした。批判派は小室さんを悪者に仕立て、擁護派はバッシング側が悪いと互いのせいにして、分断が明白になってしまった。洞察ある記事や、問題を整理して冷静に討論する番組があれば、この状況は変わっていたのかもしれません。これは、私自身の反省もあります。冷静な対話がまったく欠けていたし、いまも欠けています。
――美智子さまや雅子さまに見られるように、女性皇族は過去にもバッシングの対象にされてきました。なぜ、同じことが繰り返されるのでしょうか。
やはり皇室のトップである天皇陛下への直接的な批判はしづらい。かつては明らかにそうだったし、今もその空気は残っています。その大きなタブーがあるからこそ、ナンバー2である皇太子、女性皇族などいわゆるサブ的な方々が「ヒール役」とされることがある。皇室のなかで、ナンバー2の地位はバッシングの矛先が向かう傾向にあります。これは1970年代の昭和の皇太子ご夫妻(現上皇ご夫妻)や、2000年代の平成の皇太子ご夫妻(現天皇ご夫妻)、現在の秋篠宮家が当てはまります。
バッシングの対象となるのは、プライベート(私)を公務より優先させたこと、すなわち「ワガママ」への批判です。適応障害との診断を受けた雅子さまが、気分を変えるためにと医師に勧められたレストランでの外食への批判が例に挙げられるでしょう。
特に女性皇族は、結婚、出産、育児……と「私」の部分が注目される場面が多く、バッシングのターゲットになりやすいと言えます。ただ、そうした場面でご自身の意思を通すのは皇族である以前に一人の女性、母親として当たり前のことではないでしょうか。それを「ワガママ」だと言われたら立つ瀬がありません。
――過去に例を見ないほど、バッシングが広がった社会的な背景はあるのでしょうか。
オウム真理教事件と阪神淡路大震災を経た日本は、社会が不安定になっています。近年では、コロナ禍や災害が重なっている。経済政策でも、外交政策でも、感染対策でも、あらゆる問題で、社会全体が共有できる答えが見えなくなっています。そんな時に、時代を超えた不変性を持つ「天皇制」というアイデンティティーに希望を見出す人が多くなっていると思います。伝統を打ち壊すようにも見える眞子さまと小室さんに対して、批判が向かいやすかったと考えられます。
上皇さまが生前退位された際の過剰な賛美も、今回の一件とベクトルが違うだけで、実は同じ現象の裏表の関係にあると捉えています。不安定な社会が続けば、過剰な賛美やバッシングはこれからも起こりうるでしょう。
――眞子さまと小室さんの結婚騒動から考えるべきことは何でしょうか。
皇室は英語でImperial Family(インペリアル・ファミリー)で、家族のことです。天皇制とは、実は家族を意味しています。すなわち皇室を考えることは、家族の在り方について考えることにもつながります。
家族というものを考えるとき、人と人、多くの場合は男女の親密な関係が重要になり、出産、育児、教育といった新たな家族の再生産が次の問題となります。皇室に関係が深いのは、結婚です。結婚は個人と個人の契約であるとの西洋の考え方を学んだ明治期以降、好きな相手と恋愛し、結婚を自らの意思で決定することが理想とされてきました。昭和20年代に結婚した和子内親王、厚子内親王も「ご自身の意思でお相手を決めた」という点が当時のメディアで評価されています。
一方で、今回の眞子さまの例はワガママだと捉えられてしまいました。女性皇族は、国民が納得する人と結婚しなければならないのでしょうか。実は、西洋的な個人に基盤を置いてきたのが、近代の皇室です。それを根底から揺るがすような議論が大手を振るっていることに違和感と危機感があります。
近代以降の皇室は家族の見本でもありました。ただ、事実婚など現代の家族は多様化し、皇族内でも別居婚、非婚、事実婚などすでに家族の在り方が変わっているのが現状です。同性婚は法制化されていませんが、パートナーシップ制度を導入する自治体も増えています。「家」や釣り合いなど従来の価値に縛られていた近代的な家族観が崩壊した時、新しい時代の家族の形をどう描いていくのか。仮に、多様な性的指向や性自認を持つ皇族がいたとき、それは国民が納得できないからダメと言い切れるのか。
今回、小室さんと眞子さまはあくまで自分たちの意思を通した。私は素晴らしいと思いますが、そう考えない人もいる。この議論を進めるとき、私は、社会全体の家族の変容という視点が必要ではないかと考えています。
眞子さま問題は、皇室の内部の問題ではありません。実は、社会全体、そしてこれを読むあなたの問題なのです。
森暢平さん〈もり・ようへい〉
成城大学文芸学部マスコミュニケーション学科教授。元毎日新聞記者で皇族取材を担当した。退社後、国際大学大学院で学ぶ。博士(文学)。皇室の家族性や恋愛などを研究し、著書に「天皇家の財布」(新潮社)、「近代皇室の社会史―側室・育児・恋愛―」(吉川弘文館)などがある。
オリジナルサイトで読む : ハフィントンポスト
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