聴こえない親の子として生まれ「手話通訳士」になった。彼が見つめた、ろう者の現実。

CODAの手話通訳士との出会い

2021年2月、聴こえない親に育てられる聴こえる子ども、CODA(コーダ、Children of Deaf Adults)を育てるろう者の親に向けて、講演する機会があった。CODAとしての実体験に基づいた、ろう者の親たちに対するメッセージを伝えてほしい、とのことだった。

快く引き受けたものの、ぼくは日常会話レベルの手話しかできない。聴こえない親との関係や、CODAとして過ごした幼少期に抱いた葛藤、苦悩、未来への希望、そういったセンシティブな内容を手話で正確に伝えられる自信がない。悩んだ結果、手話通訳士を手配してもらうことにした。

当日、現場に来てくれたのはふたりの男性手話通訳士だった。事務局の方は、ぼくに合わせて、男性でCODAの手話通訳士を手配してくれたという。

無事に講演が終わり、ひとりの手話通訳士と駅まで一緒に帰った。同じCODAであることに加え年齢が近いこともあり、互いの境遇などで話が弾んだ。

「機会があったら、もっと深い話をしましょう」

そう言って、ぼくらはターミナル駅で別れた。

手話通訳ができる男性は少ない。これはしばしば耳にする話だ。なぜ彼はそれを仕事にしたのだろうか。やはり、CODAとして生まれたことが関係しているのだろうか。

新型コロナウイルスにまつわる記者会見を機に、以前より手話通訳士の存在が注目されるようになった。でもその仕事について、まだまだ知られていない部分も多い。そこでぼくは、彼に話を聞くことにした。

 

「偉いね」「大変だったね」と言われて

講演でぼくの通訳をしてくれたのは、神奈川県に住む岡田直樹さん。厚生労働大臣認定の「手話通訳士」の資格を持ち、現場での通訳業務に励む一方で、さまざまな場所へ手話通訳者さんたちを派遣するコーディネーターとしても活動している。

岡田さんは、ろう者の両親のもと双子の兄として生まれた。弟も聴こえるため、岡田さんの家にはふたりのCODAがいたことになる。当時、そんな家庭環境をどう捉えていたのだろうか。

「ぼくと弟は聴こえて、両親は聴こえない。それが当たり前だったので、『他の家庭と違う』とネガティブには捉えていませんでした。小学生になると友達が遊びに来るようになって、それからなんとなく親の耳が聴こえないことを意識するようにはなりました。でも、友達から指摘されたこともなかったんです。『うちの親、耳が聴こえないんだ』と打ち明けると、みんな『あ、そうなんだ』と軽く受け止めてくれて」

「親の代わりに電話に対応するなど、通訳のような役割を果たすことはありました。でも、弟がいたので交代でやっていて、嫌だなと思うこともなかったですね。中高生になると思春期というのもあって(親と)喧嘩もしましたけど、基本的には助け合っていたと思います」

しかし、親が聴こえないことではっきりと嫌な思いをした瞬間があった。それは岡田さんが大学生になったときのこと。

岡田さんの家庭では、口話を織り交ぜた限りなく日本語に近い手話が主なコミュニケーション手段だったため、一般的な日本手話を身につける機会がなかった。

それでもコーダとして生まれたからには、ろう者とも話せるはず。そう思っていた岡田さんは、ひとりのろう者に自分の手話が通じないことにショックを受けたという。

一念発起し、手話の講習会に通い始めることに。そこで嫌な出来事が待ち受けていた。

「通い始めた講習会で、親の耳が聴こえないことを打ち明けたんです。すると、周囲の人たちから『偉いね』『大変だったね』という言葉をかけられて。耳の聴こえない親のもとで育ったことは大変なことなのか、偉いことなのか……。悪気はなかったのかもしれないけど、その言葉がとても嫌でした。どうしてそんなことを言われなくちゃいけないんだろう、と」

CODAとして生まれたことで、周囲から色眼鏡で見られてしまうことは多い。ぼく自身、何度も何度も「可哀想に」「頑張っていて偉いね」などと言われてきた。その言葉はCODAの生い立ちを労うためのやさしさから来るものかもしれないが、CODA自身を追い詰めてしまうこともある。

 

CODAの手話通訳士として自信が持てた、母の言葉

それでも、岡田さんは手話を身につけるために講習会に通い続けた。そして大学卒業と同時に、横浜市の手話通訳者の試験に合格。その後、埼玉県で働くことになり、埼玉県の手話通訳者試験(自治体の認定資格)にも合格した。

「大学を卒業してから1年間は、横浜市の障害者施設でアルバイトをしていたんです。その頃は、いまみたいに手話を仕事にすることが難しい時代でした。あくまでもボランティアという立ち位置で、そこでは手話を活かす仕事はできなかったんです」

「でも、せっかくならば手話を活かしたい。そう考えていた矢先、埼玉県内の社会福祉協議会で専任手話通訳者を募集していて、思い切って転職しました。そこで手話を活かしながら働きつつ、3年後には(厚労省認定の公的資格である)手話通訳士試験にも合格することができたんです」

岡田さんは現在、地元の神奈川県に戻り、手話通訳士として活躍している。 

同級生に手話を笑われたことがきっかけで、手話を恥ずかしいものと感じていた期間が長かったぼくからすれば、CODAとして生まれたことを前向きに捉え、手話と向き合い、仕事に活かしている岡田さんの生き方には敬意を覚える。

けれど、手話通訳士として働くなかで、岡田さんも葛藤を感じることはあった。

「手話通訳士として働いていると、『どうして手話を覚えたの?』と訊かれることが多いんです。必然的に、自分がCODAであると打ち明けることになります。すると『だから上手なんだね』『だから若いのに通訳士になれたんだね』と言われてしまう。そうじゃない。ぼくも苦労して手話を学んできたのに、努力がわかってもらえない。それが苦しかったんです」

「でも、あるとき母親から、『直樹は手話がほとんどできなかったのに、一生懸命努力して覚えて、手話通訳士にまでなれたんだよね』と言われたんです。その瞬間、身近に認めてくれる人がいるなら、それでいいじゃないかと思えるようになりました」

努力を見守ってくれた母の言葉のおかげで、岡田さんはCODAの手話通訳士であることをポジティブに捉えられるようになったという。

 

ろう者の生きづらさ、働く環境をめぐる現実

岡田さんが手話を仕事にするようになって15年。長いこと手話の世界に身を置き、大勢のろう者と接してきて、きっとぼくよりも見えている現実があるのだろう。訊いてみると、岡田さんは少し悲しそうに口を開いた。

「ろう者が抱える生きづらさはまだまだ変わっていないんだな……と感じる瞬間が多々あるんです。たとえば、ろう者が退職をするための手続きに同行することがあります。すると、円満退社ではないことが多い。聴こえる人たちのなかで働くろう者はコミュニケーション面でのストレスを抱えがちなんです」

「同僚の聴こえる人たちは、筆談などでサポートしてくれる。でも、業務に関係ない、何気ない雑談はわざわざ筆談で伝えないですよね。そういう些細なことの積み重ねが、ろう者を寂しくさせ、孤立感を抱くことにつながってしまう。結果、退職を選んでしまうんです」

岡田さんは、「もっと早い段階でそのすれ違いを取り除くことができたら、と何度も思いました」と吐露する。

たしかに、同僚が楽しそうに話しているなか、意味もわからず眺めているのは、とても寂しいことではないだろうか。取り残されているような気持ちになるかもしれない。もちろん、聴者は決して悪意があるわけではないのだと思う。

でも、ほんの少しだけでもろう者の気持ちを想像できたら……小さな不幸の積み重ねは減らせるはずだ。

 

ろう者の人生に寄り添う、手話通訳士の仕事

岡田さんは、ろう者が抱えるハードルも目の当たりにしているという。

「病気が手遅れになってしまうケースもあります。定期検診に行っていても、手話通訳がいなければ、ろう者は自分の不調を正確に伝えられない。いよいよ手話通訳の同行のもと、診察に行くと、すでに手遅れになっていることが少なくない。もう少し早く、ぼくらを呼んでくれていたら治せたかもしれないのに……。社会から孤立してしまうろう者を見ると、とてもつらくなります」

その反面、とてもうれしい瞬間もあるそうだ。

「結婚式で通訳をしたことがあるんです。新婦の母親がろう者で、式の終わりに新婦が“お母さんへの手紙”を読みました。その通訳をしたら、母親が泣いたんです。手話通訳は、ただ情報を伝えるだけの仕事ではありません。感情も乗せなければいけないんです。だから、その母親が泣いてくれたときは、ぼくの手話がきちんと伝わったんだと思い、自信にもつながりました。そのとき、ぼくも泣いてしまったんです(笑)」

手話通訳士として、もっとできることがあったのではないか、と落ち込むこともあれば、自分の通訳でろう者の心を動かせたときにはこれ以上ない喜びを感じることもある。

いま、岡田さんは手話通訳士という仕事に誇りを持っている。

「実は、手話通訳を目指す人は高齢化しています。もちろん、それは否定しませんが、手話の技術を高めたいのであれば、若いうちから手話に触れる機会があった方がいい」

「だから、いまの10代20代の子たちが、手話通訳の重要性、醍醐味を理解して、『手話通訳をやってみたい』と思ってもらえる環境を作りたい。手話通訳ってカッコいいじゃんって思ってもらえるよう、頑張っていきたいと思っているんです」

岡田さんの話を聞いて、あらためて手話通訳者、手話通訳士の存在の大切さを知ることができた。彼らはまさに、聴こえる世界と聴こえない世界をつなぐエキスパート。誰ひとり取り残さない社会を実現する上で、欠かせない存在なのだ。

五十嵐 大 

ライター、エッセイスト。両親がろう者である、CODA(Children of Deaf Adults)として生まれた。2020年10月、『しくじり家族』(CCCメディアハウス)でエッセイストデビュー。最新刊は『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』(幻冬舎)。

(編集:笹川かおり

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Source: ハフィントンポスト
聴こえない親の子として生まれ「手話通訳士」になった。彼が見つめた、ろう者の現実。

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