11月26日に公開されたディズニー最新作『ミラベルと魔法だらけの家』は、ディズニーの長編アニメーションとして節目となる60作品目だ。
「多様性」をテーマに大ヒットを記録した『ズートピア』(2016年公開)でメガホンを取ったバイロン・ハワードとジャレド・ブッシュ監督が今作で描いたのは、家族の崩壊と修復の物語。
昨今のディズニー作品は公開される度に“新たなヒロイン像”が注目されるが、今回のそれはとても斬新で、かつ衝撃的なものだった。なにせ、ミラベルは主人公なのに家族の「集合写真」に入れない。
だからこそ、そんな彼女が大家族の中で自らの存在を肯定されてゆくまでの過程は惹きつけられるものがある。作品を通じて、ミラベルが伝えてくれたものは何だったのか考えた。(※ここから先は映画の内容に触れています)
従来のディズニー作品と異なる“真逆”の設定が斬新
今作の舞台は南米の国・コロンビア。物語の主な登場人物は魔法の力に包まれた不思議な家に暮らす陽気な「マドリガル家」で、主人公・ミラベルの祖母アルマを年長者として総勢11人が同じ屋根の下で暮らす大家族だ。序盤は南米特有のリズミカルで愉快な音楽とともに物語が展開されていく。
その家族が住む家(カシータ)にある日、大きな亀裂が入る。それをきっかけに家族が崩壊の危機に陥る中、魔法の力を持たないミラベルが一家の運命を握るというストーリーだ。
まず、家族の構成を見ると、肌の色も含め多様な人たちが集まっていて、多種多様な動物たちが共存する世界が描かれた『ズートピア』との一貫性を感じさせる。
マドリガル家は全員が“魔法の才能(ギフト)”を持ち、ミラベルだけが唯一、魔法の力を持っていなかった。ディズニー作品は元来、主人公が自らの魔法の力で誰かを救うか、または救われる物語が圧倒的に多いが、その点で見れば今作は「真逆」だ。
両親と幼いアントニオを除く家族からは、魔法を持っていないことを理由に家族の構成員としての存在意義を認めらず「仲間外れ」にされ、葛藤に苦しむ。その背景があるからこそ、ミラベルというヒロインの奮闘は見る人の心を打つ。
物語の序盤、一家は「家族写真」を撮る。だが、そこにミラベルの姿はない。そのシーンは、ファミリーエンターテイメント性の高いディズニー作品だからこそ印象的で、強く目に焼き付く。彼女が居たのはカメラの後ろ側。魔法を持っていないことを理由に疎外されている様はなかなか衝撃的だ。
劇中で、彼女が言うこんなセリフがある。
「家族の誇りになる」
この一言は、表面的には家族の一員でも、本当の意味では家族(特に祖母から)と認められていない彼女の強い意志を感じる言葉だが、本来、家族というものは存在しているだけですでに誇りであるべきではないだろうか。
ミラベルの姉の「外見の変化」が伝えてくれるメッセージ
各々が異なる魔法の力を持つことで個性豊かなマドリガル家の人々は、愉快で、見ていて面白い。だが、どこかスッキリしない部分もあった。その“モヤモヤ”の正体はすぐに分かる。家族のうちの何人かは、共通したある“プレッシャー”を感じて生きているということだ。
そのプレッシャーを与えているのが、皮肉にも親族である祖母だったというのが、またもどかしい。
祖母のアルマは、魔法の力を絶やさず一家の繁栄を永遠のものにすることを目指し、家族に対して「完璧である」ことを求めていく。ミラベルの2人の姉は、特にその期待に応えようと生きている。
魔法の力で力持ちになった次姉のルイーサは、力が無くなったら「価値がない」と思い塞ぎ込み、プレッシャーに押しつぶされそうになる。そんな気持ちをミラベルに吐露する場面もある。
一方、長姉のイサベラは物語の序盤は絵に描いたような“ディズニープリンセス”だ。自身に与えられた「花の魔法」を駆使して、美しく可憐に生きる完璧な女性。まるで対照的なミラベルとの関係性は序盤から良くない。
祖母が家族の存続のために気に入っている男性と結婚させられようとしているのも非常に前時代的で、旧来のディズニー作品で描かれてきた過去のヒロイン像を踏襲している。
#ミラベル にとって
姉・イサベラはいつも完璧な存在🌺✨そんな二人の関係性、実は……⁉️
いつでも完璧で美しいイサベラの
ちょっと意外⁉️な姿は劇場でチェック👀『#ミラベルと魔法だらけの家』
🌈11/26(金)劇場公開🌈pic.twitter.com/fFahkxvc8C— ディズニー・スタジオ(アニメーション)公式 (@DisneyStudioJ_A) November 24, 2021
ところが彼女は、毛嫌いしていたミラベルと話し込んだことをきっかけに、「本当に自分が求めている姿」に気づく。そこから、彼女の身なりは瞬く間に変わってゆく。変貌を遂げた後の姿は何にも縛られていない自由な存在。それが、ディズニーが今作でイサベラの見た目に吹き込んだ1つの重要なメッセージと言えるだろう。その変わり様は一見の価値がある。
イサベラが“自分らしさ”を追求し自らの意志を反映して表現していく様は、どこか『アナと雪の女王』のエルサにも通ずるものがあると筆者は思った。その点、ディズニー映画はやはり作品を超えた繋がりが改めて深い。
ちなみに外見の観点では、ミラベルの様に眼鏡をかけたヒロインはディズニー長編アニメーションでは初めてではないかと話題となり、その姿も新鮮に映る。
魔法が使えないミラベルに備わっていたもの
今作の最大の問いは「なぜ、ミラベルは魔法を使えないのか」というもの。
物語の終盤で、マドリガル家の人たちはそれぞれが持つ魔法の力も弱まって使えなくなってしまう。一家に危機が訪れる中、その窮地を救おうとしたのが主人公のミラベルだった。
ミラベルは、魔法の力を持たないことで彼女を家族の一員として認めてこなかった祖母と衝突する。「(家族のことを)分かっていないのはおばあちゃんだよ!」というセリフは見ていてとても切ない。祖母は祖母で、自身の考えのもとに家を必死に守ってきたという背景が描かれているからだ。
「何か」に依存して生きていると、それが絶対的であればあるほど、それが無くなったり、崩れたりした時には凄まじいほど脆い。今作ではそれが「魔法の力」だった。
この作品に惹き込まれた理由の一つは、魔法を「絶対的なもの」としてだけでなく、「危ういもの」としても描いていたからかもしれない。(ちなみに、2014年公開の『アナと雪の女王』でも序盤、エルサの強い魔法が人々を怖がらせてしまうものとして描かれている)
作品の中で失われていく魔法の力を描くことで、何か特定の能力や存在に頼り過ぎることの危うさを訴えているようにも筆者は感じた。
そしてこれは、別にフィクションに限った話ではない。私たちが生きる社会でも当てはまるシーンはいくつも想像できる。例えば、お金や肩書き、家族や恋人・信頼できる組織の上司の存在などもそうだろう。依存し過ぎると、それを失った時の怖さはある。
魔法の力に頼ってきたマドリガル家の多くの人々とは対照的に、ミラベルは「自分は魔法が使えない」という葛藤を抱えながらも、何かに依存することなく、自分の意志と周囲との調和を大切にしながら生きることが出来ていた。
だからこそ、2人の姉やその他の家族たちは彼女には最終的に本音を話せたし、コミュニケーションを取ることができた。ミラベルは物語の中で、絶妙な“バランサー”として、魔法に頼りすぎて崩壊していく家族を見事に繋いでいたのだった。
大家族の危機に必要だったのは魔法の力ではなく、ミラベルがすでに持っていたこの素養だったのだろう。それゆえ、ミラベルには魔法の力が必要なかったのかもしれないと筆者は思った。
物語の最後にはミラベルにも“奇跡”が起きる。そして、彼女のおかげで関係が修復した大家族は再び、一台のカメラの前に勢揃いで立つ。そこで撮られた一枚の写真には、この映画が伝えたいメッセージが確かに表れていた。
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家族の「集合写真」に入れないヒロインって正直ツラい。だから、ディズニーが最新作で描いた家族の修復の話は心に染みる