「失われた30年」のアンハッピーセット〜自己責任、差別やヘイト、そして石丸・斎藤現象まで

石丸伸二氏

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来年の1月27日、私は50歳の誕生日を迎える。

しかも来年はデビュー25周年。ということで、1月27日夜、ロフトプラスワン(東京・新宿)にて「雨宮処凛生誕50年&デビュー25周年大感謝祭」を開催予定だ。

また、来年はそんな「記念の年」として、1年間にわたり祝祭&パーリナイな感じでいこうと思っている。

生きてるだけでつらくて死にたいことの方が多いのだから、たまにはこういう企画を立てて自分を盛り立てようという魂胆だ。というか、誰も生誕半世紀もデビュー25周年も祝ってくれる気配がないので自分で計画しているのである。涙ぐましいではないか。

ということで、「祝ってやる」という珍しい方がいたら、イベントや講演の企画を立ててくれれば全国できる限り駆けつけたいと思ってるのでよろしくお願いしたい。

さて、なぜこれほど50歳になることを強調しているかといえば、「祝って」という思いとは別に、「とうとうロスジェネの私が50歳になるんだぞ」と吹聴したいという思いもある。

現在、ロスジェネはざっくり言うと40代前半から50代前半。が、苦境が始まったのは遥か昔、1990年代前半のバブル崩壊による就職氷河期からだ。

思えば当時は携帯電話もなく、「ポケベル」を題材としたドラマ「ボケベルが鳴らなくて」(1993年)がヒットしていた頃。今の若者からすると、もう旧石器時代みたいな“いにしえ”である。

そんな時代に社会に出ることになった当時の若者たちが30年間も放置され、令和の今、続々と50歳という大台に乗っているのである。その中には30年間ずーっと不安定雇用という人もいれば、ずーっと年収200万円以下という人もいる。望もうとも正社員になれず、結婚・出産を望んでも叶えられなかった人も大勢いる。もう、政治の無策を通り越して加害という言葉が浮かんでくるではないか。

そんな2025年は、1995年から30年という節目の年でもある。

私が20歳を迎えたこの年は、1月には阪神淡路大震災があり、3月には地下鉄サリン事件が起き、8月には戦後50年という怒涛の年だった。

それだけではない。『エヴァンゲリオン』の放送が始まり、『ゴーマニズム宣言』で薬害エイズの問題が取り上げられ、現国会議員の川田龍平氏が薬害エイズ当事者として実名公表へと踏み切り、サリン事件によってセキュリティ強化が叫ばれた監視社会元年でもあった。カルトや洗脳という言葉が流行り、世紀末に向けたカウントダウンが「ハルマゲドン」という言葉とともに本格的に始まり、「援助交際」という言葉が登場し、「終わりなき日常を生きろ」と社会学者が唱えた年。

また、この年には日経連の「新時代の日本的経営」という報告書が発表されている。

1995年に発表されたこの報告書は、労働者派遣法と並んでこの国の雇用破壊の元凶と言われている。

内容は、というと、これからは働く人を3つに分けましょうという提言だ。

ひとつ目は正社員にあたる「長期蓄積能力活用型」。幹部候補生みたいなもの。

次は高度な専門職である「高度専門能力活用型」。むっちゃスキルを持ったスペシャリストというイメージ。

そして最後が「雇用柔軟型」。聞こえはいいが、当初から「死なない程度の低賃金の使い捨て労働力を増やすつもりか」と批判されてきた。

バブル崩壊から数年後に出されたこの報告書により、不安定雇用はどんどん拡大。2004年には製造業派遣も解禁され、1995年には1001万人、雇用者の20.9%だった非正規は、2022年には2101万人と倍増。非正規雇用率は今や4割に迫る勢いだ。

さて、そんな1990年代から今に至るまでが「失われた30年」と言われるわけだが、ロスジェネはその期間が20歳から50歳まで丸かぶりしたという、これ以上ないほどの貧乏くじを引いた世代である。

よって同世代には、親世代が手にしてきた就職や結婚、出産、子育て、ローンを組んで家を購入などのすべてを手にしていない人も多くいる。私もその1人だ。

一方、この30年は、日本社会がじわじわと貧しくなっていった年月でもある。

他の先進国の賃金上昇を尻目に日本だけが上がらず、また韓国に平均賃金を抜かれ、GDPを中国、ドイツに抜かれて2位から4位になった30年。

そうして日本が貧しくなる中で、この社会には「金に余裕がなくなると心にも余裕がなくなる」を地でいく世界が広がっていく。

それを象徴するのが、バッシングやヘイトだ。

2000年代前半には公務員バッシングが始まり、2012年には生活保護バッシングの嵐が吹き荒れた。2016年には神奈川県相模原市の障害者施設で元職員が入所者19人を殺害する事件が発生。障害者へのヘイトクライムと言われたが、逮捕された植松聖が発した「日本は借金だらけで財源がないんだから障害者を生かしておく余裕などない」などの言説は、SNSで一定数の人に支持された。その後、ベビーカーヘイトをはじめとする子連れヘイトが広まり、ここ最近は高齢者ヘイトが渦巻いている。

そんなものを見ていると、公的ケアの対象になりえる人々が、「自分より楽して得して怠けて」おり、自分たちの税金を食い潰しているという「被害者意識」に辿り着く。

考えてみれば、普通に働く人たちが「病気も障害もないのであれば自己責任で勝ち抜いてください。それができなかったら野垂れ死にで」という脅迫を24時間365日受け続けているような社会なのだ。

ひろゆき論」で知られる伊藤昌亮氏は「あいまいな弱者」という言葉を使っているが、あいまいな弱者による「弱者」バッシングは、手を変え品を変えこの30年近く繰り返されてきたわけだ。

さて、そんな「失われた30年」における殺伐とした状況の背景には、「自己責任」を強調する風潮があると言われ続けてきた。

その言葉はイラク人質事件の起きた2004年に当時の小泉首相から発されたものだが、その言葉を聞くずーっと前から、私たちは「自己責任」という現実を痛感していたのも事実である。

例えば1995年に20歳だった私は、1990年代後半から2000年代にかけて、多くの友人知人の自殺を経験している。

フリーターだったり正社員だったりと立場はさまざまだ。

だけど中には成果主義導入の果てに職場いじめがひどくなって鬱になった人もいれば、長時間労働で心身を破壊された人もいた。就活に失敗し、アルバイトを始めたものの親から「いつまでダラダラしてるんだ」と罵倒され通しでもう限界、という人もいた。

そして私も19歳から24歳までのフリーター時代、何度も手首を切っている。一度などオーバードーズで救急車で運ばれ、胃洗浄を受けてもいる。フリーター生活の先が見えなすぎて貧乏すぎて、これから先の生き方がわからずに募るばかりだった自殺願望。だけど当時は、それらすべてが「自分の心の弱さの問題」だと思ってた。

そうして小泉元首相が「自己責任」なんて口にする前から、この国では、最悪の自己責任の取り方が流行り始めていた。2003年からのネット心中だ。2004年にはその死者は100人に迫るほどになり、また男女7人でのネット心中事件が大きく報じられてもいる。

この社会でうまく立ち回り、上手にサバイブしないとあっという間に自殺にまで追い込まれる──。そんな現実が間近にあった私にとって、小泉氏の「自己責任」という言葉は、残酷な現実を言い当てるものであり、どこか腑に落ちた気分にもなったのだった。この地獄にふさわしい名前が与えられたというような。それほどに、私の周りは死屍累々だった。

だけど、安定層や上の「階層」の人には私たちのいる地獄が全く見えていない。

それが当時の私の心象風景だったが、その状況は、現在さらに深刻になっている。

格差はより開き、普通に働くにも賃金は上がらないしロクな求人はないし税金も社会保険料も物価も高いし日本は貧しくなるばかりだし、会社すらマトモな給料を払えないからと副業を奨励し、国は投資などで各自がサバイブするしか生き残る道はないと宣伝している。そして日々、闇バイトで逮捕される若者たち。

そんなふうに日本を貧しくした自民党もひどいけど、ではリベラル側がどうだったのかと言えば、新NISAに唯一の希望を見出す若者や、あるいは困り果てて闇バイトに手を出す層に、全くその声も活動も届いていなかったというのが現実ではないかと自省も込めて、思う。

そういう中で、石丸現象が起きたり斎藤知事が再選したりするのは、ある意味で当たり前のことだと思うのだ(SNSのデマなどは非常に問題であることは当然として)。というか、今年の石丸現象以降、私は「リベラルに何が足りないのか」を、ガチで、ずーっと考え続けている。そしてこれが今、一番考えなければならないことだとも思っている。  

さて、最後に、そんな1995年について、私が2008年に書いた文章で、締めたい。

2008年に出版された『1995年 未了の問題圏』(中西新太郎編・大月書店)の「はじめに ようこそ! 『バブル崩壊後の焼け野原』へ」からの抜粋だ。

そんな95年、私は焼け野原にたった一人で放り出されたような気持ちだった。目に見える風景はまったくの日常なのに、そこは紛れもなく「廃墟」だった。ビルも街も以前と変わっていないのに、それを下支えする土台そのものが崩れ落ちているのだ。そんなバブル崩壊後の瓦礫の山の上を、どっちに向かっていけばいいのかもわからずにがむしゃらに歩き出そうとしては、躓いていた。
 (中略)
あのとき、私は具体的に何をしていたのだろうか。この原稿を書くにあたって、当時の手帳を読み返してみた。そうして、愕然とした。そこには、「〇〇君とデート」「××君とデート」「△△君とデート」という文字の羅列ばかりだったからだ。
「楽しかった」デートの描写と、ハートマークのみで埋め尽くされたキラキラした手帳。
あれほど苦しかったはずなのに、そこには「辛い」とも「苦しい」とも一言も書いていないのだ。リストカットのことも、オーバードーズのことも。そしてオウム事件のことも阪神大震災のことも、あれほど衝撃を受けた戦争のことも、本当に、何ひとつ。
そこには、くだらないおしゃべりや恋愛ごっこやセックスで何かをずーっと先送りする、『リバーズ・エッジ』を地で行く世界が広がっていた。
私は、日記のように綴っていた手帳にさえ、嘘をついていた。毎日を楽しく過ごす、「終わりなき日常」に乗れている女子として、必死で「楽しい自分」を演出していたのだ。他でもない、自分自身に。
95年の手帳には、手帳の余白を恐れるようにして強迫的に誰かと会い続け、必要とされることを狂おしく求める、ちっぽけな20歳の私がいた。なんだか可笑しくなった。なんのことはない、私も恋愛ごっこで「今、ここ」にある巨大すぎる不安をごまかす「若い女」の一人だったのだ。あまりにも、平凡な。いろいろなことを頭が沸騰するほど考えながらも、結局は、目の前の誰かの欲望の対象になる、という承認にすがることでかろうじて生きていた95年。
そんな95年の手帳には、だけど小さな字で、「バイトをいきなりクビになった」と一言だけ、書かれていた。

今、私が考えているのは、この頃の自分に、どんな言葉が届くのかということである。

ちなみに20歳の私はこの2年後、右翼団体に入会しているのだが……。

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