「日本人!」と叫ばれ“故郷”で石を投げられた。反日感情と2つの国のはざまで。戦争に家族を奪われた、男性の思い

83年前の12月8日、太平洋戦争が始まった。

日本がはじめた戦争には、フィリピンやパラオ、ミャンマーなどに暮らす人たちも、巻き込まれていった。

人生を大きく変えられた人も少なくはない。戦中に家族5人を、日本軍、米軍、そしてフィリピンゲリラにより殺された、日系人の男性もいる。

14歳で孤児になった彼が戦後、日本に渡る決意をした理由とは。

前後編のロングインタビュー、後編をお伝えする。

(初出:BuzzFeed Japan News  2019年12月8日)

【前半はこちらから】少年は3カ国に家族を殺され孤児になった。憧れた兵隊にフィリピンの山中で言われた「撃ち殺せ」の一言。日系人が経験した太平洋戦争

寺岡カルロスさん

日本人の父親とフィリピン 人の母を持ち、フィリピンで生まれ育った、日系2世の寺岡カルロスさん(93)。

戦争中に家族5人を、日本軍、米軍、そしてフィリピンゲリラにより殺された経験を持つ。

戦争の末期は、家族で暮らしていたバギオから逃げ出し、ジャングルの中で逃避行を続けていた。最後まで残っていたのは、14歳の寺岡さん、そして10歳の妹、8歳のいとこだけだった。

終戦を知ることもなく逃げ続けていたが、そのうち敗戦を告げるビラが飛行機で撒かれ始めるようになった。

逃避行から約5カ月後の9月21日に投降、妹らと共に米軍の捕虜となった。

生まれ故郷で目の当たりにした反日感情

投降後に登録された、寺岡さんの顔写真と指紋がある捕虜名証

米軍に投降した寺岡さん、そして妹たちは写真と指紋を取られ、捕虜として登録された。

米兵が運転するトラックに乗せられ、ルソン島西海岸に位置するラウニオン州・サンフェルナンドへと向かった。

サンフェルナンドへと向かう途中、生まれ育った場所・バギオで休憩があったという。その時、寺岡さんが故郷で直面したのは、「反日感情」だった。

「バギオでちょっと休憩だといって止まったら、ハポン(=日本人の意)、ハポンといって石を投げられました。アメリカ兵が怒って上に向けて威嚇でバンバンと打ち、乗れ乗れと言われ、そこを去りました」

戦前はフィリピン全体で最大3万人と大きく栄えた日系人コミュニティで育った寺岡さんは、戦争がもたらした反日感情にショックを隠せなかった。

とはいえ、戦時中にバギオで見聞きした日本軍の憲兵隊らによる残酷な見せしめなどを思い返すと、戦後の反日感情も理解ができたという。

「憲兵隊ほど怖いものはなかった。日本人だって怪しまれると危なかった。見せしめで殺される、という話を聞いたこともありました」

寺岡さんの兄も、日本軍に協力していたにも関わらず、アメリカ製のタバコを吸っていたことからスパイ容疑をかけられ、憲兵隊に殺害されている。

「日本へ行く」という決断

サンフェルナンドに到着すると、仮の収容所があった。そこで3日ほど過ごすと、今度は列車に乗せられた。行き先はマニラのトゥトゥバンだった。

ラグナ州のカンルーバン収容所に辿り着いたのは、10月ごろのことだった。

そこで、寺岡さんは大きな決断を迫られる。「フィリピンに残りますか、それとも日本へ行きますか」と尋ねられた。

マニラ港には、捕虜として収容所に入っていた日本人や日系人を日本まで移送する、「引き揚げ船」が入港していたのだ。

寺岡さんは「日本へ行きます」と答えたという。なぜ、まだ見たこともない父親の故郷に、子どもたちだけで渡る決断をしたのか。

その時の心境をこう語る。

「バギオでは、石を投げられた体験があるので、バギオに帰ると殺されるかもしれないと思った。また親族の誰が残っているのかも分からない。なので日本に行くことを決断しました」

始めて踏む日本の地、ゼロからの生活

1945年9月、広島から列車に乗る人々

寺岡さんが、生き残った妹といとこの3人で乗った引き揚げ船が辿り着いたのは、広島の宇品港(現広島港)だった。

原爆投下の被害を受けてまだ3カ月ほど。周りの山が全て真っ黒で、驚いたことを覚えているという。

寺岡さんの父親の故郷は、山口県大島郡だ。広島から列車に乗り、住所だけを頼りにして、まだ会ったことのない祖父母の元へと向かった。

「家に着いて、私は宗雄の息子ですと言ったら、おじいさんが飛び上がって抱いてくれました。僕たちは当分、おじいさんのところで養ってもらいました」

「学校も行かせてもらいました。卒業した後はラジオの修理をし、今度は広島の呉に進駐軍がおったので、楽器店で技術人になって21歳になるまで働きました」

寺岡さんはフィリピンで生まれ育った経験からも英語が話せたために、重宝されたという。レコードなどを売って、生計を立てた。

「やはり無国籍はつらい」21歳での決断

日本で7年間を過ごした寺岡さんは21歳の時、再びある決断をした。フィリピン国籍を取り、フィリピンへ戻ることにしたのだ。

「父の戸籍には私の名前がありませんでしたから、無国籍でした。やはり自分の戸籍がないというのはつらいです」

フィリピンの1935年の旧憲法では、フィリピン人の母と外国人の父の間に生まれた子は父の国籍になることになっていた。しかし寺岡さんの名前は、父の戸籍には記載されていなかった。21年間、無国籍のまま生きていたのだ。

寺岡さんは「自分は日本人であると思っていた」が、父親も他界しており、当時、日本の戸籍に登載する手段が分からなかった。

一方、フィリピンの旧憲法では国籍を取る場合、21歳から3年間の間だけ、申請をして取得することができたのだ。

寺岡さんは再び、フィリピンへと向かった。

故郷で再び直面した、反日感情

寺岡カルロスさん

生まれ育ったバギオで寺岡さんを待っていたのは、フィリピン人からの強い反日感情だった。

故郷で、冷たい視線を向けられるのはつらかった。

「お前たちは日本人で、俺の親父を殺したじゃないか、と言われましたね。反日感情がひどく、時々、寺岡という名前を使わずに母親の苗字を使うこともありました」

戦後、日本人や日系人たちが所有していた家や財産は全て没収されていた。寺岡さんの実家も、例外ではなかった。

「危ないから、最初はフィリピンの親族と一緒に行動するようにしていました」

寺岡さんは現地で使われているイロカノ語を必死に思い出し、再び現地に溶け込み生活していけるように努めたという。

寺岡さんはその後、木材業などの会社を起こし、農業など手広くビジネスを展開。その後数十年間、ずっとフィリピンで暮らしている。

「日系人の力に」取り組んだ無国籍問題

無国籍問題の救済を訴える署名

寺岡さんがフィリピンに戻ってから、現在に至るまで取り組んでいる問題がある。日系人の無国籍問題だ。

自身が一時、無国籍状態だったように、現在でも約700人の日系人2世たちが無国籍問題に苦しんでいる。寺岡さんのように日本人の父親が亡くなった人もいれば、生き別れになってしまった人もいる。

寺岡さんが選択した「21歳から3年間、フィリピン国籍を選択できる猶予がある」という情報は日系人には知れ渡っていなかった。さらに戦後の混乱や貧困が重なり、多くの日系人は国籍を取得することができなかったのだ。

フィリピン国籍を取得できる3年間を逃した日系人たちは、その後ずっと無国籍で生き、80、90代になった現在もその問題は解消されていない。無国籍のまま、他界していく人も多くいる。

寺岡さんは、1999年に父の戸籍に名前を登載することができた。その間柄を証明する書類などが残っていたからだ。

一方、ほとんどの日系人は、戦火で出生証明書や両親の婚姻証明書などが焼けてしまっていることが多い。父親との間柄を書類で証明することが困難な状態だ。

無国籍問題を抱える日系人は、国籍がないという不便だけでなく「日本人の父親の子、日本人だと認められることはアイデンティティの問題」と話している

忘れられない「お言葉」

2019年10月末、東京都千代田区にある議員会館で無国籍の日系人の救済を求める寺岡さん

日系人連合会の会長や北ルソン比日基金理事長を歴任し、在バギオの日本国名誉総領事も務めた寺岡さん。

寺岡さんは2019年の10月末には、日系人代表団として日本を訪れ、日本政府に高齢化が進む日系人2世の無国籍問題について救済を求める署名や要望書を提出した

「最も忘れられない」と語るできごとが、2016年1月にあった。当時は天皇・皇后だった上皇ご夫妻が、マニラを訪問されたときのことだ。

マニラのホテルで、日系人や在留邦人らと交流されたご夫妻は、真っ先に寺岡さんの元へ足を運ばれた。そこで上皇さまは「大変ご苦労されたようですね」とお声をかけられたという。

寺岡さんが「戦争ですので仕方ございません」と答えると、上皇后さまは「日系人のお世話をよろしくお願いします」と話しかけられた。

マニラでの日系人たちとの交流で、寺岡さん(左)とお話される上皇ご夫妻

上皇さまは、マニラにある大統領府で行われた晩餐会でのスピーチで、このようなお言葉を述べられている。

昨年私どもは、先の大戦が終わって70年の年を迎えました。この戦争においては、貴国の国内において日米両国間の熾烈 (しれつ)な戦闘が行われ、このことにより貴国の多くの人が命を失い、傷つきました。このことは、私ども日本人が決して忘れてはならないことであり、この度の訪問においても、私どもはこのことを深く心に置き、旅の日々を過ごすつもりでいます。

日本の若い人たちに伝えたいこと

子どものころ、まだ戦争を知らない間は飛行機が大好きだった、寺岡さん。しかし戦後は「飛行機の音を聞くとドキッとするのが、何年も続いた」という。

「僕らも何回も死にそうになる体験をしておりますので、負け戦ほど残酷なことはありません」

特攻隊に憧れを持ち「日本人」として育ち、ジャングルの中で逃避行をし、米軍の銃撃で母親や兄弟を無くし、さらに兄2人も憲兵隊やフィリピンゲリラに銃殺された。

今年で93歳になる寺岡さんが、今の若者に伝えたいことがある。それは、しっかりと「歴史を学んでほしい」ということだ。

「若い人が歴史を学ぶということはとても大事なことです。戦争は絶対起こしてはなりませんから。歴史を、知ってください」

(取材・文=冨田すみれ子)

【前半】少年は3カ国に家族を殺され孤児になった。憧れた兵隊にフィリピンの山中で言われた「撃ち殺せ」の一言。日系人が経験した太平洋戦争

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「日本人!」と叫ばれ“故郷”で石を投げられた。反日感情と2つの国のはざまで。戦争に家族を奪われた、男性の思い

Sumireko Tomita