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撮影現場で「よーいスタート」と声をかけると、「女の監督の言うことが聞けるか」と、次々と照明を消されたーー。
日本の女性監督の歴史を追ったドキュメンタリー映画「映画をつくる女性たち」(2004)の中で、映画監督の故・渋谷昶子(のぶこ)さんはそんな経験を語っている。
日本の女性監督第1号と称される坂根田鶴子さんが監督デビューした1936年からおよそ90年。日本の映画界では女性やマイノリティの雇用が進まず、依然としてジェンダー格差は大きく開いたままだ。90年で何が変わり、あるいは変わっていないのだろうか。
第37回東京国際映画祭で新設された「ウィメンズ・エンパワーメント」部門の一環として、11月4日に開かれたシンポジウム「女性監督は歩き続ける」には、若手からベテランまで幅広い世代の国内外の女性監督が登壇。男性中心の日本の映画界における女性たちの奮闘を振り返りながら、格差をなくし、労働環境を改善するために何ができるか語りあった。
シンポジウムでは、「映画をつくる女性たち」の上映と、4部にわたるトークイベントが行われた。
20人ほどの監督・プロデューサーらへのインタビューで構成される「映画をつくる女性たち」は、1985年から2012年まで行われた「東京国際女性映画祭」(旧称:カネボウ国際女性映画週間)の第15回記念作品として制作された。
この女性映画祭でジェネラルプロデューサーを務めたのが、東京の名画座・岩波ホールの総支配人で、2013年に亡くなった高野悦子さんだ。高野さんは上映者として女性監督の作品を積極的に紹介し、若手の輩出にも尽力した。
第1部のトーク「道を拓いた監督たち」には、「映画を作る女性たち」監督の熊谷博子さんと、出演者の浜野佐知さん、松井久子さん、山崎博子さんが高野さんや女性映画祭の功績を語った。
浜野さんは「女の性を女の手に取り戻す」をテーマに300本超のピンク映画を作ってきた。自作を観せると「女性の視点がある」と評価してくれたという高野さんは、資金を集めるなど女性監督の応援に尽力した人だったと振り返った。
女性映画祭は「女性監督の居場所作り」という役割も担っているという。熊谷さんは「率直に話せる場が大事」だとし、浜野さんも「女性映画祭で評価されることが自信や力になった」とその意義を語った。
今も女性監督の割合は全体の1割ほどにとどまる。松井さんは観客に「うねりを作り出してほしい」と呼びかけ、海外でも活動してきた山崎さんは「日本はジェンダーギャップ指数が後ろから数えたほうが早い。そういう国に暮らしているのだと、まずは認識しなければ」と述べた。
第2部のトーク「道を歩む監督たち」では、「映画をつくる女性たち」を踏まえ、女性監督たちの繋がりや、子育てとの両立の難しさについて話し合った。
2000年代に監督デビューした西川美和さんは、「これまで女性の監督と知り合う機会が少なかった。直接会い話せていたら、自分の意識や歩み方も変わったのではないか。これを機に横の繋がりが生まれれば」と期待を述べた。金子由里奈さんは、女性だけではなく、障害のある人や性的マイノリティが映画作りに参画できる環境を整える必要性を訴えた。
トークでは、メディア取材や評論で頻出したという「女性ならでは」という言葉についても議論された。
「アンフェア」や「陰陽師0」など大規模な映画で監督を務めてきた佐藤嗣麻子さんは「プロデューサーから『女の情念』を書けと何度も言われた」と回顧。西川さんは「女性ならではの繊細な表現とよく言われたが、自分が女性だからといって、女性がうまく描けるとも限らない」とし、今では「女性監督の作品も増え、あらゆる題材を描いていいのだという風潮が浸透しつつある」と、変化も感じているという。
「映画をつくる女性たち」では、歴代の多くの女性映画人が、子育てと映画制作の両立で困難を抱えてきたことが明かされ、それは今も続く課題だ。
子育て中のふくだももこさんは、「すごい作品を撮っているのに、ある一定期間、作品が途切れる女性監督はたくさんいる。それには子育てが関係していると出産後に気づいた」と話し、岨手(そで)由貴子さんも「キャリアを続けていくためには個人の努力だけではなく、公的な支援が必要だ」と付け加えた。
第3部の「ウィメンズ・エンパワーメント」では、トルコ、香港、日本の監督が各国の女性監督の活躍について意見を交わした。
父から19歳で結婚するように言われるなど、映画監督を目指す道は厳しかったと振り返ったトルコ出身のジェイラン・オズギュン・オズチェリキさんは、「映画業界で女性が尊敬を受けるのはとても困難」だと吐露。香港出身のオリヴァー・チャンさんも、「意思決定層にいるのは男性が多く、女性に関するイシューにお金を出す価値を感じない人が多い」と構造的な問題を指摘した。
一方で、香港では新人監督を支援する制度が導入され、助成金など公的な支援の重要性を実感したという。フランスとの合作を経験した甲斐さやかさんは、「現場に子どもを連れてこられる環境や、シッターを雇えるお金をスタッフに提供したい」と今後の課題を述べた。
最後の第4部「女性映画監督の未来」では、第1〜3部までに登壇した日本の監督が集結し、再び女性監督の繋がりやキャリアを中心に話し合った。
浜野さんは、山崎さんらと女性の映画人が集まる会を開いていたが、コロナ禍で途絶えてしまったという。現場の作り方や技術なども共有できたことから、「もう一度女性監督たちが繋がれる形を、映画祭を中心に持てたら」と提案した。
西川さんも「監督に限らず、女性のスタッフが垣根なく集まれる機会が必要」だとコメント。金子さんは「監督だけが(取材などで)押し出される風潮があるが、プロデューサーや撮影監督にも光があたるべき」だと述べ、山崎さんも「日本は◯◯監督と呼ぶが、アメリカではファーストネームで呼び、フラットな関係。日本でもそういう組織があってもいいのでは」と話した。
「映画をつくる女性たち」では、映画制作のための資金繰りの難しさも語られる。熊谷さんは「才能と意志があっても、家庭のこと、お金のこと、色々な苦境が訪れる。そういう人たちが作り続けられる環境を作っていくことが大事」だと訴えた。ふくださんは「どうにかして子育てと、映画を作ることをつなげたい。それができなかった時代もあり、だからこそ女性監督はこんなに少ないのだと思う」とし、後進のためにも映画を作り続けたいと話した。
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7時間におよんだシンポジウムには、登壇者や来場者が子どもを預けられる託児所も設置された。会場はほぼ満席で200人以上が来場したという。
シンポジウムを企画したのは、元助監督で現在は現場スタッフのマネジメントを行う近藤香南子さん。「映画をつくる女性たち」に登場するドキュメンタリー作家・羽田澄子さんの「感じた人は行う責任がある」という言葉に背中を押されて企画したと明かすと、会場からは大きな拍手が送られた。
日本で今開催されている女性映画祭は「あいち国際女性映画祭」などで、その数は少ない。今回のシンポジウムは、子育てとの両立など映画界で女性がキャリアを築く際の様々な課題を議論するとともに、女性映画祭が、女性の映画制作者たちの連帯の場として大きな役割を担ってきたことも浮き彫りにした。
(取材・文=若田悠希/ハフポスト日本版)
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日本の女性映画監督、約90年の歴史と今の課題は。シンポジウム「女性監督は歩き続ける」レポート