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10月11日、福島県双葉町のJR双葉駅に降り立った。駅西側には綺麗な災害公営住宅が立ち並び、東側には双葉町役場の新庁舎が建っている。
全国紙の記者として同町を担当していた2014〜16年、私はこの光景を想像できていただろうか。駅周辺を自由に歩けることに感動しつつ、東日本大震災・原子力災害伝承館に向かうシャトルバスに乗車した。
運賃200円を払い、窓の外を見ていると、物干し竿にかかったピンク色のバスタオルが気持ちよさそうに風になびいている。新築と思われる民家の庭には冬に備えるための薪がびっしりと積まれてあった。
東京電力福島第一原発事故で全町避難し、駅周辺の避難指示が解除されたのは事故から約11年半後の22年8月。今も町内の多くは帰還困難区域だが、約2年間の月日が流れ、少しずつ「人の営み」を感じられるようになった。
ただ、バスに揺られながらこんな思いも芽生えた。「自分が見てきたものをこの綺麗な光景だけに上書きしてしまってもいいのだろうか」ーー。
国道6号沿いに生えていた背丈ほどのセイタカアワダチソウ、両脇に設置されていた立ち入り禁止の柵、時が止まったように放置された商店や民家……。あの時の光景も同時に語り継がなければ、悲しみや苦しみだけでなく、これまでの復興の歩みまで忘れ去られてしまうかもしれない。
この13年間で「災害記憶」のない新たな世代が社会に出る年齢になり、風化が一層進むという指摘も実際にある。
「着きましたよ」。ドライバーの声で我に返り、バスを降りて伝承館に入ると、大きな荷物を持った男性が「今日はよろしくお願いします」と現れた。
震災と原発事故の教訓や経験を後世に語り継ぐことの意味や大切さは何か。福島の教員を38年間務めた語り部の思いから考える。
「実はここから北を見ると家がありました。あの時までは。今はありません」
10月11日午前、福島県双葉町の東日本大震災・原子力災害伝承館。語り部の泉田淳さんは自宅があった方角に目を向けた後、新潟県から修学旅行で訪れた高校生らに向かって話し始めた。
13年前の3月11日、泉田さんは南相馬市の大甕(おおみか)小学校の教頭を務めていた。緊急地震速報が突然けたたましく鳴り響いたことから、校内放送用マイクのもとに走っていったという。
「児童の皆さん、地震がきます、地震が……」。こう呼びかけたところで激しい揺れに見舞われた。揺れは長時間にわたり、福島県の記録では同じ浜通りのいわき市小名浜で約190秒続いたとされる。
その後、沿岸部に大津波が襲来。大甕小は高台にあったが、海岸沿いに住んでいた児童5人が亡くなった。海からほど近い双葉町内にあった泉田さんの自宅も津波で大きな被害を受けた。
「皆さんが今いるここ、海になりました。津波がやってきたんです。時速30〜40キロほどと言われているからウサイン・ボルトより速いんですって。いろんな瓦礫を巻き込んでものすごい勢いでだーっとくるのが津波です」
福島県を襲った悲劇は地震、津波だけでは終わらなかった。原発事故が発生し、第一原発が立地していた双葉町は町ごと埼玉県に避難することになった。
泉田さんは「昔は飛行機が墜落しても(原発は)大丈夫と言われていた」と語り、故郷から追い出されるように避難した経緯について「まさか日本でこんなことが起きるなんて」と振り返った。
双葉町の子どもたちは事故後、避難所から埼玉県加須市の騎西小学校に通うことになった。泉田さんも11年4月から双葉町の小学校に赴任予定だったため、同小学校で共に過ごすことになった。
「私は教頭、校長として子どもたちと関わってきました。双葉の子どもたちが震災と原発事故後、どんな様子だったのかについてお話します」
こう切り出した泉田さんは、ある小学1年生の児童の話を始めた。
その児童は、避難所から100メートルほど離れた騎西小に集団登校で通う途中、見送る母親の姿が見えなくなるタイミングで毎日涙を流した。
その時の泣き方が「ええん、ええん」ではなく、「おぎゃあ、おぎゃあ」と生まれたての赤ん坊のようだったといい、泉田さんは「赤ちゃんに戻っちゃったんだね。私に何ができたのか。何もできないんだよ」と語った。
それでも「大丈夫、大丈夫」と声をかけ続けて手を差し出すと、児童は握り返してくれたという。「何が大丈夫なのか自分でもわからないんだけど、そのうち学校に行けるようになったんだ」
次は、小学6年の児童の話。勉強、運動、音楽も得意で、双葉では常に輪の中心にいるような児童だったが、避難先の学校でうまく馴染めず、不登校になってしまった。
「普通の転校だってなかなか大変なのに、被災者として入ったら難しいこともある。自分の理想とする姿、避難民としての姿、避難先にお世話になっている姿。悩んでしまってね、学校に来られなくなった」
泉田さんは放課後、毎日児童の自宅を訪問したという。エレベーターのない建物を5階まで駆け上がり、インターホンを鳴らして「元気?」と声をかけ続けた。
決して「学校に来てほしい」とは言わなかった。ただ声を聞きたかった。学校には来れなかったが、それから8年の月日が流れたある日、思わぬことが起きたという。
「20歳の成人式の日、その子が勤め先を訪れてくれたんだ。たまたま出社してなかったんだけど、その後の電話で『先生、私ね、今は福祉の勉強をしています』と胸を張って言ってくれたんです」
泉田さんは続けて、「電話だから本当に胸を張ってたかどうかはわからないんだけどさ」と照れくさそうに話したが、マスク越しでもわかる嬉しそうな表情を見て、話を聞いていた高校生らの頬も緩んでいた。
一方、小学2年の児童はこんな悩みを抱えていた。
放課後、図書室で勉強を見ていた時、「ここでは何を話してもいいの?」と泉田さんに聞いてきた。泉田さんが耳を傾けると、「双葉の家は大きくてね、おもちゃもいっぱいあって、庭に出るとザリガニが釣れたんだ」と話し始めた。
しかし、次第に表情が曇り、「その話は埼玉の友達には内緒にしているんだ」と声を落とした。児童は、「そんなに良い所なら帰ればいいじゃん」と言われることを恐れていた。
「小学2年生の小さい胸に、その苦しい思いをしまっていたんだね」
終盤、泉田さんは①地震から頭を守る②高台に逃げる③心を守ることの重要性を繰り返し呼びかけた。
まずは命を守ることが重要だが、「それで終わりではない。誇り、目標、自信、そういったものも守っていかないといけない」と力強く話した。
また、「原発事故でまき散らされたのは放射性物質だけでなく、恐怖、悲しみ、不安、避難の辛さ、いろんなものがあった」と述べた一方、「パンドラの箱の底には『希望』が残っていた」とも語り、高校生らにこう呼びかけた。
「皆さんには希望があり、皆さんこそが希望なんだ。だから希望を忘れずに頑張ってください」
泉田さんの講演後、生徒の1人は取材に「今生きているのは当たり前ではない。突然の災害で失われる命があることを再確認した」と神妙な面持ちで話した。
また、「災害を経験した人たちが教訓や思いを後世に伝えていくことは、自分たちの命を守ることにもつながるんだと実感した」と語り、「災害はいつどこで起きるかわからないので、今日聞いた話はしっかり覚えておきたい」と述べていた。
◇
1時間にわたって身振り手振りで伝えた泉田さんの服には汗がにじんでいた。
埼玉県加須市の後、福島県内の小学校を経由し、いわき市の仮校舎に移っていた双葉南小学校に2018年に赴任。校長を務め、20年3月に38年間の教員生活にピリオドを打った。
その翌月から開館準備中の東日本大震災・原子力災害伝承館で勤務を始め、開館後はアテンダントスタッフなどの仕事を担った。24年3月で一線から身をひいたが、現在も同館から語り部の仕事を請け負い、郡山市から車で通っている。
私が生徒たちの感想を伝えると、「良かったです」と少しだけ安堵した表情を見せ、伝承館で働き始めた経緯や語り部の重要性などについて語ってくれた。
「あまりつまびらかにしたくはないんだけど、震災時に勤めていた小学校で子どもたちが亡くなった。震災と原発事故のことを若者からお年寄りまで伝えていくことが自分のやるべきことだと思った」
講演で印象的だったのは、頭を守ること、高台に逃げること、心を守ることの重要性を何度も話していたことだった。泉田さんは「生き残った人たちはその後も大変なことがある。それが心を守ること。私たちだってまだ落ち着いたわけではない。どうしよう、この先って……」と述べた。
双葉町の多くの地域は帰還困難区域のままで、約7000人いた住民のほとんどは町内に帰還できていない。泉田さんも事故後、10回ほどの転居を経験しているという。
また、ちょうどこの日、双葉町内の被災家屋を遺構として保存するというNHKのニュースがあった。泉田さんは「災害の脅威を語り継ぐことはできるけど、持ち主は辛いかもしれない」と語り、過去の出来事を打ち明けてくれた。
「ある日NHKのニュースを見ていたら、現場からリポートするキャスターの後ろに津波で壊れた私の家がでかでかと映し出されたんだ。最初は『うちだ!』と声が出たけど、いつまでも映ってたら『さらしものだな』と思えてきてね」
「日本中のテレビに映っていると思うと悔しくて。でも伝えなければならないこともあるんだろうな。13年前のことを忘れないために。私個人としては他人の被災家屋を許可なく撮影することはしないと決めたんだけどね」
では、風化についてはどう見ているのだろうか。
泉田さんは「当然風化は進んでいるだろうね」と語り、「今日は紹介できなかったんだけど」とある絵本をかばんから取り出した。
絵本は「ぼくのうまれたところ、ふくしま」(作・絵=松本春野)。震災当時は赤ちゃんだった子どもが、避難先から“未知の場所”である福島県に戻るという内容だ。実はこれ、泉田さんの被災体験に基づいた物語だという。
「赤ちゃんの時に福島から埼玉に避難し、埼玉の幼稚園や学校に通い、自分は埼玉の人間だと思って生活していた子どもがいた。のちに彼は作文に『悲劇は突然訪れた』と書いたんだ」
「この悲劇というのは震災や原発事故のことではなく、両親が福島に帰還すると決めた時のことを指しているんだよね」
この子どもは福島に戻った後、当初はなかなか周囲と溶け込めず、暗い表情の日々が続いていた。しかし、いわき市の仮設校舎で授業を続けていた双葉町の学校に通うようになってからは、徐々に明るい表情を取り戻し、みるみるうちに元気になっていったという。
泉田さんは、「忘れたほうがいいこともあるのかもしれないが、忘れたらいけないこともある。悔しさだったり、虚しさだったり、惨めさだったり。子どもたちと一緒に励まし合いながら歩いてきた道のりをしっかりと伝えたい」と語った。
なお、東日本大震災・原子力災害伝承館と東京大学の共同調査は、震災と原発事故時に十分物心がついていなかった「災害記憶消滅世代」とそれ以上の世代の間に「認識の断絶」が生じている、と指摘している。
調査は「最低限の事実が共有されていないことが、今も被災地に残る課題の解決を困難にしている」とも言及しており、泉田さんたち語り部が自身の経験や考えを後世に伝えていくことはまさに福島の復興に寄与しているといえそうだ。
最後に、私は4年前のある新聞記事についても聞いた。「語り部は県の意向によってその発言を制限されている」という見方を誘発するような内容だった。
関係者によると、この記事が配信された後、伝承館には罵声を浴びせるような電話が多数かかってきたり、施設に反対する人が押しかけてスタッフに詰め寄ったりすることもあったという。
しかし、震災と原発事故の経験や教訓を語り継ぐ人がいなくなれば、泉田さんが講演で話してきたような福島の人々のアイデンティティまで忘れ去られてしまう日が来るのではないだろうか。
泉田さんは当時を振り返った。
「最も可哀想だったのは『発言を制限されている』という目で見られた語り部たち。自らも被災者でありながら後世に語り継ごうと活動している人もいるのに、蔑むような雰囲気になってきたからこれはいけないと思った」
「私も『なんでこんな施設で働いているのか』と言われて悔しかった。その時は、『展示物では足りないこと、私しかわからないこと、私が体験をしてきたこと』を自分の言葉できちんと伝えているんだよ、と返した」
では、伝承館についてはどうか。泉田さんは「まだ100パーセント完成された施設だと言えるわけではない」と前置きした上で次のように話した。
「親が展示物を指さしながら『あの時はね』と子どもに伝えている様子をよく見かけた。普段の生活ではなかなか話す機会はないけど、ここに来たから震災の経験を子どもに話せる。これも風化させない一つの方法なんだね」
そして、「語り部はそれぞれの立場からそれぞれの経験を話している。この施設の一番の特徴だと思う」と語り、次のように前を見据えた。
「双葉の子どもたちは、悔しかったこと、悲しかったこと、頑張ったこと、たくさんあった。語り部の話をきっかけに、震災のことを調べてくれたり、関心を持ってくれたりしたら嬉しいね」
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