「よっちゃん。もし内地に帰ることがあったら、おふくろに俺のマフラーを届けてくれないか」
第二次世界大戦末期の1945年5月、日本統治下の台湾・台北。当時14歳だった中田芳子さん(93)は、ある男性に頼まれた。
渡されたのは、白いマフラーと寄せ書き、家族写真。
男性は当時19歳。台北を本拠とする帝国陸軍第8飛行師団に所属するパイロットだった。与えられた任務は、自ら機を操り、敵艦に激突すること。いわゆる「特攻隊」だ。マフラーは軍に支給されたものだった。
そして、男性は二度と戻らなかった。
「特攻隊という仕組みは、なんて愚かしいものなんだろうと思う」
「戦争は絶対にあってはならない」
中田さんは今も、戻らなかった特攻隊員の思いをかみしめながら、平和の大切さを改めて訴えている。
(初出:BuzzFeed Japan News 2022年8月15日)
【動画】特攻隊員の“最後の日々”を共に過ごした14歳。彼女が語った青年たちの姿
日本の植民地だった台湾には戦前、多くの日本人が暮らしていた。中田さんの父親は20歳の頃に本土から台湾に移住し、台北で理髪店を営んでいた。
中田さんは満州事変が起きた1931年、10人きょうだいの6番目として台湾で生まれた。
小学校4年生の時、アメリカなどとの太平洋戦争が始まった。学校では「日本は神の国で、天皇は神様だ」と教えられた。
いわゆる「軍国少女」だった中田さんは、「当時は本当にそう思っていた。日本は正しい行動をとっていると思って疑うこともなかった」と話す。
しだいに戦争の足音は一家にも忍び寄り、兄3人は兵士として出征した。
米軍機の爆撃がたびたび台北を襲った。一家全員が入れる大きい防空壕を家の前の道路沿いに掘った。
特攻隊の存在をニュースで初めて聞いた時、「衝撃を受けた」と中田さんは振り返る。
「日本はそこまでもうダメなのかと思った。こんなことをしなくちゃならないくらい、もう負け戦に近いのかと思いました」
初めて特攻隊員に会ったのは、姉2人と共に、特攻隊の壮行会に慰問に行った時のことだ。
近所にあった料亭のお屋敷「梅屋敷」に、出撃前の特攻隊員らが宿泊していた。「特攻隊の人は台湾を知らないから、台湾の話をしてほしい」と、出撃直前の特攻隊員らの壮行会に呼ばれたのだ。
母は反対したが、中田さんはお酒を注がないことを約束して姉2人とともに、壮行会に足を運んだ。
学校で特攻隊は「神」のような存在と習っていたが、壮行会で酒を飲みどんちゃん騒ぎをする若い兵士たちに、「普通のお兄ちゃん」という印象を受けたという。
明るい性格の中田さんは、特攻隊員から「よっちゃん」と呼ばれ、少し歳下の妹のような存在として親しまれた。
梅屋敷の世話役の女性にも気に入られ、その後、中田さんは繰り返し特攻隊員を訪れ、交流を深めた。
壮行会で賑やかに騒いでいた特攻隊員たちも、後日会うと全く印象が違い、出撃前の悲しさや寂しさ、苦しみを感じたという。
1945年5月、中田さんに遺品を渡したのは、高田豊志伍長(当時19)だった。特攻隊員として沖縄方面に出撃するまでの間、台湾で飛行機が到着するのを待っていた。
沖縄では同年3月、米軍の上陸作戦が始まった。迎え撃つ日本軍は、多くの住民を巻き込みながら持久戦を繰り広げ、航空部隊や大和などをはじめとする艦船が次々と特攻に散った。沖縄から距離の近い台湾の基地らも、特攻部隊が飛び立っていったのだ。
高田さんとは、特攻隊員が空襲から疎開していた施設「台電クラブ」で知り合った。台湾電力の保養所だったというその施設に投宿し、待機していた。
中田さんと高田さんは出撃までの間、余暇にこっそりと映画に行ったり、ボートに乗って遊んだりした。
厳しくなる戦況の中、若い男女がともに出歩くことはご法度。憲兵に呼び止められてとがめられたこともあった。
それでも、限られた出撃前の時間を一緒に過ごした。
ぶっきらぼうな性格の高田さんが、中田さんの前で出撃前の複雑な思いを見せたのは、2人が台電クラブの前を流れる川でボートに乗っていた時だった。
「ボートに乗っていた時、すごく悲しそうな、まるで噛みつきそうな顔で私をにらみました。何を怒っているのだろう、とその時は思っていました」
「でもその日の夜、思い返していると『よっちゃん、僕は本当は死にたくない』って叫びたいのではなかったのではと思いました。そんな思いが溢れた眼差しだった」
中田さんは「この人だけは死ぬことはない」と思っていたという。
出撃命令が降れば死ぬんだと頭では分かっていても、雪国出身らしい高田さんの赤い頬や、ずうずうしくいじっぱりな姿を見ていると、「この人は死なない」と感じた。
「だからこそ、遺品を家族に届けてほしいと言われた時、軽い気持ちで『いいよ』と返せたんだと思います。出撃した日まで、ずっと彼は死なないと、なぜか思っていました」
中田さん自身も学徒勤労奉仕で、電波探知機妨害用の銀紙テープを巻き取る作業などをした。
今で言えば中学生。戦争さえなければ、友人たちとの日々を楽しむ年頃だ。
しかし夢や希望を語り合うこともなく、戦争一色だった当時を、こう振り返る。
「(高田さんと)自転車に2人乗りして、街の中をビュンビュン走らせながら楽しんでいるんだけども、この先に何か見えるかというと何も見えない。ただその刹那刹那を噛み締める。そういう喜びでしかなかったわけ」
おかっぱ頭の「お転婆娘」だったという当時の中田さん。まだ「恋愛」は少し遠い存在だったが、空襲も相次ぎ「明日」が保障されない時代、その日その日を噛み締めていた。
「本当の青春だったら、『この先』があるじゃない。それは全くなかったですね。みんなそういう時代でしたよね」
「卒業してどこの学校へ進むとか、普通だったら女学生はそういう話をする。でもそういうのがなかったですね。やっぱり。もうその日その日の戦争の勝ち負けで精一杯で」
高田さん以外にも、交流のあった特攻隊員が次々と出撃していった。
知っている人だけでも、12人ほどが命を落とした。
「昨日まで一緒に遊んでいたお兄ちゃんたちが日に日に減って突撃していくことは、ショックだった」
「死ぬことを前提に生きている若者なんだと考えただけで悲しかった。特攻は、本当に愚かしい」
高田さんをはじめとする特攻隊員や地上部隊の兵士、そして地元の住民の膨大な犠牲を生んだ沖縄では6月下旬、牛島満司令官らが自決。組織的な戦闘は終わった。
沖縄はその後27年、アメリカが統治した。今も多数の米軍基地を抱える沖縄県は、6月23日を「慰霊の日」と定めている。
戦争の終わりは、突然やってきた。
空襲がひどくなり、中田さんも母親や姉妹と台北郊外に疎開。学校の授業もなくなり、山や池で毎日「探検」をしてた。
8月15日。
いつもと変わらず遊びに出ていたら、帰宅後に母から終戦を告げられ、凍りついた。
「日本が負けるとは、少しも思っていなかった」
一家は、台湾でゼロから築き上げた全ての財産と思い出を残し、日本に引き揚げざるを得なくなった。
引き揚げの日、父親は大粒の涙を流し、わんわんと声を上げて泣いた。
一人で台湾へ渡ってから30年、身を粉にして働き、苦労して建てた鉄筋コンクリートの家も捨てざるをえなかった父の心痛は、計り知れなかった。
とはいえ、やはり台湾は日清戦争の結果、日本が1895年に支配権を握った「異国の地」だった。
日本へ持ち出せた荷物は限られていたが、高田さんから託された遺品は、引き揚げ船の中でも大切に持っていた。
高田さんが沖縄の方面に出撃することは聞いていた。
悪天候の中、荒れ狂う海で沖縄周辺を通った時、一緒に引き揚げ船に乗っていた姉が「高田さんたちが沈んでいるのはここらへんだ」と言って、中田さんを起こした。
2人は船の甲板に出て、雨に打たれながら、高田さんや仲間の特攻隊員の名前を泣きながら叫んだ。
戦争中とはいえ、親しくしていた人が飛行機ごと突っ込んで死んでいくという事実は、14歳には受け止めきれなかった。
知覧特攻平和会館によると、高田さんは1945年5月13日に沖縄・那覇南西で戦死。死後、少尉に特進した。
引き揚げ後、すぐにでも高田さんの家族を探さねばと思っていたが、肝心の住所を聞いておらず、そう簡単に探すことはできなかった。
まだ幼い妹や弟を連れて家族で引き揚げ、食べるものもない中で一家が人生をやり直すのは容易ではなかった。まだ10代半ばの中田さんも苦労を重ねた。
「すぐに探して遺品を持っていってあげればよかったのだけれど、46年間ずっと持っていました」
転機が訪れたのは1990年ごろ。姉妹で鹿児島県にある知覧特攻平和会館を訪れた時だ。
ずらりと並んだ特攻隊員の顔写真の中に、高田さんの写真があった。
「するどい目でこちらを見ていました」
「まだ(遺品を)持っていっていないのかよ、って言われてるような気がしました」
「その後すぐに、遺品を預かっていることを会館の方に話し、ご家族の住所を教えてもらったんです」
46年の時を超えて、高田さんの家族に連絡することが叶った。
高田さんの故郷、富山県を遺品を持って訪れた。
高田さんが遺品を渡したかった「おふくろ」はすでに他界していたが、家族写真の中ではまだ赤ちゃんだった高田さんの弟さんに、台湾での高田さんの生活などについて話すことができた。
富山へは遺品を渡しに訪れたが、マフラーを持っていてもいいかと聞くと、快諾してくれた。
今でも大切に、家に保管している。
出撃時にまだ10代後半から20代前半だった特攻隊員たちを思い、中田さんは「今も生きていたら」とよく考える。
「平和な時代だったら、どんなに良い人生を送れたのかと、ただただ悔やまれます」
「ただただ愚かしい」特攻隊。そして多くの若者の命を奪った戦争は「決して繰り返してはならない」。
戦争の苦しみを経験したからこそ、反戦の思いは強い。
いまも攻撃が続くロシアのウクライナ侵攻の報道を目にし、心が痛む。
「終戦を迎えた時、あんな悲惨な戦争は、あの時点で地球からなくなると思っていた」
「戦争がなくなってほしいから、経験を語ってきている。でも今も、ウクライナで戦争が起こっている」
「戦争はあってはならないし、あんな馬鹿げたことが起きえるわけがないと思っている。戦争は本当にやめてと言いたいです」
参考文献:『14歳の夏』(中田芳子、フィールドワイ、2012年)
オリジナルサイトで読む : ハフィントンポスト
特攻隊から預かった白いマフラー。「彼は死なないと思っていた」でも…。あの日14歳だった女性が今語ること