8月9日は「長崎原爆の日」。7万人以上が亡くなる結果となった長崎への原爆投下の日だ。平和祈念像が原爆の犠牲者に黙禱を捧げるモニュメントとなっているが、実は広島の世界遺産「原爆ドーム」に匹敵する原爆遺構が、かつて長崎市内には存在していた。
それが爆心地からわずか500メートルの位置にあったカトリック教会の大聖堂「浦上天主堂(うらかみてんしゅどう)」だ。もし現存していれば世界遺産になっていたことが確実と言われている。
【画像】原爆の被害を受けた浦上天主堂
熱線と爆風で甚大な被害を受けたが、建物の一部が残っていた。しかし、終戦から13年後に解体撤去され、鉄筋コンクリートの建物に作り直された。一体、何があったのか。「幻の世界遺産」の謎を追った。
長崎市北部に位置する浦上地区は、戦国時代末期にイエズス会領になっていたこともあり、カトリックの信者が多い地域だった。その後、江戸幕府のキリシタン禁教令によって、4度にわたる「浦上崩れ」という激しい弾圧を受けるが、地元住民はキリスト教への信仰を捨てなかった。「潜伏キリシタン」として明治時代まで信徒が存続していた。
江戸末期から明治初期に起きた「浦上四番崩れ」が欧米から批判されたことを受けて、ようやく1873年に明治政府がキリスト教の信仰の自由を認めた。
釈放された浦上の信徒たちの間で、天主堂の機運が盛り上がった。1895年にフレノ師が設計、ラゲ師に引き継がれ、20年後の1914年に完成した。
これが、石とれんが造りのロマネスク式大聖堂「浦上天主堂」だ。高さ25メートルの双塔の鐘楼を備え、「東洋一の大聖堂」と謳われるほどだった。
しかし、1945年8月9日午前11時2分、米軍が長崎市の上空に投下した原爆「ファットマン」によって、浦上天主堂は、一瞬にして崩壊。一部の外壁だけが残された。西田三郎、玉屋房吉の二人の神父と、奉仕作業をしていた信徒十数人が天主堂と運命をともにした。
鐘楼の一つは北側の川まで吹き飛ばされたという。
福間良明さんの著書「焦土の記憶」(新曜社)によると、原爆で倒壊した浦上天主堂はしばらく廃墟の状態だったが、被爆翌年の1946年末には木造平屋の仮聖堂が建築された。
1949年のザビエル祭までにはガレキも取り除かれ、正面右側と右側面の一部側壁のみが残された。だが、復員や引き揚げ、転入によって増加した5000人の信徒を収容するにはあまりにも狭かった。
そこで浦上天主堂の「カトリック浦上教会」は、1954年に「浦上天主堂再建委員会」を発足。長崎県を管轄する長崎司教区の山口愛次郎司教が1955年5月から翌年2月にかけて、募金のためにアメリカとカナダに訪問。その後、再建の具体策を固めて1958年2月に信者達に説明会を実施した。
天主堂の解体撤去が濃厚になったことに、長崎市議会からは「原爆の恐ろしさを伝える歴史的資源にするべき」などと反対意見が続出。2月18日の臨時議会で天主堂の保存を求める決議が全会一致で可決された。
しかし、市議会の要請も空しく、教会は同年3月から解体工事を実施した。被爆した浦上天主堂は解体撤去され、鉄筋コンクリート製の新しい天主堂が作られた。外壁の一部だけが爆心地公園に移築された。
解体当時、山口司教は次のように述べていた。
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「原爆の廃墟は平和のためというより、無残な過去の思い出につながり過ぎる。憎悪をかきたてるだけのああいう建物は一日も早く取りこわした方がいい」
(週刊新潮 1958年5月19日号より)
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長崎市長の諮問機関である原爆資料保存委員会が1949年に発足した。この委員会は毎年9回に渡り「浦上天主堂を保存すべき」と答申を出していた。51年に当選した田川務市長も当初は、保存に前向きな素振りも見せていた。
しかし、長崎市は1955年にアメリカのセントポールと、日本と海外では初の姉妹都市提携をした。これを受けて訪米して以降、浦上天主堂の解体撤去に前向きとなった。以下は、田川市長の1958年2月の臨時議会での言葉だ。
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「私は卒直に申し上げます。原爆の悲惨さを物語る資料としては適切にあらずと。平和を守るために存置する必要はないとこれが私の考え方でございます。この見地に立ちまして、今日浦上天主堂が早く元の姿に復興して、信者の将来の心のよりどころとして再建したいというこの希望に対しましては、私としては全幅の支援をし一日も早くそうした教会堂が出来上がることをこい願っております」
(平和文化研究 第32集 「旧浦上天主堂被爆以降の存廃に関する公的な議論」より)
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田川市長や山口司教が原爆遺構の撤去に前向きだった背景に、アメリカからの働きかけがあったと見る人は多い。ジャーナリストの高瀬毅さんは以下のように書いている。
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遺構撤去に米国の「圧力」があったのではないか。そういう疑惑はいまも長崎市民の中にくすぶっている。決定的な記録は、これまでのところ見つかってないが、「撤去」せざるを得ない状況や時代背景が、あの時代に集中的に生まれていたことは確かだった。ソ連との間で熾烈な核開発競争を展開する米国にとって、原爆の傷跡を示す天主堂は、目障りだったことは十分に考えられる。
(週刊金曜日 2017年8月18日号より)
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広島市の「原爆ドーム」も保存か撤去かをめぐって議論が起きていた。「悲惨な思いがよみがえる」として取り壊す案もあったが,1966年に広島市議会は永久保存を決議。被爆から51年後の1996年には、世界遺産に指定された。人類史上初めて使用された核兵器による負の遺産として、平和を願うシンボルとしての価値が評価されたのだった。
被爆当時の浦上天主堂が現存していたら「確実に世界遺産になっていたのに……」と、悔やむ声は今も根強い。青森公立大学教授の横手一彦さんは次のように著書で書いている。
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天主堂は、被爆後の13年間、最も象徴的な被爆遺構であった。そして、半ば崩れ落ちた煉瓦壁や、鼻先や指先を爆風に吹き飛ばされ、熱線に傷ついた聖像たちは、あの瞬間の恐怖を、無言のうちに語り続けたに違いない。天主堂は、原爆の極限的な破壊をありのままに示した歴史遺産になったであろう。しかし、今となっては、それは幻の世界遺産なのである。
(「長崎 旧浦上天主堂 1945-58 ― 失われた被爆遺産」岩波書店)
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2018年6月30日、バーレーンで開かれた世界遺産委員会で「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界遺産に登録された。長崎周辺でカトリック教徒が「潜伏キリシタン」として、数々の弾圧にも信仰を曲げずにいたことが評価されたのだ。
しかし、その中に「潜伏キリシタン」の象徴ともいえる浦上天主堂の名前はなかった。戦後に再建された鉄筋コンクリート製の建物ということで、候補から外されたからだった。
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長崎原爆の爪痕を残していた浦上天主堂。解体されて「幻の世界遺産」になった理由は?