【あわせて読む:青木功は、賞金高騰の日本を出て、あえて世界を目指した。「自分で見て、確かめたかったんだよな」】
1999年。英国北部のゴルフコース、カーヌスティ・ゴルフリンクス。
プロゴルファー・青木功はテレビ解説という立場を忘れ、中継モニターから顔をそむけてしまった。
「だから言ったじゃないか!聞いてないのかよ!」
第128回全英オープンゴルフ。大詰めを迎えた会場がどよめいていた。
最終18番パー4。グリーン手前にある深さ2メートルほどの水路「バリー・バーン」に、ひとりの選手が足を踏み入れていった。
ジャン・バンデベルデ。17番終了時点で2位に3打差をつけ、優勝は確実と目されていた。
なのになぜ、裸足で水路に入っていくのか。
「バンデベルデの顔もみたくないな、と思ったよ。俺の気持ちがわかんないのかと。俺の言うことを聞いていれば、あんなことにならないのに、ってね」
解説ブースで言っているだけだから、本人が聞けるわけはないんだけどね。
苦笑いしながら、当時を振り返る。
中継モニター越しに「考え直せ」と求めていたのは、第2打を前にした場面だ。
ピンまで残り230ヤード地点。バンデベルデは2番アイアンを握って、果敢にグリーンを狙おうとしていた。
「9番アイアンでいい」と青木は言った。
リードは3打。そしてグリーン左にはOBが、そして手前には水路がある。その手前の安全な場所までにショットをとどめて、第3打で乗せれば十分じゃないか。
「あとから聞いたんだけど、彼は見栄を大事にするところがあるらしいね。そういうところが出ちゃったのかな…」
勝負の第2打を右に大きく曲げたバンデベルデは、深いラフからの第3打を水路に落とした。
このホールをトリプルボギーとし、優勝を逃してしまった。
第2ラウンドから後続を大きく離して独走してきた。
調子の良さも判断を狂わせたのだろうか。
「でも、状況は変わるわけだし、そういう場面は二度とめぐってくるもんじゃない。勝負ってそんなものなのか?と俺は思ってしまったよ」
プロとして「方針のアップデート」はできなかったのか。
初優勝を祝福する気持ちだったから、余計に強く思ってしまった。
「人生はいつ終わるかわからないから、変えることは決して悪くないよ」
青木はぽつりと言った。
「俺は昨日言ったこととまったく違うことを言うのを、厭わないようにしているんだよ。だって、昨日よりも1日余計に生きているんだから『これが正しい』と思うことが変わるのは当たり前だろう」
新たな経験、知見を得ているのに、アップデートを怠ったとする。
仮に次の瞬間に人生が終わってしまった場合、新たな経験や知見を生かせていない発言、今の自分にとってベストでない発言が後世に残ってしまう。だから「前言撤回」を厭わないのだ。
いまも語り草になる「カーヌスティの悲劇」だけではない。
全英はいつも、アップデートの大切さを青木に教えてくれた。
スコットランドのゴルフ場では「1日の中に四季がある」と言われる。
半袖でも汗をかく暑さだったかと思えば、数時間後には冷たい雨風が襲い、ダウンジャケットを着こんでも震えるような寒さになる。
それにあわせて、地面の硬さも刻一刻と変わる。
4日間、同じやり方では通用しない。
「練習ラウンドの時から、最終日にはきっと今よりもはるかに地面が硬くなる、と想定してショットをしておくんだよ。風も含めて変わるから、同じ距離から違うクラブで狙っておいてみたり」
アップデートで言えば、タイガー・ウッズの姿も思い浮かぶ。
カーヌスティの悲劇の翌年。24歳にして大会初優勝した際のプレーぶりは、青木にとっても印象的だった。
ショット飛距離を生かした攻撃的なスタイル。
それを封印し「絶対にバンカーに入れないことを重視し、ドライバーも使わない」と宣言。言葉通り、コースに118個もあるバンカーに一度も入れないまま圧勝した。
青木が見て取ったのは、全英にあわせたアップデートだけではない。
「ボールが転がりやすい全英で、一度もバンカーに入れないということはとんでもないこと。まず、250ヤード先の小さな傾斜まですべて把握する必要があるけど、それだけじゃない」
「4日間の中で刻々と変わっていく地面の硬さ、ボールの転がり方に常に合わせつづけないといけない。ちょっとした不運でバンカーに入ってしまう、みたいなことすら絶対に起こさない。すべてを計算しきって打つ。覚悟がないと、とてもやりきれないよ」
センセーショナルだったな。しみじみとそう言う。
2位に8打差をつけたという結果は、あとからついてきたものだと思う。細かいアップデートを4日間やり通した精神力に、今も敬意を覚えている。
誰かが決めた価値観、尺度を鵜呑みにせず、自分で確かめる。
青木はそうした意味での「アップデート」も欠かさない生き方をしてきた。
好敵手のひとりに、歴代最多のメジャー通算18勝を誇ったジャック・ニクラウスがいた。
1980年の全米オープンでの2人の優勝争いは「バルタスロールの死闘」として今も語り草になっている。
親友同士としても知られるが、実は青木は英語がほとんど話せない。
都市伝説のように語られる「英語話者に対してもほぼ日本語で押し切っている」はまぎれもない事実だ。
「そうそう。なんでも押し切っちゃったよ。もちろん英語が話せるのはいいことなんだけど、話せなくてもコミュニケーションが取れるくらいじゃないと、向こうのツアーではやっていけないんじゃないかと俺は思う」
当初、周囲はそんな青木をヒヤヒヤしながら見守っていた。
青木はニクラウスをみかけるたびに、肩をたたいて「ヘイ、ジャック!」とあいさつしていた。
皇帝と呼ばれる男に対して、傲岸不遜が過ぎる。
みんなが常識的な挨拶をうながしたが、青木にはあまり響かなかった。実際のところ、ニクラウスが挨拶として受け入れてしまっていたからだ。
「そうなの?って言いながら、忘れてまたやっちゃって。だって、俺があれをやらないと、ジャックが不思議そうにするから。後で周りの人にも『イサオのいつもの挨拶がなかったけど、あいつはどうかしたのか』と言っていたらしいからさ」
皇帝をも自分のペースに巻き込んだ「世界のアオキ」だが、世に出たのは遅かった。
中学卒業直後からゴルフの世界に身を投じ、21歳でプロテストに合格。
だが、そこからは鳴かず飛ばずの時期が続いた。試合に出場する機会が少ないため、プロボウラーに転身しようと思ったことすらあった。
同世代の選手が日本ツアーで優勝しはじめたこともある。
早く活躍しないと。周囲はそう言って青木を急かした。
だが、本人は意に介さなかった。
「先輩をみても、活躍できるのはせいぜい20年くらいのものだろうと思っていた。いま活躍しているやつはせいぜい40まで。あとでまとめて抜いていけるなと」
知識や経験が伴った40歳以降に、プロアスリートとしての「余力」が残っていれば。
知力と体力がそろって、より活躍できる。そんなことを、実際に考えていたという。
世界がアオキを見つけた1978年の全英当時、すでに36歳になっていた。
ニクラウスとの死闘は38歳。皇帝相手にオレ流コミュニケーションを貫けたのも「年齢を重ねてから接点ができたから」と分析する。
若いうちから活躍できるくらいじゃないと。
ゴルフやスポーツに限らず、世の中にはそうした考え方が広がっている。
「キラキラ」に満ちているSNSが、それを助長しているふしもある。
でも、本当にそうなのか?青木はキャリア設計においても、常識をアップデートしていいと考えている。
1991年。49歳の青木は、全英オープンのテレビ中継で解説者を務めることになった。
常識を知るものはみな驚いた。
その前年、全米オープンで33位、全米プロで40位と、メジャーでも若手以上の活躍を続けていた。そんなバリバリのトップ選手なのに、なぜセカンドキャリアに足を踏み入れるのか。
「バリバリのうちにやりたかったんだよ。それなりにやれているうちじゃないと語れないことがあるなと思って」
30歳で初優勝してから、まもなく20年という頃。
アップデートはくしくも、無名時代に思い描いた通りのタイミングで訪れた。
「まさか、そこから30年以上も全英の解説をすることになるとは思わなかったけどね」
選手として大会と関わり合った時間をはるかに超えて。
全英を伝えることは、青木にとってのライフワークになった。
元をたどれば、あの1978年の全英があったから。
この季節になるたびに、いつもそんなことを思う。
世界中のコースを見て回り、着想を得て、アップデートを重ねる。
そうした営みを続けてきたからこそ、愛するゴルフに関わり続けることができた。その原点のひとつは、間違いなく全英にあった。
「プロだから、準備するときは勝った、負けたにこだわる。でも一方で、自分が納得できて、いい転機になったかどうかが、後にも残る値打ちなんだと俺は思う」
「全力を尽くしてきたからこそ、たとえ勝てなくても、それがきっかけで人生が変わったという闘いはあるんじゃないかと思っています」
(取材・執筆:塩畑大輔、編集:泉谷由梨子)
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同世代の活躍に焦らなかった。36歳で世界トップクラスになった青木功が、自分の常識をアップデートしてきた方法。