「実写は事実、アニメは虚構」とは限らない。AI時代のいま、2つを「分けない感性」が求められている

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テレビや映画、そしてネットで、「映像」を見ない日はないだろう。映像は言語と同じくらい、日常生活において身近なものになっている。映像を生み出すのも驚くほど簡単になった。手元にあるスマートフォンだけで撮影も加工も思いのままだ。   

その結果、私たちの社会はその映像が「事実」かどうか、一瞬で判断するのが難しくなった。

2023年末に、筆者は『映像表現革命時代の映画論』(星海社)を上梓した。

映像には大きく分けて2種類ある。現実を切り取る実写映像と、ゼロから創作するアニメーション。しかし、テクノロジーの発展によって、精巧に現実に擬態したデジタル映像もあれば、現実を加工してアニメーションにする技術も生まれ、その2つを厳密に切り分けることが不可能になった。

しかし、多くの人は、実写とアニメーションは違うものだと考え続けている。この本は、その考えを更新し、新しい時代の映画論を打ち立てることを目指した内容だ。

基本的に映画とアニメーションについて書いたものだが、それに留まらない内容にしたかった。フェイク動画や画像が氾濫するこれからの時代、メディアから事実を見極めることは一層難しくなる。この本を通して、そういう時代のメディア論へと応用が可能な、「基礎」となる感覚を提供できればと考えた。

『映像表現革命時代の映画論』(星海社)

『アバター』は実写映画か

ジェームズ・キャメロン監督の映画『アバター:ウェイ・オブ・ウォーター』は、世間的には「実写映画」として受け入れられていると思う。

この映画は、架空の惑星パンドラに住む架空の種族・ナヴィの物語だ。その姿形は地球の人類とは全く異なり、キャラクターも舞台となる惑星もほぼ全編3DCGによって制作されている。実際の風景や人物をそのまま撮影したシーンは極めて少ないが、とても写実的ゆえに実写映画と言われても違和感がない。 

この作品は、手法としてはほとんどアニメーションと言っていい。しかし、その精緻な技術で「本物だ」という印象を与える。現代映画には、現実を写したものか、ゼロから創作した映像なのか、区別のつかない作品が増加しており、実写とアニメーション、両者の境界はなくなりつつある。

本書は、最新の実写映画・アニメーション作品を事例に、そうした映像環境を紐解き、実写とアニメーションに分断された意識を結びつけ、新たな光を当てて再評価することを試みている。

手法の上では、もはや両者を切り分けることは難しい時代となっているが、アカデミー賞などの著名な映画賞レースでも、実写映画とアニメーション映画は、どうしても分けて考えられがちだ。実写とアニメーションを分け隔てなく評価する目を養うための基本的な枠組みが必要だと思ったのが、本書執筆の動機である。

カメラに写せない現実にアニメで迫る

実写とアニメーションは対立概念ではなく、もはや分けて考えることができない。本書で示した基本的な枠組みは、複雑化する現代のメディア環境を紐解くためにも役立つものだ。なぜなら現代では、実写だから事実で、アニメーションだから虚構の産物とは限らないからだ。アニメーションの方が真実の中心により深く迫れることもあるという事例を本書でも紹介している。

以前、アフガニスタンから難民として欧州へと逃れた青年を描いた『FLEE フリー』という映画の監督を取材した。この映画は、ゲイで難民の青年アミンが体験した艱難辛苦をアニメーション化し、ドキュメントパートもアニメーションで描いている。主人公のプライバシーを守るためにアニメーション加工しているのだが、実はもう一つ重要な理由がある。監督の言葉がそれを端的に物語っている。

「実は、映画の製作過程で故郷を探すために一度アフガニスタンに戻ってみないか、という話を持ちかけました。しかし、彼は断りました。理由は、自分の育った故郷はもうない、今はもう違う国となってしまったので、自分の知っているアフガニスタンを美しい記憶のままとどめておきたいと言ったのです」 

アミンにとって真のアフガニスタンとは、タリバンが支配する今のアフガニスタンではない。彼の思い出の中にある、自由な時代こそが真のアフガニスタンであり、それは今故国に戻っても撮影することはできない。だからこそ、この作品は、彼の思い出の中のアフガニスタンをアニメーションで描いたのだ。

カメラで撮影できること以外にも、真実とされるものが世界には存在する。そういう感覚が今、拡がっていると筆者は思う。

それは現実を目の当たりにした映画作家の証言からも受け取れる。例えば、『ドライブ・マイ・カー』の濱口竜介監督は、東日本大震災発生後、東北に赴き3本のドキュメンタリー映画を制作した。現実をカメラに収めるべきドキュメンタリーを作った同監督から発せられたのはこういう言葉だった。 

「仙台は被災地だと思っていたけれど、話を聞いてみると、『私たちなんて全然被災者ではありませんよ、沿岸部に比べれば』と言う。そこで沿岸部に行ってみると、『いやいや僕は家を失くしただけですから、もっとひどいのは親しい人を亡くされた方ですよ』となる。で、そういう方に話を聞くと、『本当に苦しいのは私ではなく、波にのまれたあの人です』となって、もうそこでどこにも行くことができなくなってしまった。
どうしても聞けない部分、それが被災の中心にある『死者の声』だったんです(※1)」(濱口監督)

 被災地にカメラを向けてもその中心は記録できない。濱口監督や、同じく東北地方の傑作ドキュメンタリー映画を作り続けている小森はるか監督など、現実に向き合う作家たちは、むしろフィクションによる想像力を重視する作品を発表している。

本書ではその試みと同じ方向を向くものとして、震災の記憶をアニメーションで描こうと試みた新海誠監督の『すずめの戸締まり』について言及した。

現実に擬態したアニメーション映像が世の中に溢れる一方で、カメラで写すことのできない真実にアニメーションで迫る試みも存在する。実写とアニメーションを分けない感性が必要な時代に私たちは生きているのだと、本書を通して伝えようと思った。

※1…濱口竜介×酒井耕対談「他者の声、明日の映画」(『ミルフイユ 04』企画/発行:せんだいメディアテーク) 

AI時代のメディア・リテラシーの基礎となる映画論

本書はあくまで映画論なので、社会時評や今日のメディア環境について直接書いたものではない。しかし、これからの時代のメディア・リテラシーを養うための基礎を提供できているとも思っている。

ここ数年、「ディープフェイク」と呼ばれる技術が物議をかもしている。実在の人間を自由に動かし喋らせてしまえるこの技術はすでに社会に混乱を引き起こしているが、今後、AI技術の発展によってますます精巧になっていくだろう。そう考えて、本書ではAI技術についても触れている。

2023年、あらゆる業界が「AI」に揺れた。この技術の発展で、実写とアニメーション映像の混淆は、これからますます深まっていくだろう。それは『マトリックス』のような、何が現実で何が虚構なのか、簡単には判断できない時代がやってくるということだ。そういう時代に、実写が事実だと素朴に信じること自体が危険なことだ。

だからこそ、本書は映画論に興味ある人だけでなく、AI時代を生きる全ての人にとって、重要な感性の基礎を築くことに貢献できるはずだ。

(文:杉本穂高 編集:毛谷村真木/ハフポスト日本版) 

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