関連記事>>避難時に知ってほしい「障害のある人」に必要な配慮とは?東日本大震災では、障害者手帳を持つ人の死亡率は2倍にも
能登半島地震が発生した2024年1月1日、プロレーシングドライバーの番場琢さんは、家族とともに能登半島の先端にある妻の実家にいた。激しい揺れと津波に見舞われ、ライフラインも寸断された被災地の模様を、自身のFacebookとインスタグラムで報告している。
とにかく家がコンニャクみたいにフニャフニャに揺れて、潰れちゃうと思い全員でダッシュで家の外に走りました。
家内の実家はギリギリ潰れずに踏ん張ってくれましたが、辺りは1階周りが潰れてしまった家ばかりです。
津波も3メートルくらいは来た模様で、海沿いの家は全て津波で破壊されてしまいました。
1月4日に公開されたFacebookの投稿には、地震が起きた時の様子や被災状況がつぶさに報告されている。
番場さんによると、妻の実家は石川県珠洲市の能登半島の先端にある。今回の震源地から距離にして10キロほどの地点だという。この年末年始、妻と4人の子どもとともに帰省し、妻の両親や兄妹姉妹と過ごしていたという。
地震が起きた瞬間は「(家が)潰れちゃうと思い全員でダッシュで家の外に走りました」「全員無意識なので、誰が外に出られたかも最初は分からなかった」という。番場さんは幼い子ども2人を両腕に抱えて必死に走った。
ハフポスト日本版編集部の取材に番場さんが語ったところによると、駆け込んだ避難所には90人ほどが集まっていた。全員は入りきれず、体力のある大人は外で一晩を過ごした。
幸い、発電機や燃料などを備蓄していた人がいて、屋内は暖かった。屋外も火を起こして暖をとることができ、なんとか一晩をすごしたという。
避難所には、年末年始で帰省していた人も多かった。自衛隊が道路の補修を進めていたが、手の回らないところは力を合わせて臨時の補修をして、車が通れるようにしたという。
1月2日、金沢市から被災地の家族のもとへ駆けつけた人がいて、一部の道路が通行できることが判明。番場さんは家族を連れて長野県の自宅へ移動することを決意した。
「うちは6人家族。この人数が避難所にいるのは大きな負担にもなる。帰れるなら帰った方がいい」と判断した。
3日朝に出発したが、金沢方面に通じる主要道路は大渋滞が発生していた。途中で災害が起きたという情報もあり、いったん引き返して別の道を通った。
地震の影響で隆起したり陥没したりした場所も多い。つぶれた家屋の破片や釘なども散乱し、パンクしないよう慎重に運転した。
Facebookには、その際に撮影した道路の写真を投稿した。路面に大きな亀裂が走ったり、土砂が流れ込んだりしているところがあった。
長野県の自宅にたどりついたのは4日未明だったという。
いったんは自分と家族の安全を確保した番場さん。「不通になった道路の補修が、自衛隊などによって急ピッチで進められています。ライフライン復旧まで、もう少しの辛抱。現地に戻れるようになったら、私も復旧のお手伝いをしたい」と語った。
オリジナルサイトで読む : ハフィントンポスト
「家がコンニャクみたいになった」能登半島地震で被災したプロドライバー、両腕に子どもを抱え必死に逃げた