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人は、「死にたい」気持ちとどう向き合っていけばよいのか。
ドイツ文学の研究者でありながら、40歳でASD(自閉スペクトラム症)とADHD(注意欠如多動症)の診断を受けて以来、発達障害の当事者研究をしながら多数の著作を刊行している横道誠さん。『解離と嗜癖 孤独な発達障害者の日本紀行』(教育評論社)は希死念慮が強かった時期に書かれたという。
一方、YouTubeチャンネル「未来に残したい授業」を運営し、チャンネルで対談してきた研究者や専門家からの若者に向けた自殺防止メッセージを集めた『9月1日の君へー明日を迎えるためのメッセージ』(教育評論社)を刊行した代麻理子さん。
「死にたい」気持ちと向き合ってきた2人が、生き延びるための具体的な方法や、アドバイスの是非について語り合った。
代麻理子さん(以下、代):横道さんにとって、「書くこと」と自助グループの運営が、自殺防止の決定打になっていると『解離と嗜癖』に書かれていました。それらを行っている今でも、「死にたい」と思う瞬間はありますか?
横道誠さん(以下、横道):そうですね、やっぱり冬は厳しいですよ。私にも強烈な季節性鬱(冬季鬱)があります。心が凍てついています。冬に自助グループで話したいテーマを募ると、希死念慮について話したい人が多い。でも、暖かい季節になると減っていくことを仲間が指摘してくれて、「ほんとだ!」と思いました。
代:『9月1日の君へ』の中で、内田樹さんはデュルケームの『自殺論』を用いて、「ヨーロッパでは南にゆくにしたがって自殺率が低下する」と紹介してくれました。
横道:その感覚はわかります。暑いと気分がハイになりますよね。
代:私も『9月1日の君たちへ』の制作を通じて、「人間も動物なんだな」とあらためて実感したんです。生物として生きやすいかどうかは、物理的な環境にも左右される。だから、自分の死にたい願望も、内側から出てくると考えるのではなくて、一旦環境の問題に転嫁してみるのも有効な手立てなのではないかと思いました。
横道:技というと、『9月1日の君へ』には具体的なテクニックやノウハウがたくさん詰まってて、すごく有益な本だと思いました。例えば、漫画家の山田玲司さんが「35歳まではうだうだしていい」や「環境を変えればいい」ともお話しされていますね。また、漫画やゲーム、アニメばかりに夢中でも自分を愛おしいと思いましょうというところもすごくよかった。
哲学者の小林康夫さんのお話も、ヒントに富んでいます。「目的や目標にがんじがらめにならない」「心が病んでいるときは体を信じる」など。意外と、こういうことが載っている本って少ないんですよね。アドバイス的な言説が鬱陶しく響くことはあると思います。ですが、本当に困っている人は、具体的なアドバイスが欲しいこともあって、「使える方法」を知りたいんですよね。「自殺しないで済むためのメソッド」。
代:嬉しいです、ありがとうございます。私がYouTubeチャンネルの運営を通じて知ることができてよかったことの1つが、小林さんが書いていた「目的を持たない行為をする」ということです。資本主義システムでの多くの行為は、目的を持って行われるものです。
例えば、受験は合格を目指して、仕事はお金を稼ぐことを目指して、のように、行為と目的が一致しないことが多い。でも、目的を持たず、ただ行為をすることを心がけると、少し楽になるんです。
この考えは、『9月1日の君へ』にもご寄稿いただいた、美学者の吉岡洋さんも以前、芸術に関する事柄として教えてくれました。芸術は、行為そのものが目的となっている、と。創作している最中は、役に立つかどうかや評価されること、売れることを第一の目的として置いていませんよね。
外部の目的ではなく、行っている行為そのものが楽しい。目的を外に置くと、達成や評価に囚われてしまい、それらが満たされない場合には自己評価が下がってしまうこともあるでしょう。「行為そのものが目的な行為」こそ大切だということは、覚えておきたいです。
代:当事者研究について詳しく書かれている横道さんの著書『唯が行く! 当事者研究とオープンダイアローグ奮闘記』(金剛出版)では、北海道の浦河べてるの家発祥の当事者研究や、フィンランドのケロプダス病院発祥の「オープンダイアローグ」の方法や理念も書かれていて参考になりました。どちらも国際的に注目されている「対話実践」。その実践の上で、「アドバイス(助言)をしないこと」に注力するという試行錯誤が描かれていました。
先ほど、「本当に困っている人は具体的なアドバイスが欲しいこともある」との話もありましたが、相手は助言を求めておらず、ただ話を聞いて欲しいだけという場合もあると思います。その見極めは、どのようにされているんですか?
横道:難しいですよ。自助グループで対話の会をやると、アドバイスを嫌がる参加者は稀ではありません。書籍には書きませんでしたが、アドバイスは対話の実践者のあいだで「クソバイス」と言われているくらいです。
ところがアドバイスをしないと、「なにかしらアドバイスをもらって、それを問題解決のヒントにしようと思っていたのに、何もそれらしいことを言ってくれず、参加した甲斐を感じられなかった」という感想を抱く人も確実に出てきます。
ですから私はアドバイスは「欲しい」と求められたときにだけ言う、欲しいかどうかできるだけ確認するようにするのが安全だと思います。その上で、アドバイスは対話の切り札ではなく、前座として使うのが良心的だと思います。切り札のようにしてアドバイスを出すと、「これが正解だから、そうしときなさい」という押しつけがましさが出てしまいがちです。アドバイスを前座に留めて、「まあ、それはそれとして」と、別の話題で発言を続けることで、対話が豊穣になります。
アドバイスを強く求める人には、場合によっては「アドバイスのラッシュ」をやることもありますね。「すべてやってみろ」ということではなく、個々のアドバイスに支配されないようにするため、異質なアドバイスを並べて圧力を互いに相殺しながら、どれかを相談者自身に選んでもらうようにするためです。
アドバイスが欲しい人は、いま置かれている状況を全力で変換したいと願っていると思うので、「いままでに思いつかなかった視点」をたくさん得ることで、認知の転換を促進することもできます。そこから状況を突破できる可能性が高まります。
(構成:片岡由衣)
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「心が病んでいるときは体を信じる」「環境のせいにしてみる」生き延びるためのメソッド