イスラエルによるパレスチナ・ガザ地区への攻撃が1カ月を超えた11月14日、国境なき医師団(MSF)の海外派遣スタッフと現地スタッフ15人からなるチームが、ラファ検問所を通りエジプトからガザ入りした。
その15人の1人が、MSF日本会長で、救急医・麻酔科医の中嶋優子医師だ。
中嶋氏は現在、南部最大の都市ハンユニスにあるナセル病院で医療援助活動を続けている。
南部にも戦闘が拡大する中、ガザ市民が直面している現在の状況や支援活動について聞いた。
中嶋氏がガザ入りした当時、イスラエル軍の攻撃は北部中心で、南部は比較的空爆の被害が少ない状態だった。
それでも、夕方や夜になると爆撃音が鳴り始め、イスラエルとパレスチナのどちらかわからないドローンの音も常に聞こえていた。
ガザ入りした中嶋氏は主にガザ地区南部のナセル病院で医療援助活動にあたっている。
ナセル病院は南部で一番大きい病院で、中嶋氏は患者の治療や麻酔の管理などに加えて、現地研修医らのサポートをしている。
イスラエルの攻撃により、北部では多くの病院が機能しなくなっている。ナセル病院にはそういった病院から医師らが次々にやってきて、ボランティアで医療活動をしているという。
救急室で働く研修医も多く、中嶋氏はそういった研修医へのアドバイスもしている。
中嶋氏らのガザ入りから10日後の11月24日、イスラエルとパレスチナは戦闘停止期間に入った。
停戦により新たな負傷者は止まったものの、戦闘期間中に傷を負った患者の治療に追われたと中嶋氏は話す。
「ひどい骨折や熱傷などの外傷は継続的な治療が必要です。感染箇所を削り取り、全身麻酔をかけ、綺麗にしてガーゼを交換するなどの処置が必要な患者もいますので、そういった治療にあたりました」
また、停戦中は北部からも多くの患者が搬送されてきたという。
「北部で継続した治療を受けられず、傷口が感染して、全身に広がってしまった患者もたくさんいました」
ナセル病院は、患者だけではなく避難してきた多くの市民も暮らしているため、飽和状態だという。
中嶋氏によると、停戦中も搬送されてきた人でベッドが足りなくなり、患者が廊下まであふれた。
また、停戦中に医療物資の搬入はあったものの全く足りていないものもあり、医療体制が崩壊した中で、医師らは工夫して治療をしている。
11月30日には手術中に停電が発生したため、中嶋氏やナースらが携帯電話のライトで照らして、縫合を続ける場面もあった。
物資に加えてベッドも足りておらず、国境なき医師団の現地活動責任者らが、テントを調達したり、使っていないクリニックを見つけてきたりして、受け入れ場所を広げる取り組みもしている。
創意工夫をしながら最低限の医療を提供している一方で「長期的な視点から見れば、患者一人一人への継続的な医療はできていない」と中嶋氏は話す。
「あまりに人が多いために一人一人に目が行き渡らず、ガーゼ交換などの頻度は少なくなってしまいます。北部から来た患者の中には、長期間まったく処置が受けられていない人もいました。継続性の観点から言えば、患者さんは十分な医療が受けられてないと思います」
また、常用薬が手に入らずに重症化して亡くなってしまう高齢患者も少なくないという。
「高血圧や糖尿病、珍しい血液疾患、透析など命に関わる医療が中断されてしまい、亡くなったり、重症化したりする患者さんを3週間でたくさん見てきました」
戦闘休止期間7日を経て、イスラエル軍は12月1日にガザへの攻撃を再開した。
戦闘が再開されたことで、再び新たな負傷者が次々に運ばれてくるようになり、北部から搬送されてきた患者とあわせて治療にあたっているという。
さらに、停戦後は状況が悪化しているとも感じている。
イスラエル軍は停戦前は北部を中心に攻撃していたが、停戦後はハンユニスも含めた南部も標的にしており、ナセル病院の近くでも空爆が起きている。
AP通信によると、イスラエル軍が戦闘再開後にビラをまき、南部も「危険な戦闘地域だ」と警告した。
中嶋氏は、停戦の解除で以前に比べて、病院の現地スタッフが戦々恐々としているのが感じられると話す。
「ギリギリの状態で医療を続けていますが南部も安全ではなくなっています。いよいよ危なくなった時には、再び全員で別の場所へ避難しなければいけないと思います」
パレスチナ保健当局は、10月7日からこれまでにガザの死者数は1万5500人を超えたと発表している。
連日のように空爆が起きる状況下でも、中嶋氏はガザの人たちが「強さ」を失わないことに感銘を受けている。
「ガザの人たちは誰もが、家を失う、家族や親戚や友人を亡くすなどの経験をしています。そういった中でも、現地の医師たちは休みを返上してボランティアで明るく働いていて、とても強いな、すごい精神力だなと感じます」
「患者さんの中には、手足を切断しなければいけない10代や20代の若者もいますが、前向きに受け入れているように感じます。その理由を『他に選択肢がないから、気持ちの持ちようを変えるしかないんだ』と言っていたのが印象的でした」
「子どもたちもとても明るく、人懐っこい。空爆で搬送されてきた患者さんが全員子どもと女性だったこともあり、本当にひどいと思いました」
活動を続ける中で、戦争の犠牲と比較して医療者ができることの小ささに、無力感を感じることもあるという。
「助かって今日を生き延びても、2、3日後に亡くなってしまう方や、感染症などで何週間も苦しんで亡くなる方はすごく多いです。戦争をしないということに比べて、医療ができることはすごく実は小さいんです。そのことに、無力感を抱くことはあります」
そういった中でも、国境なき医師団の活動をガザの人たちが喜んでくれることが支えとなっている。
「色々な国のメンバーからなる多国籍チームがガザに来たことを『わざわざ安全な国から来てくれた』とガザの人たちはありがたがってくれます。ここに来たこと自体が希望になるのであれば、それだけでいいと思っています」
中嶋氏が日本出身だと伝えると「日本も同じだったよね」と言われることがあるという。
「『第二次世界大戦の時に、日本も同じだったでしょう?家族ではない隣の人たちと助け合い、少ない食事を分け合い、狭いところで一緒に生活したんでしょう?お互いを助け合う共助で乗り越えてきたのは同じだよね』と何度か言われました。私はその時代を直接は知らない世代ですが、そうだったんだろうなと思っています」
ガザから遠く離れて暮らす私たちにできることはあるのだろうか。
中嶋氏は「国際社会で声をあげることや『戦争にもルールがあり、病院などは絶対に攻撃してはいけない』と言い続けることはすごく大事だと思います」と話す。
「すでにたくさんの人が声をあげていると思うので、諦めずに関心を持ち続けることが大事なのではないかと思います。時間が経つにつれて、少しずつ国際社会の関心が薄れていくのが、今後の懸念かなと思っています」
オリジナルサイトで読む : ハフィントンポスト
ガザで支援を続ける中嶋優子医師「日本も同じだったよね」の言葉に感じること