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ロックバンド・クイーンのフロントマンだったフレディ・マーキュリーが1991年に死去し、11月24日で32年が経った。AIDS(後天性免疫不全症候群)の合併症によるもので、病気を公表した翌日のことだった。
2018年には伝記的映画『ボヘミアン・ラプソディ』が大ヒット、2022年10月13日には1988年に録音されたまま未発表だった「Face It Alone」が新曲として発売──。彼の残した歌やライブパフォーマンスは今なお色褪せない。
クイーンの2024年の来日公演を記念し、日本のファンが選ぶスペシャル・ベスト・ライヴ・アルバムも発売される予定だ。
クイーンのナンバーを再生しながら、写真と動画でフレディの軌跡を振り返ろう。日本を愛したことでも知られるフレディ。来日した際に撮影された名古屋城前での写真や、けん玉に興じる様子が収められた動画なども紹介する。
クイーン結成前は、「Ibex(アイベックス)」というバンドに所属していた。メンバーらと撮影した写真が残されている。
クイーンの母体となったのは、ギタリストのブライアン・メイとドラマーのロジャー・テイラーが在籍した「スマイル」というバンド。HMV&BOOKS onlineによると、1970年にスマイルが自然消滅したことから仕事仲間だったフレディに声をかけ、1971年にベーシストのジョン・ディーコンが加入し、「クイーン」は形づくられていった。
『rockin’on』2021年5月号によると、フレディは1981年のインタビューで結成時の思いを「欲しいのはひとつ、てっぺんだけだった」と振り返っている。
フレディの魂こもった繊細で力強い歌声、個性的なパフォーマンス。斬新な音楽と個性は賛否両論も呼んだが、1975年に発売されたシングル「ボヘミアン・ラプソディ」などで人気が爆発した。
写真からもその熱気が伝わる。ライブでの特徴的な衣装が記憶に残る人も多いのではないだろうか。
映画「ボヘミアン・ラプソディ」のクライマックスとしても描かれた「ライブ・エイド」での20分ほどのパフォーマンスは、「伝説」と評されることも多い。
ライブ・エイドは1985年7月13日に行われたエチオピア飢餓救済のチャリティで、クイーンはロンドンのウェンブリー・スタジアムで参加。1986年4月12日付の朝日新聞によると、テレビを通じて世界で約15億人が見たと推定されるという。
インタビューなどからフレディの言葉を集めた『フレディ・マーキュリー 自らが語るその人生』によると、フレディはライブ・エイドへの出演について「ひとはときに自分の無力さを痛感する。僕にとってこれはたぶん、自分にも小さな役割が果たせるということを示す、僕なりの形なんだと思う。僕は誇りを持って歌う」と語っていた。
ライブでは「Bohemian Rhapsody」「Radio Ga Ga」「Hammer To Fall」などを披露し、観客を魅了。ライブ・エイドの公式YouTubeでクイーンのパフォーマンスが一部公開されている。この熱気を見てほしい。
フィナーレでは、U2のリードボーカル・ボノ、ポール・マッカートニーなど他の出演者とともに舞台に上がった。舞台裏で、映画にも登場したボーイフレンドのジム・ハットンとともに映る写真も残されている。
日本の伝統や美術品を好んだというフレディ。
産経ニュースは日本人元ボディーガードの話として、大阪で公演がある際には休みがあると京都に出かけ、骨董品店を回るなどしていたと伝えている。
フレディ在籍時のクイーンは6度来日。フレディはプライベートでも1度来日している。
1975年の初来日では、名古屋城の前でジョン・ディーコン、マネージャーと写真に収まった。公式YouTubeチャンネルに公開されている動画「Japan 1975」では、けん玉をしたり、お茶会をしたりする様子が残されている。
1976年のツアーでは、着物でパフォーマンスしたことも。金屏風を背景に、樽酒の前で枡を掲げる写真も残っている。
1982年の来日では、なんと駅弁を食べる写真まで。大阪から名古屋に移動中の車内で、膝に駅弁を乗せて蓋を開け、スプーンかフォークのようなものをくわえておどけた表情を見せている。
よく見てみると、駅弁の蓋には新幹線のイラストが書いてあり、横の小さなテーブルにはビールが置かれている。
この写真が撮影された当時の状況について、ムック本「クイーン ライヴ・ツアー・イン・ジャパン 1975-1985」では、フレディはサントリー生の350ml缶と1000円の駅弁を食べたと説明されている。
1985年、ツアーで来日した際には、ファンと交流する様子も。はにかんだような柔らかい表情だ。
クイーンとしての来日は1985年が最後となったが、フレディは翌1986年、プライベートで来日。ロンドンの自宅にあるという日本庭園や和室のためのショッピングリストを見せる写真が残されている。「japanese chests(和だんす)」などの文字も。
パフォーマンスからは破天荒なイメージも受けるが、フレディは繊細で引っ込み思案だったとも言われる。
バンドメンバーのブライアン・メイとロジャー・テイラーは揃って、バンド内で言い争うことが多かった彼ら2人を仲裁するのはフレディだったと『rockin’on』2021年5月号で語っている。
彼らはフレディの死を実感できず、ロジャーは「ブライアンも僕も、乗り越えるまで5年かかった。呆然としていた。90年代は僕にとっては失われた10年のようなものだ」とコメントしている。
では生前フレディは、「死」についてどう考えていたのか。
『フレディ・マーキュリー 自らが語るその人生』に掲載された言葉を追うと、自らの死について言及するときのフレディは、どこか飄々としている。
「天国に行きたいかって?ノー。行きたくないね。地獄のほうがずっといい。考えてごらんよ、君がそこでどんなに面白い人たちと会うことになるのかさ(笑)」
「『どうしよう!僕が死んだら、僕のこと、みんな覚えていてくれるだろうか?』なんてことは、まったく思わない。全ては彼ら次第。僕が死んで、誰が気にする?僕はしないね」
しかし32年経った今も、フレディの残した音楽、パフォーマンス、生き様は、多くの人の心を動かし続けている。
オリジナルサイトで読む : ハフィントンポスト
フレディ・マーキュリーの死から32年。日本で駅弁やお茶を楽しむ姿や、伝説のライブを15枚の写真と動画で振り返る