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1993年、旧ユーゴスラビア・ボスニア。サッカー日本代表監督を務めた名将・故イビチャ・オシム監督を輩出した地で隣り合って暮らしてきた人々は、民族や宗教の違いで殺し合う内戦に陥っていた。
「止まれ」。イギリスから内戦の取材に来ていた記者の通訳をしていた地元出身の少年は、5人ほどの民兵に囲まれ、銃を突きつけられた。
まだ19歳。ああ、ここで死ぬのかと思った。荒々しい目をした男たちに、イギリス人記者がとっさにタバコを差し出した。男たちの殺気がふっと消え、見逃してくれた。
ヨーロッパを中心に20年以上かけてESG投資分野を切り拓いてきたサシャ・ベスリックさんは、こうして凄惨な内戦を生き延び、難民としてスウェーデンに渡った。
ジャーナリストとなり、その後入った金融の世界でも徹底した「現場取材」を欠かさず、事実をごまかそうとする企業の報告を見抜くESG投資調査の専門家となった。
「市場は巨大なのに、ESGの選択肢がほぼない」とみる日本に2022年に進出。SDGインパクトジャパンの最高投資戦略責任者に就任した。
ESGを推し進めることを天職と呼び、「真にサステナブルで、魅力的な投資を日本市場に導入する」というベスリックさんに話を聞いた。
今はもうない旧ユーゴスラビアのゼニツァで、ユダヤ教徒でエンジニアの父と、キリスト教徒で経済学者の母の間に生まれた。
食料の調達もままならないほど貧しい人が大勢いたが、社会主義の模範を示すかのような父のもと、とりわけ貧しく、住民の大半をイスラム教徒が占める地域で一人っ子として育った。
子だくさんが当たり前で、まわりはきょうだいが5〜6人いる友だちばかりだった。旧ユーゴは多民族・多宗教の国家で、民族や宗教の違いが独特の張り詰めた空気をつくっていた。お下がりじゃない服が目立ち、いじめの格好の標的となった。
ボスニアの中心都市サラエボの大学に入学願書を送ろうとしていた18歳の時、内戦が始まった。
午前4時、軍警察がいきなり家にやって来た。軍はイスラム教徒が率いていた。この地域には、オスマン帝国支配の時代にイスラム教に改宗した人々の子孫が多かったのだ。押し入ってきた軍警察に家中をひっくり返され、ベスリックさんは軍に招集されることになった。
1日だけ猶予が与えられた。
イスラム教徒ではないベスリックさんにとって、軍に加わるということは真っ先に命を落としかねない最前線に配置されることを意味していた。生き延びるためには、国から逃げ出すしか選択肢はなかった。
逃げて命が助かる保証はない。しかし戦地に送られれば、ほぼ確実に命はない。両親は悲しんだ。息子を手放したくはなかった。「でも、それ以外の選択肢は両親にはなかった」
下着とTシャツ2枚をビニール袋に突っ込み、家を抜け出した。
内戦下、通訳として使ってくれていたイギリスの記者2人を頼った。記者と落ち合えたが、キリスト教徒が多く住む、彼にとっての「安全地帯」にたどりつく手前で、イスラム系民兵(ムジャヒディン)に捕えられてしまった。
5人ほどに囲まれ、銃口を突きつけられた。死ぬんだと思った。
命を救ったのは、1カートンのマルボロだった。何とかベスリックさんの命を救いたかった記者が車に積んでいたタバコを取り出し、ムジャヒディンたちに差し出した。
解放されるとクロアチアの港町スプリトに逃れた。そこでも治安当局が身分証明書の確認を行っていた。公園に身を隠したが、捜索の目は多く、2週間が限界だった。首都ザグレブにたどり着くと、バスターミナルに潜伏して逃げるチャンスを待った。
春先でも寒さは厳しかった。食べ物の確保もままならず、バゲットを恵んでもらえた日はラッキーだった。そうやって1カ月を過ごした。ほんの少しばかりの所持金は、さらに遠くへ逃げるバス代に必要で、手をつけられなかった。
ついに難民を乗せてポーランドに向かうバスが出るという情報を掴んだ。
賄賂を握らせて確保した席の隣には、夫が生きているかも死んでいるかもわからないという2人の子どもを連れた母親。女児1人を自分の膝の上に引き取り、バスは出発した。バスはハンガリー、スロバキア、チェコを走り抜け、ポーランドへと向かったが、国境をまたぐたびに9時間ほども停車したので丸2日もかかった。
重い空気と緊張感で、疲労は極限に達していた。家を抜け出した日から、両親との連絡手段は絶たれたままだった。たどり着いた港は、イギリスやニュージーランドなど世界のいろんな国につながっていた。「行き先は気にしていられない。次に港から出る船に乗る」
サイコロを転がすかのように、たまたま決まった行き先は、国籍を取得することになるスウェーデンだった。
船は通路まで隙間なくひしめき合う難民を乗せ、一晩かけて目的地へと向かった。だが、そこでもまた警察が待ち構えていた。瞬時に安堵感はしぼみ、頭の中で危険を知らせる赤ランプが灯った。しかしスウェーデンの警察官たちは、ベスリックさんたち難民を守ってくれた。
そこから半年間、難民キャンプでスウェーデン政府から滞在許可が下りるのを待った。図書館に行くものの、読める本は1冊もない。「現地の言葉の習得がカギになると思った。とても大きな図書館だったのに読める本がないという衝撃は大きく、すべての本を読めるようになってやるという気持ちになった」
ベスリックさんのやる気に、スウェーデンは教育の機会を無料で提供することで応えてくれた。
ソーシャルワーカーが手配してくれた語学クラスに通いながら、ラジオや歌を聴いて耳から音として覚えていった。言語を習得することが生きることと直結する環境で学んだことで、今ではスウェーデンで生まれ育った人と遜色ないスウェーデン語を話すようになった。
「スウェーデンで働いたことのなかった私にも、国が投資をしてくれた」
人に投資することの意義の大きさを、自ら知った。
ストックホルム大学に進学し、経済学とジャーナリズムを学んだ。ジャーナリズムを専攻したのは、命を救ってくれたイギリス人記者の影響が大きかった。「経済をつくっているのは人と社会。それにジャーナリズムを掛け合わせると強みになると思った」
ここでの学びや出会いが、現在のベスリックさんの礎になっている。
あの時、たまたま乗り込んだ船の行き先がスウェーデンじゃなかったら。日本の高校にあたる母国の学校で机を並べた級友31人のうち、生き残ったのは8人。逃れた先はバラバラ。アメリカを選んだ2人はクラスでも優秀だった。アメリカを「機会の国」と呼んだが、お金がなかったため大学には行けなかった。
ベスリックさんは大学在学中に赤十字新聞の編集長と知り合った縁から、アフリカやパレスチナなどの紛争地から記事を書くチャンスをつかんだ。フリーランス記者としてスウェーデンの新聞に書いていた時に、イギリス・ロンドンに本社を置くエネルギー大手BPで働かないかという話がきた。
ジョージアでのパイプライン建設が地元コミュニティに及ぼす影響を調べるチームを率いることになった。
ジョージアは、ジョージア系、アゼルバイジャン系、アルメニア系などが混じり合って暮らしている多民族・多宗教国家だ。民族や宗教の違いから生まれるいさかいも珍しくない。似た状況で少年時代を生き抜いたベスリックさんにとっては、お手のものの環境だった。
ESGの世界に入るきっかけは、2004年に訪れた。赴任先のアフリカのコンゴでサバンナを見渡していた時、電話が鳴った。スウェーデンの資産運用会社からだった。倫理的や道徳的な課題にきちんと取り組んでいる企業を選び出して投資する「エシカルファンド」の事業を始めたいのだという。
テーマはおもしろい。でも、オフィスに閉じ込められたいのか。現場主義だったベスリックさんは自問した。帰国を決定づけたのは、スウェーデンで小さな子ども3人の育児を一手に引き受けてくれていた妻からの「帰ってきて」という一言だった。
2009年には、ノルウェーの金融最大手のESG投資の担当者になった。ここでも現場に出かけ、自分の目で見て確かめる姿勢を通そうとした。だが、同僚たちの反応は「ここは保守的な銀行。現場に出かけていくなんて無理です」と冷めていた。でも、諦める気はなかった。社内でのぶつかり合いもいとわなかった。
どうしてそんなに強く自己を保てるのか。そう問うと、「戦争は人を無理やり成長させる」と答えたベスリックさんは、25歳ごろにはすでに自分の精神年齢を50歳ぐらいに感じていた。同年代の人に比べると、達観しているところがあったという。
3年かけて、同僚のアナリストを現場に連れ出せるようになった。実際に現場を訪れることがどれほどの武器になるか、同僚たちもすぐ理解できたようだった。本社でアナリストとしてクライアントに向き合う時、より深みのある解説や助言ができるからだ。
投資先などの企業に取り組みを尋ねると、現実とはちがう、耳障りのいい言葉が並んだ回答が届く。だからこそ、現地に行って自分で確かめるしかない。
例えば、アパレル大手がカンボジアに構える工場について調べた時のこと。
まず訪ねる先は、工場ではなく、現地の食料品店だ。そこで店主に工場で働く人たちの支払い方法が毎月いつごろクレジットカードに切り替わるか聞く。「給料日の17日後ぐらい」という情報を引き出せると、毎月の食費や給料を推定できる。生活していくのに足りるだけの賃金をもらえているかが見えてくる。
次に地元の診療所に行く。労働者はどんなことを訴えて来院しているのか。女性はストレス、男性は背中の痛みに悩んでいることがわかってくる。工場で過重労働になっているかもしれないという疑いを持つ。教会など宗教施設でも聞き込みする。「会社は正しいことを報告してくれるとは限らない。だからこそフィールドリサーチが欠かせないのです」
このやり方は時間も労力も費用もかかり、手法を真似る同業者はいないという。なぜ、現場主義を続けるのか。ベスリックさんの回答は明確だ。
「いいなと思う家がスペインで5億円で売り出されているのをネットで見つけたとします。実物を見ずに買いますか」
ベスリックさんは顧客から預かった資金を正しく運用する責任を重く受け止めている。このため、投資先企業の実際の姿を見ずに投資判断はできないのだという。
ヨーロッパを中心にESG投資分野を切り拓いてきたベスリックさんは、2022年秋に日本に拠点を移した。サステナブルファイナンスを専門とするSDGインパクトジャパン(東京・渋谷)の最高投資戦略責任者を務める。背中を押すものは、何なのか。
東京の地下鉄でスーツにSDGsバッジをつけた人をよく見かけるので気になった。先日の朝、ついに自宅近くの駅でスーツ姿の男性に話しかけてみたという。
「そのバッジの意味を知っていますか?」。男性の返答は「すばらしい」だけだった。
日本で「SDGs」という言葉はよく知られるようになったものの、その理解は一般的に「脱炭素」「気候変動対策」といった部分に限られる。
国連が2030年までに達成すべき「持続可能な開発目標(SDGs)」として掲げる17の目標と169のターゲットが持つ、人権や平和、貧困、格差、ジェンダー平等などさまざまな側面と、その奥深さを理解している人は、日本ではそれほど多いとは言えない状況だ。
脱炭素を意識しても、それだけでSDGsに沿っているとうたうには十分ではない。それ以外の分野への配慮と検討も必要なのだ。例えば、革新的な太陽光発電の技術を持つ企業があったとしても、女性の昇進を妨げていたり、新興国の工場で労働者の賃金を不当に安く抑えていたりしたら、それはSDGs、ESGの観点から良い投資先とは言えないということになる。
市場は巨大なのにESG投資の選択肢が少ない日本を、ベスリックさんは「新しいマーケット」と見る。
2023年2月、SDGインパクトジャパンは資産運用などにおいてESG要素を考慮してインパクトを生み出せそうだと評価され、環境省から表彰された。このまま頑張れと言われているようだと感じている。
日本に限らず、サステナブルとうたっているファンドの中にはサステナブルではないものもたくさん混じっている。
もうかりそうな分野だからとESGの専門家を名乗る人にも出会うこともある。「お金を稼ぎたいなら別の仕事をした方がいい。この仕事は看護師や医師のように、『天職』と思えない人には、まったく向かないから」
ベスリックさんはこれまで積み上げてきたすべての知識と時間を注ぎ込み、魅力的で真にサステナブルな投資を日本の人々に提供する将来を思い描いている。
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