「ありのまま」の自分を認めることは、難しい。人より美しく、有能で、力があると、評価されたい。私たちの身体は、社会に時々、乗っ取られそうになる。
『くもをさがす』(河出書房新社)は、作家の西加奈子さんが、カナダのバンクーバーで暮らしていた2021年8月に乳がんと宣告されてから、日常に戻るまでの8カ月間を書いたノンフィクションだ。
ああ、自分は一人では何も出来ないなぁ。弱いなぁ。日々、そう思った。そしてそれは、恥ずかしいことでも忌むべきことでもないのだった。ただの事実だった。(『くもをさがす』より)
異国、新型コロナ禍、そして幼い子どももいる暮らし。治療には「ありのまま」で挑むしかなかった。
しかし、「嵐のような日々」の中に、とびきりの美しい瞬間も訪れた。そんな時間を経て、西さんは、自分の身体を取り戻すことができたと感じているという。
「現代は、『この私に、社会から愛される資格がありますか?』って、自分の心身、感情や考え方すら、全てを差し出させられて、奪われている社会な気がしています。『あなたもっと頑張れるんちゃいますの?あなたより愛されてる人がいるのは、その人が頑張ってるからですよ?』と、脅迫してくる社会だと思うんですよね。それはおかしい。自分が、どういう自分でありたいかがまず先に来ないと」
「『周りの言うことなんて関係ない』と、私は作品で言い続けてきたつもりだけど、それでも十分ではなかった。『自分の身体は自分のもの』という当たり前のことが本当にわかった今、社会からの勝手なジャッジや脅迫に対して、『こんな大切な自分に酷いことはさせない』って思うようになれた気がするんですよ」
治療の日々は、がんと診断されたのに、専門病院の担当医からあるはずの電話がかかってこないところから始まる。問い合わせがたらい回しにされ、音声ガイダンスは聞き取れない。大切な薬が受け取れず、薬局のカウンターで声を出して泣いてしまう。
日本だったら、こんな目にはあわなかったのに。
けれども、そこがバンクーバーだったから起こった美しい瞬間があった。
その象徴の一つが、抗がん剤治療とともに始まった「ミールトレイン」。友達の「ノリコ」が、友人たちを集め、毎日誰かしらが、栄養たっぷりの手作りの食事を届けてくれるシステムを整えてくれたのだ。西さんはそれを「ご飯以上の何か」であり、「私の身体を内側から動かすもの」と表現した。
「私の子どものために、お好み焼きを、私の子どもが好きな鬼の形にしたものを、壊さないように大事に持ってきてくれた人がいた。子どもがそれを見た時の顔は、忘れられないし、子どもって母親の飯だけで育つわけではない。私だけではなく、子どもにとっても、こんな幸せはない、って思いましたね」
西さんは、病院への問い合わせも、子どもの世話も、友人ほか多くの人の手を借りて進めていった。そして、バンクーバーでは、新型コロナの感染拡大期、電信柱に、お年寄りやひとりで暮らす方達のために「何かお手伝いがあったらします」などと書かれた、電話番号つきの張り紙も貼られていたという。
「私が本当に何もできなかったっていうのと、移民の町、小さい町というのもあって、バンクーバーは自然にすごく助け合える状況があった。本当に本当に、恵まれていたと思います」
「助けを求めるのが得意」である西さん。それでも、「もし日本で治療していたら、きっと遠慮してしまっていただろう」と話す。そして、かつての自分を振り返り、例えおせっかいになってでも、ドアをノックして、誰かを助けるべきだったと感じているのだという。
「日本だと『友達もみんなめっちゃ忙しいしな』とは思ってしまいますよね。一人一人は信じられないぐらい優しいですよ。『助けて』と言えば、助けてくれる人も多い。でも、みんなが限界まで働いて疲れていると思うと、頼めない。バンクーバーだったらどんなに忙しくても夕方5時には仕事を終えているし、小さい街だし、『玄関に置いといたから』って、もう先に来ちゃう。私も『困ったことがあったら言ってね』じゃなくて、その前に行ってよかったんだな、って思いました」
西さんは前作の『夜が明ける』(新潮社)で、日本の若者の貧困や虐待、過重労働の問題を描いた。主人公は、自分の「弱さ」を認めることが許されない社会を生きている。「助けて」と言えないことで状況が悪化していき、その果てに、別の誰かを苦しめる加害者にもなっていく。
「今回本当に思ったのが、『弱さは前提である』と考えるべきだということ。自分もそうですけど、『社会的に強くありたい』という気持ちも弱さからきている。『弱くあること』が怖いから、自分の強さを誇示するために、弱さを無かったことにする。自分の弱さには醜い気持ちも含まれるとも思うのですが、『そんなものはない』と振る舞った結果、加害性を帯びることにもなる。弱さを認めるところからスタートするべきです」
最初の電話の事件のように、バンクーバーでは例えがん患者でも、医療者に全てを任せて、身を委ねるということはできなかった。ネガティブな情報も含めて、怖くても自分で調べ、疑問に思うことはどんどん質問し、自分の要求を伝える必要があり、権利があった。
治療中、西さんは大小様々な選択をしていく。医療者たちは、西さんの選択を尊重し、度々このように語りかける。
「オッケー。決めるのはカナコやで。あなたの体のボスは、あなたやねんから」
手術で西さんは両胸を切除し、再建もしないという決断をする。これまでは胸の小ささをコンプレックスに感じていたこともあった。しかし今回は、誰かのジャッジに耳を貸すことなく、自分の声に耳を澄ませた結果、この治療を経て欠けたところのある身体こそが、愛すべき自分の全てだと西さんは決めたのだという。
「私は、病気になって、本当に本当に本当に、自分の身体を愛せるようになったんです。医師、看護師、家族、友達も、私の存在そのものを、慈しんでくれた。そんなスペシャルな時間はなかったし、それ以上にスペシャルだったのは、自分が世界で一番、人生で一番、自分自身を慈しんだことです。呼吸をしているだけで、生きてるだけで、私の存在は奇跡だと思えた。この身体は、大変な治療に耐えたことだけではなく、生きてきただけで、それだけですごいんです。その身体が、素晴らしくないわけないんです」
「そして、私がこれまで小説で書いてきたこと、一人一人の生を祝福すること、生きてることは奇跡でそれだけですごいってことが、決して大袈裟じゃなかったって、答え合わせができたんです。この社会にも、実はずっとずっとそういう奇跡は存在している。それに気づくこと。そういう『印を探す』行為をもっとしていかないといけないなって」
その奇跡は、決して壮絶な体験がなくても、芸術によっても経験できると、西さんは話す。
「たとえば小説の中で、登場人物たちが私たちの代わりに死にかけてくれる。その登場人物が見る果ての景色を、私たちも見れるんですよ。私にとって、小説というのは、閉じた後に、読む前とは世界が違って見えるもの。自分が治療中、普段以上に感性もバッキバキになっていたこともあって、自分にとって必要な言葉とめちゃくちゃ濃い濃度で出会えたんです」
『くもをさがす』には、西さんが救われた芸術の数々が引用の形で散りばめられている。
「新型コロナ禍もありましたし、治療を経て改めて、芸術は人間にとって必要だと思いました。自分は作者ですけれど、それ以上に読者です。この言葉がなかったら、この物語に出会っていなかったらどうなっていただろう、という瞬間ばかりでしたから」
自分が本当は、完璧なんかではない、たった一人の弱い人間であること、けれど、それはただの事実であること。愛するかどうかを決めるのは社会ではなく自分であること。
『くもをさがす』は、西さんが体験した奇跡を、私たちにも少しだけ分けてくれる。
オリジナルサイトで読む : ハフィントンポスト
カナダで乳がんになった西加奈子さんが見つけた、「本当に自分を愛する」ということ。