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初めて自分の異変に気づいたのは、2017年。私は大手家電メーカーの経理部でアナリストとして働いていた。毎週使っていたコンピュータープログラムの使い方を忘れたり、間違った金額を経営層に送ったりするなど、通常業務に支障が出ていることに気づき始めた。それは私にとって、非常に珍しいことだった。
上司と私は、取り組んでいる大きなプロジェクトから来るストレスによるもので、そのうち軽減していくだろうと思っていた。
しかし、その考えは間違っていた。
2018年5月、私は発作を起こした。原因を突き止めるため、医師がたくさんの検査を行った結果、私は正常圧水頭症と診断された。これは、脳の周囲を満たしている髄液が異常に蓄積することにより生じる病気だ。脳への圧力が高まり、私は、会話したり手足を動かしたりする機能に不自由が生じて酷い頭痛にも襲われた。
それと同時に、若年性認知症と診断された。
若年性認知症とは、65歳未満で発症した認知症のことを指す。診断された時、私はまだ57歳だった。不満だったのは、診断を受けた時、医者に「こういう病気で、この薬を使い始めます。次の予約を取るため受付に寄ってください」と言われただけで、サポートや情報を得るためのパンフレットや資料をもらえなかったことだ。
ただ、母方の祖母もこの病気の診断を受けており、介護施設に入るまで6年間世話をした経験があるため、この先どうなるかについておおよそ想像はついた。
このブログを執筆している時点ではまだ、根本的な治療法は確立されていない。症状を軽減するの薬はあり、思考を明瞭にするのに役立っているが、その多くは病気の初期にしか効かず、その効果は限定的であると私は思っている。
祖母の経験を知っている私は、3週間ほど悲しみに明け暮れた末、妻に「文句ばかり言わず、自分の人生を生きて」と言われた。
私はその後会社の理解を得て、能力的に働けなくなるまで9カ月間仕事を続けたが障害のために退職せざるを得なくなり、私の世界は崩れ落ちた。役立たずになったように感じ、今まで家族を養ってきたのに今後はどうすれば良いのかと不安になった。これからどうやって家族が生活していけるのか心配したが、すぐに障害者手当が降り、家族の助けを借りながら生き延びることができた。
それから車の運転を断念するまでそう時間はかからなかった。車の運転を諦めるのは、最も辛いことの一つだった。私はアメリカ南部出身で、そこでは伝統的に男性が車を運転する。だから男性が助手席に座っているのを見るといつも、「彼はきっと免許を失ったんだろう。かわいそうに」と思っていた。でも今や、私も助手席に座るその「かわいそう」な男になった。
それだけではない。今まで私がやっていたことの多くを、妻が引き受けなくてはならなくなった。私は料理…いや、実際はお菓子作りが好きなのだが、もうコンロに近づくことは許されない。この前グリルチーズサンドイッチを作ろうとしたら、家の煙探知機を鳴らしてしまったのだ。
物忘れも増えた。1時間前に言われた簡単なことを思い出せなかったり、何年も前からの知り合いに会っても、その人の名前やどうやって出会ったのかさえ覚えていなかったりする。
今や、人ごみに出るのが怖いと感じ始めている。自分だけでなく、妻にも恥をかかせてしまうのではないかと心配なのだ。
その点、アルツハイマー病協会などを通じて参加しているグループは、私の診断について知っているから安心できる。私が何かおかしなことをしても批判されたり見下されたりすることもなく、自分らしくいられる気がする。
妻には不当な負担を強いている気がして申し訳ないが、彼女は気にしないでと言ってくれる。どこへでも運転して連れて行ってくれるし、なんでも手伝ってくれる。たまにナイフとフォークの使い方を忘れてお肉が切れない時もある。たくさんメニューがある店で私が混乱した時は、好きなものを頼んでくれる。
病気が進行すれば、妻の負担も増えるだろう。記憶力や集中力が低下していくことは、祖母などを通じて見聞きしてきたから分かっている。最初は訪問看護師が必要となり、その後はきっと認知症専門の看護施設に入ることになるだろう。
少なくともその頃になれば、感情的な負担は何も変わらなくとも、妻の身体的負担は減らせるだろう…。
でも今はまだできることがたくさんある。私はクイズ番組が好きで、出題カテゴリーによっては出場者よりも先に答えられることも多い。基本的な質問に答えられないこともあるのにクイズには回答できる私に、妻は困惑している。
家での時間がたっぷりある今、新しい趣味も始めた。子どもの頃に好きだったけど、人生の忙しさのためしばらく離れていた詩や短編小説を再び書き始めた。
また、サイクリングが好きだった私は、今はタドポールトライクという三輪車に乗って、障害を持つ他の退役軍人たちと毎月地元のトレイルを走っている。
そして、これまで弓を持ったことさえなかったのに、アダプティブアーチェリー(パラアーチェリー)も始めた。今は、パラリンピックに出場するためにトレーニングを始めるところだ。
こうしたことは、若年性認知症の診断を受けなければやっていなかっただろう。この病気がもたらす困難の一方、私はたくさんのプラスの経験もしている。
2019年には全米アルツハイマー病協会の顧問メンバーに選ばれ、その任期中は様々な形で自分のストーリーを共有したり、大学の医学部でこの病気との付き合い方や医療を求める中で直面した困難についてなどを話す機会ももらった。私は変化を生み出し、この病気と共に生きている人や介護している多くの人に希望を与えていると実感している。
私は世界で5500万人以上いるあらゆる認知症患者を励ますため、この話をしている。私の最大のアドバイスは、「生きることをやめないで」ということ。多少の調整は必要だが、まだできることはたくさんあるのだから。
もちろん、その道は簡単ではない。でも長い道であってほしい。私のような診断を受けた後の平均寿命は約18年だと言われたが、それより長く生きるつもりだ。この病気には、考え方(マインドセット)が大きく関係している。
今ある時間を楽しんで、ずっとやりたかったけど時間がなくてできなかったことをやろう。自分の人生を突き進み、自分に何ができるのか、世界に示してやろうじゃないか。
ハフポストUS版の記事を翻訳・編集しました。
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若年性認知症と診断された私。生活は変わったが、悪いことばかりではない