作りたい女と、食べたい女と、作ったものを食べてもらえない女

夜ドラ『作りたい女と食べたい女』

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このリレー連載の話をいただいたとき、これで私も大好きな「食」の話ができる!と喜んで、なにげないことを書こうと思っていたのに、最近の「食」に関する映像や文学作品を見たり読んだりしていると、「食」には、いろんなものがあぶり出されていて、どうしてもそちらについて書きたくなってしまう

そういう意味では、前回の白央さんの「食と孤独」という言葉も、今の私に響くものがありました。 

これは、初回の私のコラムや白央さんのコラムとも続いている話だが、「食べること」には、誰かと分かち合う幸せなイメージが強く、それがすなわち「家族」や「家」へとつながることが今のところは多い。なにげなく誰かに、「ひとりで作って食べるご飯はおいしくない、誰かと食べるからこそおいしい」と言われたこともあったが、一人暮らしで自分のために作ったご飯がうまくできたとき、それは誰といようがそうでなかろうが、めちゃめちゃおいしかったりするのになと思ってしまうこともあった。

食べたいものを食べたいように作る楽しさ

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私は、ひとりで食べるご飯を作るのも、けっこう楽しいと感じる方で、自分の食べたいものを食べたいように作って、好きなだけ食べることもけっこう好きな人間だ。

『孤独のグルメ』の主人公の井之頭五郎の考え方にもつながるのかもしれないが、一人で何の気兼ねもなく、好きなものを好きなように食べるのは、食べることの好きな人にとっては、わりとそれ自体が楽しいことであったりするのではないかと思う。もちろん、人と食べるのも大好きだし、それがないのも寂しいけれど、それとこれとはまた別の魅力がある。

作ることが大好きだから、人にふるまうこともある。

最初は自分の作るものが押し付けがましくなるのは嫌だなと思っていたので、スーパーでいい肉を買ってきて、それをいいタイミングでただ焼いて皆で食べたり、その肉汁で焼きうどんを作ったりから始まったのだが、今は、もうちょっといろんなものを作ったりもしている。あまり凝ったものではなくて、かといってパパっと作るものでもなくて、ちょっと焼いたり茹でたりして、この食べ方がおいしいんだよ!みたいな気持ちで出すものが中心だ。

手作り弁当=「いいお母さん」になれる?

夜ドラ『作りたい女と食べたい女』

作ったものを誰かに食べてほしいという思いは、今、放送中の漫画原作のドラマ『作りたい女と食べたい女(つくたべ)』(NHK)と重なるところがあるかもしれない。私の場合は「作りたい女」だけでなく「食べたい女」も兼ねているが。

しかし、その『つくたべ』の中には、始まって早々に、「作りたい女」である野本さんが職場の男性に手作り弁当を食べているのを見られ、「野本さんて絶対いいお母さんになるタイプですよね」と言われるシーンがある。野本さんは、それに対して「自分のために好きでやってるもんを、全部、男のものだって回収されるのは、つれーなー」と心の中でつぶやくのである。

私が、自分ひとりで作って食べるのも好きだし、友人たちと軽く作ったものを共有することも好きなのに、「誰かと食べないとおいしくない」と言われると反論したくなるのは、この野本さんのつぶやきとリンクしているのだと思う。

“家庭的”な女性とそれを利用する男性

最近、やっと高瀬隼子さんの芥川賞受賞作の『おいしいごはんが食べられますように』を読んだ。表紙の一見、やわらかそうな雰囲気とは真逆で、中身は、複雑な感情が包み隠さずに書かれている物語であったことに驚いた。

主な登場人物は3人。ひとりは、そつなく仕事ができるが、その分損な役回りになることも多い押尾。もうひとりは、仕事は休みがちだが、いわゆる“家庭的”なところがあり、家でお菓子を作って職場で配ったりしている芦川。そして、そんな芦川さんのことを、うとましいと感じつつも交際している二谷だ。

この“家庭的”な芦川さんは、読者をざわつかせる人物である。なぜならば、芦川さんは「誰かと一緒に食べるご飯はおいしい」と思っているであろう人物であるし、女性は、男性のためにご飯を作り、家を守るべき、という性別役割分業や伝統的家族観を、いまどきまっすぐすぎるくらいに信じて、そんな理想的な暮らしを掴み取ろうと実践している人だからだ。

彼女のそういう部分に、同僚の押尾さんが敏感であるのはわかる。一般的(だと思われる)な男性は、こうした芦川さんのような女性の“家庭的”な部分を単純に喜ばしく思い、好きになって一緒に生きることが、あるときまでは(もしくは今も)当たり前だと思っていただろう。

しかし、ここに出てくる二谷は、そんな芦川さんの伝統的家族観にのっとった願い(というか欲望というか信念)を熟知していて、その欲望が自分の上にのしかかってくること知ってうとましく思いながらも、結局は利用しているところが、この小説の凄みになっていた。

凄みだと思える理由は、読んでいる私たちも、薄々は感じているこの日本の仕組みや構造のグロテスクさを、あかるみにしているからだろう。

伝統的家族観に守られたい芦川さんは、とにかく「食」にこだわるのだが、それは、よく言われる「男をつかむなら胃袋をつかめ」などという言説を信じているからだろう。その芦川さんの態度は『つくたべ』に出てくる「絶対いいお母さんになるタイプですよね」と言われる、その「タイプ」になろうと必死にもがいているようにも見える。『つくたべ』の野本さんとは対局である。

男性の胃袋を掴む努力の先にある“幸せ”

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しかし、一方で私は芦川さんのことを単純に「伝統的家族観に守られようと必死な嫌な女」と断罪できるのだろうかとも思う。今の日本の社会の中で、何も持たない(と思いこまされている)女性が、つつましくも平穏で、(この国が提示する形においての)“幸せ”に生きていくには、彼女のような「努力」をしないといけないという圧が確実に存在しているのだと実感してしまうからである。

その上、二谷は、そんな彼女の「努力」をうとましく思いつつも、彼女に性的には欲望を感じ、つきあっているのである。そこには、伝統的家族観や家父長制をうとましく思いながらも、それを利用しながら男性が生きることが、それなりにぬるく楽ちんでメリットがあるからだという構造と重なっているように見える。 

芦川さんのお菓子作りの腕は確かなもので、趣味の域を超えるのではないかというひたむきさも感じられる。しかし、彼女のお菓子は、食べられずに捨てられていた。

誰かに食べるものを作ってあげるというのはケアでもある。芦川さんのケアは、内心では疎ましがられつつも、表向きには好ましいものとして受け止めないといけないものになっていた。こうした歪な「食」の受け止められ方をこの小説から読み取ってしまうからこそ、心がざわつくけれど、夢中になって読んでしまったのだろう。

(文:西森路代 編集:毛谷村真木) 

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