「プロテニス選手になるわけない」大坂なおみさん姉妹への否定の言葉を“燃料“に変えた。母・環さんが突き進んだ道

「自分たちには何もなかった」

大阪の小さな一間のアパートに家族4人暮らし。ニューヨークやフロリダに渡った後も、公園内のコートで毎日何時間も親子でテニス漬けの日々。教える側もテニスのプレーや指導の経験がほとんどなかった。

大坂環さんの自叙伝「トンネルの向こうへ」(集英社)には、そんな環境や経済的にも恵まれない状況から、なおみさんとまりさんの娘2人をプロテニスプレーヤーに育て上げたエピソードがつづられている。当初は周囲の理解や助けも得られなかった。

「他の選択肢がなかった」と語る大坂さんと家族は、どんな道を歩んできたのか。

大坂環さんと幼少期のなおみさん(左)とまりさん(右)

プロテニス選手の「他の選択肢がなかった」

「まりとなおみをプロテニスプレーヤーに育てよう」

大坂環さんとマックスさん夫妻がそう決めたのは、まりさんが3歳、なおみさんが1歳ごろ。1999年の全仏・全米オープンで、10代のセリーナとビーナスのウィリアムズ姉妹のダブルス優勝を見たのがきっかけだった

大坂さん家族は当時、大阪府に暮らし、夫婦働きづめで貧しい生活をしていた。プロテニスプレーヤーへの挑戦は一大決心だった。

まりさんは運動能力が高く、テニススクールへの入会を認めてもらった。さらにマックスさんが自ら、2人がボールに慣れるよう「コーチ」した。

そんな生活を約2年。マックスさんの家族の事情もあり、アメリカ・ニューヨークに渡った。

マックスさんはテニスのプレーや指導の経験がほとんどなく、姉妹に独学で教えていた。無料やお金のかからない公営のテニスコートで練習に励んだ。

ニューヨークの市営公園で練習するなおみさん(右)とマックスさん(左)

恵まれた環境とは程遠かったが、プロテニスプレーヤーという壮大な目標に向かって、なぜここまで突き詰めることができたのか。

大坂さんは「他の選択肢がなかった。切り落としてしまった」と振り返る。

「この道を突き進んでいかないと、自分が今までやってきたことの意味がなくなってしまう。この道を歩いていくたびに、後ろを振り返ることはなかったですが、ちょっと後ろを振り返ると『ここまできちゃった。もう戻ることはできない』というタイミングでした。とにかく、どこにいくか分からないけど、この道を歩いていかないとだめだと。月日が経つたびに、どんどん傾倒していった」

家族にはお金も経験も人脈もなかった。

周囲の反応は冷ややかで、「お前たちは何にもならない」と心無い言葉も浴びせられた。渡米後も「せいぜいやってみな」「いけてこれぐらい」などと揶揄された。

だがその度、前に進むための力に変えてきたという。

「(2人が)テニスプレーヤーになるわけないと親や周りから色々言われるたびに、家族はもっと一致団結しました。他の人たちから否定的な言葉をかけられるたびに、火に油が注がれるように、もっとスピードアップしていった。絶対成功させるぞという気持ちが強くなっていった」

 「変なこと言われるたびに、それを薪にして、トンネルを汽車がシュシュシュッと進むためのエネルギーにして、もっとスピードアップしてなんとかなろうという気持ちでしたね」

反逆者として

著書には、自分の選択や行く手を阻まれることに抗い、立ち向かった経験がつづられている。ひとりの「リベル(反逆者)」として、特に若い女性たちに向けて書かれているという。

大坂さんは保守的な家庭で育った。進路や生活面で細かく口出しや干渉され、父親は高校で地元から離れることにも否定的だった。

マックスさんとの交際も当初反対され、国際結婚やアメリカ行きももってのほかだった。それでも大坂さんは自分を貫いた。

なおみさんとまりさんをテニスプレーヤーに育てるという夢も、疑っていた周囲を見返すように、実際に成し遂げた。

大坂さんは、そうした自身の経験に重ねながら「日本は型にはまっていないと、出る杭は打たれるところがある」と指摘する。

著書に込めた思いをこう語る。

「あなたは医者の家庭の長男だからこうあるべき、長女だからこうあるべき、会社の社長はこうあるべきとか。そういう箱から抜け出して、もっといろんな(場所に)飛び出してほしい。せっかく一度だけの人生だから、もっと勇気を持って、やっても怖くないんだよと言いたかった」

インタビューに応じる大坂環さん

アメリカの人種差別

アメリカでは人種差別的な経験もした。

ニューヨークの公営のテニスコートで親子で練習していると、警備員から無許可でテニス教室を開いていると“誤解”されたという。「親子だ」とマックスさんが言い返すと、警察に通報されたという。

「フロリダに引っ越しても、そういう差別はどこに行ってもあります。(状況は)よくなってきてはいるけど、無くならないと思います。みんな隠しているだけ」

特にそう感じざるを得なかったのは、当初から差別的言動が批判されていたトランプ氏が大統領に選ばれた時だ。

「(みんな)表面では『私は差別しない』と言うのだけど、裏では心の中では『やっぱり私は白人だから白人を守る』という気持ちがどこかにあるように思います。ただトランプ氏が、それを隠さなくていいんだという感じでアピールしたから、みんな投票したと思うんです。その時にやっぱりアメリカはこうなんだと思いました」

“マスクの抗議”はどう映っていたのか

アメリカ生活で、なおみさんたちも差別的な言動を経験してきたという。大坂さんは明かす。

「テニスの遠征先で、実際に自分たちが嫌なことをされたり言われたりしている。大会でも、白人の選手たちと(比べて)待遇やちょっとおかしいなという発言をされたりということを経験してきている」

マックスさんはハイチ共和国出身のアメリカ人で、なおみさんとまりさんは黒人のルーツを持つ。

2020年。ジョージ・フロイドさん事件で、黒人に対する人種差別や警察による暴力に抗議するBlack Lives Matter運動が再燃した。なおみさんはデモに参加するだけでなく、自分にしかできない形で抗議の意思を示した。

その年の全豪オープン。毎試合、警察などの暴力による犠牲者の名前を記したマスクで登場。決勝まで7人、用意した全てのマスクを通して追悼したうえで、優勝を果たした。

犠牲者の名前が書かれたマスクをつける大坂なおみ選手

大坂さんの目に“マスクの抗議”はどう映っていたのか。

「ハイチは黒人奴隷が最初の独立を果たした国なので、いつも私たちの中にはその(抑圧に声をあげる)スピリットがあったんです。私自身もそういう押し付けられるところから出てきたということもあって、家の中でけっこう昔から、そういう話はよくしていました」

「色々やり出したのは、本当になおみ自身のアイデアですよね」

特段声をかけるわけでもなく、娘の行動を見守っていたという。

大坂さんのもとに父親から「(なおみさんが)なぜそんな行動をしたのか」と電話がきた。誰かにやらされているのではという情報を見たと告げられ、こう返したという。

「『違うよ、そんなことない、なおが自分で考えたんだよ』と伝えて。その後なおともう一回話をして『自分で思いついてやった』と言ったので、『それはいいアイデアだったね。いいんじゃないの』と(なおみさんに)伝えたぐらいです」

大坂環さん(右)、なおみさん(中央)、マックスさん(右)

ハイチから世界へ

大坂さんとマックスさんは、娘2人をプロ選手にするという夢を叶えた後も、ハイチで子どもたちのサポートや選手育成に取り組んでいる。

2人は1999年、住まいや生活のサポート、教育やスポーツの機会を提供する目的で、テニスアカデミー「Osaka Foundation」を立ち上げた。

現在は全寮制の生徒約20人、さらに200人ほどの生徒が通っている。プロ選手の育成や、日本やアメリカの学校に行く機会をサポートをしていると、大坂さんは説明する。

「今は学校というよりも、コミュニティセンターのようになっています。プールやテニスコートも6面あって。一大公共施設みたいになっています」

かつてなおみさんが所属していた、スポーツ選手の育成やマネジメントの名門『IMGアカデミー』の「ハイチ版みたいな感じ」。ハイチから世界で活躍する選手や人材を輩出する拠点を目指している。

マックスさんが主にテニス面をサポートしてきたのに対して、大坂さんは長年働き詰めで、経済的に家族を支えてきた。長く走り続けてきたが、まりさんとなおみさんも独り立ちした。

「何十年も1日中働いたから、いまは自分の老後じゃないけど、ゆったりした生活をしたい。ちょっと一息させてという感じです」

いまは、自宅のあるフロリダで、ゆっくりとした時間を過ごしたいとも考えている。

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Rio Hamada