「なぜこの柄なのか……」帝国ホテル大阪の椅子に書かれていた160年前のアイルランドの論文。その謎を追った【2022年上半期回顧】

2022年上半期にハフポスト日本版で反響の大きかった記事をご紹介しています。(初出:6月5日)

高級ホテルの代名詞「帝国ホテル」の客室にある椅子の謎が注目を集めている。

きっかけは、古代ギリシャ研究家の藤村シシンさんが「大阪の帝国ホテルの椅子の柄がアツい」とのコメントとともにTwitterに投稿した写真。

帝国ホテル大阪(大阪市)の落ち着いた雰囲気の客室に、筆記体の英文がぎっしりと書き込まれた柄の椅子が佇む。

帝国ホテル大阪の「謎の椅子」

この英文の中に、“Esq[r]”(rはEsqの右肩に小さく記す)という珍しい単語を見つけたという藤村さん。

何が書いてあるのか疑問に思い、椅子にプリントされた文章を読んで検索してみると、「160年前のアイルランド考古学の論文集の一節だった」とわかったいう。「なぜこの柄なのか……アイルランドの椅子なのか!?余計眠れないぜ」と夢中でコメントした。

この投稿には800件以上のリツイートと2000件以上の「いいね」が殺到したものの、謎は解けないままだった。

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160年前のアイルランドの論文が、なぜ高級ホテルの一室に現れたのかーー。

ハフポスト日本版は藤村さんや帝国ホテル大阪に詳細を尋ね、謎を追ってみた。

「有名小説の一節なら、まだわかる」

藤村さんは出張のため帝国ホテル大阪に宿泊した。

「豪華でクラシックな雰囲気の部屋の中で、アルファベットが所狭しとプリントされる椅子は、異質の存在感を放っていました。ベットでくつろいでいると、ちょうど目が行く位置に椅子があり、気になってよく見てみたんです」

すると、椅子の背もたれの両面や座面に“Esq[r]“(エスクワイヤ)の単語を見つけた。Esquireの省略形だ。

藤村さんによると、エスクワイヤは古めかしい表現の敬称で、功績のある男性に使うものだという。藤村さんは古代ギリシャについて調べる中で、英語の古い文献を読んだときなどに、エスクワイヤの意味を知ったそうだ。

「エスクワイヤにはかっこいいイメージがあったので、発見してテンションが上がりました。古い言い回しなので、100年ほど前の英文だろうと見当はついていましたが、特に深い意味はない文章だと思っていました」

藤村さんは帰宅後、椅子にプリントされた“Henrry Pretty Esq[r]”などの語をGoogleで検索。すると、アイルランドの都市キルケニーや国内の南東部についての考古学の論文集が見つかった。1864年にダブリンで発行された論文集で、椅子にプリントされていた英文と一致する論文があったという。

「『ハムレット』や『風と共に去りぬ』のような、有名な小説の一節ならまだわかります。でも、一体なぜ論文集なのか、なぜ鉱山についての堅い内容の論文を選んだのか。謎が謎を呼びました」

「アイルランドの椅子」じゃなかった

謎の椅子について、帝国ホテル大阪にも尋ねた。

ホテルの担当者によると、この椅子があるのは「インペリアルフロア」と呼ばれる高層19〜24階の「スーペリア」「デラックス」(スタンダード)の全ての部屋。

特注品のため、ここでしか見られないインテリアだという。椅子の足や生地が劣化した場合、その都度、付け替えるなどして、1996年のオープン当時から使い続けているそうだ。

特定のメーカーの製品というわけではないが、生地の生産は国内の織物店が手がけているとのこと。「アイルランドの椅子」ではないのは確かなようだ。

担当者は「柔らかすぎず固すぎず、長く座っていても疲れづらい椅子です。デスクワークにも向いています」と話す。

それでは、なぜ、この椅子には160年前のアイルランドの論文がプリントされているのだろうか。

担当者は「帝国ホテル大阪は館内全てのデザインを、アメリカの有名デザイナー、ロバート・バリーさんに願いしました。何らかのコンセプトで客室を作ってくれたのは確かですが、椅子に論文をプリントした意図は『バリーさんのみぞ知る』といったところでしょうか」と説明する。

実は担当者自身も、椅子の英文がアイルランドの論文だったことについて「これまで全く気付きませんでした」と話す。「とても驚きました。160年前の時代の雰囲気を、部屋の中に持ち込もうとしたのでしょうか」と憶測する。

「鑑賞者の心の反応が、作品を完成させる」

バリーさんの代理店、SFEIR-SEMLER GALLERY(ドイツ・ハンブルグ)は、バリーさんのことを、こう紹介している。

ロバート・バリーさん(1936年、ニューヨーク生まれ)はアメリカ在住で、同国の「コンセプト・アート」を代表する1人。文字や言語の助けを借りて、芸術的なアイデアを練り上げることができる人物です。

バリーさんは、書き言葉によって領域を定義し、配置する「ワード・ワーク」を始めました。壁や床などに孤立した書き言葉が掲げられ、突然、鑑賞者に接触します。そのときの鑑賞者の心の反応が、作品を完成させるのです。

どうやら帝国ホテル大阪の椅子も、バリーさんの得意な「ワード・ワーク」の一環のようだ。プリントされた英文や単語を見た宿泊客に何かを思わせたくてデザインしたとみられる。

「まんまと思惑に」

ハフポスト日本版は、この椅子の詳細を藤村さんに伝えた。

藤村さんは「日本人のデザイナーが『おしゃれ』かどうかだけで選んだデザインだと思っていたので、英語圏の人物がエスクワイヤの意味をわかった上であえて昔の論文を選んでいたのだとしたら、予想外です」と驚く。

「帝国ホテルは国際的に有名なホテルチェーンで、英語母語話者の宿泊客も多いでしょう。その中には、椅子を見てエスクワイヤが気になった人も少なくないはず。それを狙ってデザインしたのでは」と分析する。

「私も含め、宿泊客がエスクワイヤに目を奪われてしまった時点で、まんまとバリーさんの思惑にはまっていたようですね」

謎解きに協力してくれた古代ギリシャ研究家の藤村シシンさんが「この椅子と同じく、『じっくり見つめると、違ったものが見えてくる』という世界を描いた本があります」と紹介するのは、藤村さんの著書『古代ギリシャのリアル』(実業之日本社)。

「古代ギリシャというと、堅くて難しいイメージを持つかもしれませんが、裏側にはまた異なる世界が広がっていることが、この本でわかるはずです」

〈取材・文=金春喜 @chu_ni_kim / ハフポスト日本版〉

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